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なぜ日本人は成熟できないのか

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なぜ日本人は成熟できないのか

曽野綾子・クライン孝子
平成15年4月10日 海竜社


愛国心は身を守る必需品

曽野綾子

敵が攻めて来たら逃げる、という日本人が多いのも無理はありません。「自分の損になることは黙っているな」とか「自分の欲望を満たすのが市民としての権利である」とか教わった子供たちが大人になったのですから。しかし人間は、一人で生きているわけではない。自分と家族があって、村や町があって、社会がある。それは国家しか守りきれない。他の形でやってください、といっても、ほかにはないのです。

昔は、日本にも隣組というのがあったけれど、それも戦争とすぐに結びつけるから悪いものになってしまった。愛国心といえば、目くじら立てて論議する。しかし愛国心というのは、それを利用するとか、特別に持たなければならないとかいう余裕のあるものではなく、ほんとうは生活の必需品なのです。たとえれば、ナベカマや包丁のような日用雑貨みたいなもの。他の国から自分たちを守るためには、いいも悪いもな
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く、愛国心を持つほかはないんです。

私はシンガポールで年に数週間幕らしていますが、シンガポールでは、朝の放送は各チャンネルとも国歌で始まります。シンガポールは多民族国家で、宗教もキリスト教、イスラム教、ヒンドゥ教、仏教などが混在しているから、始終、いろいろな問題が起こっている。

この前も、小学生が学校へ着て行く制服のことで、学校側とイスラム教徒が操めていた。タリバンが女性たちに強制していたというブルカは有名になりましたが、イスラムの女性たちがかぶるスカーフをして登校する生徒がいて、学校がそれを着用することを禁止したのです。しかし何人かのイスラム教徒が抗議した。父親の一人は、そういう学校なら登校させず、家庭教師を雇って家で勉強させる、と言っているし、どうしてイスラム教徒だけが規制されるのか、シーク教徒はターバンを巻いて来るのが許されているじゃないか、という大論争をしていた。それほど民族も宗教も違うから、国家の観念でまとめるしかないわけです。

日教組は、君が代も日の丸も認めなかった。戦前の軍国主義に利用されたものであり、「血塗られた旗」だから拒否する、と言った。そう思わなかった人も、その考え
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に妥協したのです。そして長い間、おそらく世界で日本だけが、生徒たちに国歌と国旗に対する尊敬の念を表す姿勢をとることを教えなかった。

私は、アフリカの小さな国によく行きますから、日教組的日本人とは、なんと苦労知らずなのだろうと思うことがある。たとえば宗主国がフランスであっても、田舎に行ったら誰もフランス語を話さない。こちらは、土地の言葉がわからない。意志疎通は、ほとんど不可能です。子供の頭を撫でたり、赤ん坊を抱くことさえ禁忌の土地もある。頭は神だけが宿る場所だと考えられているから人が触れてはならず、外国人というのは「悪魔の眼」を持っているとされているから、じっと見ることもできない。後で赤ん坊が死んだりすると私たちのせいになるから、赤ん坊がいたら、それとなく無視するのが礼儀になる。

では、どうすればその人たちに「あなたの敵ではありません。むしろ、お友達になりたいと思っています」と伝えられるのか。その時にできるのは、その国の国歌と国旗に対して敬意を払うことだけなんです。

現実には、その国の大統領は独裁者で、国民の自由を認めず、反対派を情け容赦なく投獄し、国の財産をほしいままにしているかもしれない。しかしそのことと、国歌・
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国旗に礼を尽くすというのとは、まったく別のことです。国歌・国旗に対する礼儀は、その国の国民に対して見せられる敬意の印なのです。そういう行為が、どこへ行っても自然にできるようにしておかなくてはいけない。

途上国でも先進国でも、自由主義国でも社会主義国でも、公式行事が行われる場所はもちろん、役人をはじめ会社や財団の役員、そのほかいささかでも公的な役目を負った人たちの執務室には、非常に多くの場合、国旗が飾られている。自分たちが国歌と国旗が嫌いだからといって、他人の国歌と国旗を認めないというのは無礼千万なのです。だから日本も、子供の頃から自国の国歌や国旗に慣れ親しませることでそれらに対する礼を尽くすことを教育すべきだと思う。

どうしても日の丸・君が代はいけないとおっしゃるのであれば、デザインや歌詞や曲を変えればいい。けれど、みんな意見がバラバラで、まとめるのがきっと大変ね。私など、絵が下手ですから、ハトだとかワシだとかが羽を広げた絵の国旗にされたら、描けなくなって困りますよ、ほんとに(笑)。
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民主主義への盲信

曽野綾子

国民が一人でも他国に拉致されたら取り戻す、というのは、封建領主的感覚がいい意味で残っているからだと思う。封建領主というのは、マンパワーが命ですから、領民が一人でも奪われたなら必ず取り返してくる。

