15年戦争資料 @wiki

住民のスパイ視

最終更新:

pipopipo555jp

- view
管理者のみ編集可
沖縄戦と民衆(目次)
I 沖縄戦への道
 3 緊迫化する軍民関係

p92

住民のスパイ視


p93
沖縄にスパイが潜り込んでいるから警戒せよという注意はくりかえしなされていた。白人や黒人のアメリカ人が沖縄にいれば、それだけで目立ってしまうので、それはアメリカ人のスパイが潜り込むというよりも、住民のなかにスパイがいるというものであり、住民を相互に監視させようとするものだった。

村の警防団はそのスパイ探しの役割を与えられた。高嶺(たかみね)村国吉(くによし)の警防団副団長をしていた大湾朝次郎さんの証言によると、一九四四年九月ごろから「スパイ、スパイと喧しかった」。「知らない人、初めて見る人が、道を歩きながら紙切れと鉛筆で字を書いているものはすべて、スパイ疑いで捕らえろという命令でした。それから十九年の十一月頃から、こういうものをあなた方が処理できない場合は、軍に届けなさいという命令があったんです。(中略)それからちょっと頭の足りない人がおるでしょう、そんなものまでつかまえて連れて行かれましたが、そういうのも多かったですよ」(県史I―八六三頁)という。

十・十空襲のときからすでに日本軍は、スパイが侵入しているという疑いを持っていたようで、秘密戦の部隊である第三遊撃隊の隊長だった村上中尉は、「スパイが侵入して、ビラがまかれているという情報が入った。この混乱で、これ以上住民を動揺させてはいかん」と那覇市内を巡察して「スパイ狩り」をおこなおうとした。その命を受けた隊員の山川文雄さんは「避難民にそれとなく話しかけてみた。『ビラらしいものをみたか』『今日の空襲について、どんなうわさがとんでいるか』。何とか探り出そうとしたが、それらしいデマの実態はつかめなかった」と結局、スパイを摘発することはできなかったようである(『護郷隊』一二五~一二六頁)。

第三二軍司令部は四四年一一月一八日に「報道宣伝 防諜等に関する県民指導要綱」を策定している(本部I 一〇一六頁~一〇一九頁)。

この要綱は、「六十万県民の総決起を促し総力戦態勢への移行を急速に推進し軍官民共生共死の一体
p94
化を具現し如何なる難局に遭遇するも毅然として必勝道に適進するに至らしむ]ことを「方針」としたもので、そのなかの一つの重点が「常に民側の真相特に其の思想動向を判断し我が報道宣伝の効果、敵側諜報宣伝、謀略の企図及び内容の探査等敵策動に関する情報収集に努め敵の諜報、謀略並に宣伝行為の封殺に遺憾なからしむ」というように、住民の思想動向を調査し敵のスパイ活動を封殺することであった。そのために軍は県当局とも密接に連絡して「管内民情」を調べ、「各町村の保甲制度化」によって「行動不審者発見」「防諜違反者の取締」を強化することなどが企図された。

なお全国的にはすでに四四年一〇月四日に内務省が「内務省総動員警備計画」を策定しており、そのなかで「流言蜚語の取締に付ては流言蜚語発生の素因に対する内偵警戒を厳にし町内会、部落会等に対し流言蜚語の原因となる虞ある電話、書信の防止其の他必要なる指導の徹底を図り之が未然防止に努むると共に流言蜚語の発生したる場合は早期に之を発見鎮滅し其の伝播を防止すべし」(第二十三条)、「(前略)反戦、反軍其の他不穏策動を為す虞ある者の発見に努め必要に応じ予防検束」をおこなう(第二十四条)など、国民の反戦反軍的な言動の取締り強化に乗り出していた(本部1 一〇二〇~一〇二九頁)。第三二軍はそうした内務省の方針をうけた県当局と協力して、住民をスパイ視し取り締まろうとしたのである。

流言蜚語の取締りの例としては、四四年一一月の中ごろから国頭の名護町周辺で「独ソ停戦協定成立せり」という流言が流れ、名護憲兵隊が名護町収入役ほか四名を検挙した例がある(第三二軍陣中日誌一二月一五日、沖縄40)。この独ソ停戦という噂が広がって、「民家に於てお祝ひ気分で一杯」あげた者もあったと憲兵隊は各部隊に注意を促している(一一月二六日駐屯地会報、沖縄368)。

