悲劇の体験語る/元開拓団員 川島さん

2009年10月22日


満州での体験を語る川島淳子さん=甲賀市水口町日電




【記録映画「嗚呼 満蒙開拓団」、大津で30日まで】


 戦時中、国策によって中国・満州に送り込まれた移民を描いた記録映画「嗚呼(ああ) 満蒙開拓団」が、大津市京町3丁目の滋賀会館シネマホールで上映されている。映画に登場する人々と同じように、「甲賀郷開拓団」の一員として16歳で満州に渡った川島淳子さん(80)=甲賀市水口町=に終戦前後の満州の様子を聞いた。(八百板一平)


【愚かな戦争、国策の犠牲に】


 川島さんが父母と2人の妹、弟の一家6人で水口から満州に渡ったのは1945(昭和20)年3月。戦局の悪化とともに食糧事情は悪化し、水口でも空襲で都市部から焼け出された人の姿が見られるようになった。


 「満州では子どもの頭ほどの芋がとれる」「広い家が手に入る」。県からのふれ込みや知人の勧めに、理髪店を営んでいた父は移民を決めた。


 列車と船を乗り継ぎ、一家がたどり着いた開拓村は、朝鮮、ソ連との国境地帯の街・琿春(こんしゅん)近郊の長嶺子(ちょうれいし)だった。


 約50人が暮らす村には20軒ほどの長屋が建ち、れんが造りの事務所もあった。少し離れた所に広がる農地は、現地の住民から取りあげたものだと聞かされた。毎朝、父と畑に出かけ、牛馬を使って大豆やトウモロコシを育てた。慣れない農作業は大変だったが、「自給自足の生活で、のんびりしたものだった」と振り返る。


 だが、8月9日のソ連参戦で環境は一変した。


 「ここにもソ連兵が来るかもしれない」。衣服や通帳など身の回りの品だけを抱え琿春に向かった。近隣には混乱の中で住民が集団自決した開拓村もあったという。


 琿春から避難民を満載した貨車に揺られ、100キロ以上離れた延吉(えんきつ)の街へ。そこで終戦を迎え、再び徒歩で琿春を目指す――。安全な場所を求めて一家は広い満州をさまよった。食糧は底をつき、母は寒さと栄養失調のため終戦後に琿春で亡くなった。


 昼夜を問わず歩きどおしだった当時の光景を今も鮮明に覚えている。


 延吉から琿春へ向かう途中、一家は日本人捕虜の隊列とすれ違った。「滋賀県の人はいないか」。捕虜たちは川島さんらに何度も呼びかけた。「シベリアに送られる途中だったのか、家族への伝言を頼む人もいたようです」


 兵士の遺体が散乱する峠で一夜を明かしたこともあった。死臭が漂う中、日本兵の鉄兜(てつ・かぶと)を使って煮炊きをし、畑から盗んだジャガイモをかじって飢えをしのいだ。


 一家5人が日本に戻ったのは46年10月。終戦から1年2カ月たっていた。「多くの人が開拓移民という、やけっぱちみたいな国策に翻弄され、犠牲になった。本当に愚かな戦争だった」


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 「嗚呼 満蒙開拓団」は中国・大連生まれの羽田澄子さんが監督。元開拓団員らへのインタビューを通して悲劇を描く。滋賀会館での上映は30日まで。問い合わせは滋賀会館シネマホール(077・522・6232)へ。


《キーワード》


 満蒙開拓団・・・1931(昭和6)年の満州事変以後、日本政府の国策によって満州(現在の中国東北部)や内モンゴルに送り込まれた移民。終戦までに全国各地から約27万人が送り込まれ、ソ連軍の侵攻や敗戦の混乱で約8万人が亡くなったとされる。「滋賀県史」などによると、滋賀からの移民は1700人以上に上る。