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1970年3月赤松来沖時の報道

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1970年3月赤松来沖時の報道



突然自衛隊の高官 戦場の跡を軍事視察?

1970年3月24日沖縄タイムス9面
赤松氏来沖と祖国復帰に伴う自衛隊問題とは深層で結びついていると、当時は疑う向きもあった。沖縄紙にはその頃自衛隊関連の記事が多い。那覇空港での阻止行動はそうした背景の元に行われたと思われる。
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再び兵隊の供給地か 防衛庁 意識的に"沖縄兵"帰す

1970年3月25日沖縄タイムス3面
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左端
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えぐり出される傷痕 渡嘉敷島

金城重明、赤松嘉次インタビュー
1970年3月27日沖縄タイムス8面
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忘れられぬ戦争の悪夢 赤松元海軍大尉が来島

(付)玉井村長談話、「渡嘉敷島戦闘の概要」抜粋
1970年3月27日沖縄タイムス9面
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"集団自決 命令しなかった" 赤松元大尉が来沖

1970年3月27日琉球新報9面
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沈黙の巡拝行

1970年3月27日琉球新報夕刊3面
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きょう慰霊祭 渡嘉敷村 "集団自決"論議再び

1970年3月27日琉球新報夕刊3面
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赤松元大尉、ついに雲がくれ

1970年3月28日琉球新報夕刊3面
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渡嘉敷島 悲しみの慰霊祭

1970年3月29日沖縄タイムス11面
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"悲劇のナゾ"混とん しめやかに25回忌慰霊祭

1970年3月29日琉球新報11面
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真相はほかにある!

記者会見する赤松氏
(付)教職員会激しく抗議
1970年3月30日琉球新報7面
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自決命令下さなかった だが責任は私に 赤松氏が記者会見

25回目の合同慰霊祭 渡嘉敷島の表情 過去は忘れたい

1970年3月30日沖縄タイムス7面
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悪夢よみがえる思い 白玉之塔慰霊祭

1970年3月30日琉球新報3面
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参考:曽野綾子「ある神話の背景」より

(WAC版「渡嘉敷島 集団自決の真実」P196-7から)
このことに関しては更にもう少し述べる必要があろう。私の手許(てもと)に、当時の渡嘉敷村長・古波蔵惟好氏の手記があるが(※)、その中に次のような一項がある。

「部下の連下政市氏も隊長だった赤松への忠誠のつもりか、赤松と同じく『真相は別にある。これを言えば村民への影響が大きい』とあたかも自決は村民の間に責任があるかのように恐喝(きょうかつ)めいたことを放言して、今となって責任を転嫁しようとしている。マスコミに追及されて、そうでも一時的方便として言わないと、自分たちが、沖縄から帰れないとの恐怖と心の動揺による錯覚した言葉だったではないでしょうか。こんな破廉恥な言葉を信じるような、世間の人は愚者でないことを彼らに説教したい」

この点に関しては、もと赤松隊員の連下政市氏と谷本小次郎氏からの回答があった。

「軍が命令を出していないということを隊員があらゆる角度から証言したとなると、遺族の受けられる年金がさしとめられるようなことになるといけない、と思ったからです。我々が口をつぐんでいた理由はたった一つそれだけです」

厚生省の話によると、一旦調査が決定したものは再びその資格を剥奪(はくだつ)されることはない、というから、今やその点も伏せておく必要は全くなくなったのである。
※ この「手記」が、新聞掲載のものかどうかなど、どのようなものであるかは不明。


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