日本は、民主主義に反することは全部拒否してきたから、そういう感覚がないし、強いリーダーも現れなくなった。「独裁者」という観念を日本人は忌避しているけれど、その一方で指導力に欠けることは悪いことだという概念を持っている。しかし指導力というのは、多かれ少なかれ独裁的な要素を含んでいる。それを承認しようとはしないのです。たぶん、「いい子ちゃん」ぶる人が多いからでしょうね。

民主主義を理想とすることはいい。しかし、世の中はそんなに理想通りにはいかないものだ、ということを認識すべき時にきているように思います。
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二十世紀に、私たちはあまりにも民主主義を信じすぎた。日本の知識人でも、世界は民主化の方向に動いている、いや動くべきだと信じている人がいる。しかし、それは実態をまったく見ていない証拠です。私は、途上国を歩いているうちに、電気のない土地では、民主主義はまったく機能しないということを発見した。電気がない土地では、立候補者の政見を同時に、同じ正確さで伝えることができないんです。正確で素早い集計もできない。そのような土地では、今なお族長支配が行われている。

もし民主主義がいいというなら、私たちは、まず電気を確保しなければならなかった。もし民主主義が、勉学、就職、移住、表現などの自由に必要なら、道も、鉄道も、空港もなくてはならない。それらを作ったのは、すべて土木屋たちだった。日本人はそれを利用しながら、彼らに感謝するどころか環境破壊者扱いして、「地球にやさしく」などと言う。

「木を伐ってはいけない」と言うけれど、アマゾンの自然林の中では、昼間でも蚊柱が立ち、蚊帳を吊らなくては食事もできなかった。蚊や虫にさされて掻きむしっているうちに、体の弱っている人は皮膚が化膿してきて治らない。

これは私も経験したのですが、草むらにはダニがいて、草地を歩くと、夜も眠れな
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いほど脚が痒くなる。蚊や蛇がいて、白然の暑さ寒さや湿度を防ぐ術もなく、水道も電気もなく、医療機関もほとんどないという状態で暮らしたことが一度もないから、「人間は自然と共存すべきだ」などと簡単に言えるのです。開発が行われた背景には、人間が自然の脅威に脅かされた歴史がある。そこから脱出しようとして、人間は知恵を絞ってきた。環境の変化を最低限に抑えることは当然ですが、開発と名のつくものは人々の命も辛せも守っている。その点を忘れて論議するから、無責任な観念論がまかり通ってしまうのです。

話を戻しますが、アフリカなど多くの国は、植民地支配から独立した。しかし二十~三十年経った今も、ほとんどの国が「じり貧」です。いまだに部族対立、貧困、失業、飢饉、エイズの蔓延などの深刻な問題に直面している。むしろ、独立してからの方が生活の程度や部族間の対立が悪くなっているように見える国が多い。

植民地主義もよくなかったけれど、独立し、民族自決主義を採っても彼らは泥沼から這い出せないでいる。しかし、植民地主義も当時としてはなかなかよく考えられた制度であってそれなりによかったところもあったとか、民主主義にも欠陥がある、などということは、日本の多くのマスコミや進歩的文化人は決して言わない。途上国が
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まだ完全に自立できないのは、やっぱり長い間の植民地主義のせいだ、とそこに話を持っていって安心する。けれど、それでは説明にならない。

インドの階級制度は法的にはないことになっていますが、現実には、今なお、生まれた時から階級によって職業が決められている場合が多い。就職や結婚について、自分の意志を通せる人など、高度教育を受けることができた特権階級の人たち以外は、ほとんどいません。

世界的に見ても、人種差別は基本的に、まったく解決されていない。アメリカは自由平等だといっても、WASP(白人でアングロサクソン系プロテスタントの略称)の支配がある。おもしろいことに、日本人は「人種差別はいけない」と言う時、自動的に自分を「差別する側」に立たせていますが、世界ではまだ黄色人種として白人から侮蔑されている側にいるんです。もちろん日本人がしばしば経済的先進国の人間として、白人扱いされていることは事実ですし、日本ではそれを自覚することも、差別の結果に困らされることもない。しかし、今のところそれで済んでいる、というだけなのです。

私の印象では、前世紀は、戦後の人道主義、平和主義、平等主義、自然主義などの
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幼児的理想主義が幅を利かしてきた時代だった。しかし今世紀は、現実と乖離したうそのしわ寄せや弊害が一挙に吹き出る時代のような気がする。

それらをどうやって乗り越えるか。それは、現実を正視して、甲高い声で叫ばれた理想論からどれだけ脱却し、円熟した大人の見方によって、いささかの悪を容認しながら、どれくらい地声でものを言えるようになるか、ということにかかっていると思います。
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