住民をスパイとして疑う場合に、沖縄では多かった移民帰りの人たちが疑われる対象になった。すで
p95
に四四年八月三〇日の時点で、戦闘計画を作成した独立混成第一五連隊は、「敵上陸の機近迫するや沿岸住民の動向に注意し敵第五列の活動を封ず」、「島嶼及北米南方占領地域に在留する者の家族は敵に利用せらるゝ顧慮大なるを以て開戦と共に抑留し敵の利用を阻止す」(沖縄137)と定めている。

またその直前の二六日の独立混成第四四旅団の「副官会同」では、「サイパン島よりの引揚家族に対する防諜上の取締監視調査は直接には憲兵隊にて之に当る筈」と憲兵隊がそうした人々の取締りをおこなうことが指示されている(沖縄182)。

移民帰りの人には、すでに太平津戦争が始まってからまもなくの一九四二年に警察署への出頭命令が出されて呼び出されており、太平洋戦争の開始当初から彼らは要注意人物としてマークされていた(浦添5-七頁)。

スパイの活動として信号弾を使って何か連絡をとっているのではないかという疑いがかけられたこともあった。「(四四年)七月以降沖縄本島方面に出所不明の信号弾に関する情報多々あり軍は其の出所を探査」していたが、ようやく「憲兵隊の異常なる努カに依り何れも星光、月光、友軍飛行機の翼燈航空機誘導燈友軍信号燈(弾)自動車前照燈、ランブ燈、焚火、魚火等を誤認せるものと判明せり」と、杞憂であったことが確認されている(第三二軍参謀部陣中日誌、一一月一日、沖縄40)。

戦後まとめた「第三二軍史実資料」(沖縄37)においてもこの問題について触れられているが、「状況の緊迫すると共に峰火光事件頻発し且敵潜水艦に依る沖縄人間諜の潜入説等喧伝せられしも各部隊及憲兵隊の努力は之が確証を挙ぐるに至らざりき」と確証がなかったとしている。

座間味島に駐屯していた海上挺進基地第一大隊に所属していたミヤシタクラジの日記の四四年一一月一日に、次のような記述がある。監視所から、この三、四日間の夜、島と海上の何か所かで信号灯が見

※(沖縄137)
※(沖縄182)
※沖縄40 第三二軍参謀部陣中日誌

p96
えたという報告があった。さらに今日、阿真方向に二、三〇の火が見えた。そこで約六〇名が捜索をおこなった結果、その火は島民が完全に消さなかった火の残り火にすぎないことが判明した。風が吹くと、その火が大きくなったり小さくなったりして信号灯のように見えただけだった(C-C Trans 34 Bull 161/45, 27 June 1945, 英文より翻訳 WO208/1010)。なお彼は同じ日の日記のなかで、「地元民は軍人に対して悪い感情を持っている。そして日がたつにつれ、その感情が行動にあらわれてくる。ここは不愉快な場所になってきた」とこぼしている。

日本軍は、一方では沖縄の住民を徹底して動員利用しながらも、他方では沖縄に来た早い段階からスパイが住民のなかに紛れこんでいると考えて、住民を疑いはじめていたのである。

こうした軍の住民に対する疑いの目は将兵たちにも伝わっていく。中飛行場にいた部隊のなかで、四五年に入ると「住民のあいだにスパイが混じっているという噂があちこちに起った」という(飯田邦光『沖縄戦記』九三頁)。

こうした意識は軍だけでなく、住民のなかにも広がっていた。読谷にいた宮平良秀さんによると、ある日、片足が義足の男が恩納方面からやってきて、役場前の店で休んでから嘉手納方面に立去ったことがあった。すると「あの男はスパイで義足の中には機密書類が隠されていたと云う噂がパッと広がっていた」。また「小高い丘の上でジーツと海を見つめていた男がいたとあたかもスパイがいたと云うような噂が広がっていた」という(宮平良秀『戦場の村』三八頁)。

住民のなかにも知らない者をスパイ視する意識が浸透していくことになった。このことは日本軍がやってきてから生まれた意識ではなく、内務省の方針の下で、県当局や警察が、地域の警防団などを活用しながら住民を相互に監視させ防諜に努め、早くから移民帰りを警戒の対象にしていたことなどから培
p97
われてきていたものだった。そうした上にたって日本軍による住民スパイ視、スパイの名目による住民虐殺などがおこなわれ、しかもそこに住民が加担していくという事態が生まれてくることになるのである。







,
目安箱バナー