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戦隊長殿!いったい何処へ向えばイイのでありますか? 3月25日「転進命令」の怪

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pipopipo555jp

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戦隊長殿!ジブン達は一体、何処へ向えばイイのでありますか?

3月25日渡嘉敷島で受信したという「転進命令」の怪

赤松嘉次「戦隊長」が証言する「行き先」がクルクル変るので、防衛省公式戦史すら分裂症に陥ったまま放置されています。もちろん特幹生たちの霊は、戦隊長が伝達する軍命令の転進先がクルクル変るので、64年経っても冥土へ出発することすら出来ず、未だに渡嘉志久の浜に留まっているのでしょうか。

1、1945辻版『陣中日誌』では
「転進命令 軍並ニ軍船舶隊ヨリ部隊(戦隊ノミ)那覇ニ転進命令ヲ受領ス」
2、1945日録の大本営作戦部『戦況手簿』では、
「一、慶良間列島附近ノ敵ニ対シ海上挺進部隊ヲシテ之ニ打撃ヲ与フルト共ニ那覇ニ転進スル如ク部署ス」
3、1946.1赤松嘉次提出『戦史資料』では、
命令の要旨 「状況有利ならざる時は戦隊を率い本夜中に本島に転進すべし」
4、1946.3『殉国日記』に寄せた赤松嘉次著『渡嘉敷戦斗ノ概要』では、
「軍命令ならびに団長の意向に依り途中の敵を撃破しつつ本島に転進し本島に於て海上作戦を行ふに決す」
5、1946.3中島幸太郎氏が書き写して『殉国日記』に収録した、赤松氏自宅在『部隊長戦場日記』では、
「軍並ニ軍船舶隊ヨリ部隊(戦隊ノミ)ニ対シ那覇ニ転進会合ヲ受領ス」

ここまでは、転進先は那覇もしくは本島なのに、赤松氏は1966年ごろ防衛研修所戦史部の聴取を受けたとき、突如として転進命令の行く先を「糸満附近」だと強く主張した模様です。

戦史部はそれに折れたのでしょうか。戦史叢書では以下のように「糸満」を主説とし、「那覇」説を注記で記した副説としています。

6、1968「戦史叢書・沖縄方面陸軍作戦」では、
赤松戦隊長は軍司令部に渡嘉敷島の情況を報告すると共に今後の処置について問い合わせたところ、二十五日夜軍司令部から『敵情判断不明、戦隊は情況有利ならざるときは本島糸満附近に転進せよ、転進の場合は糸満沖にて電灯を丸く振れ』の指示電報があった。

注:軍司令官は既述のように二十五日午前慶良間列島に米軍が上陸したとの報(誤報)を受けており、二十五日慶良間の海上挺進戦隊に転進を命じた。
大本営陸軍部第二課の戦況手簿は二十五日の情況欄に『慶良間列島附近ノ敵ニ対シ海上挺進戦隊ヲシテ之ニ打撃ヲ与フルト共ニ那覇ニ転進スル如ク部署ス』と既述している。
これは「公刊戦史」ですから、爾後、多くの著作物において主説である「糸満転進」が無意識に引用されているものと思われます。

なお戦史叢書の「慶良間列島の戦闘」全体を読めば、この25日の無電による「軍司令部による転進命令」を聞いたのは、軍司令部に問い合わせをした第三戦隊のみだったと理解できます。


さて、このように「糸満転進」命令説を押し通した赤松氏は、その後はどうしたのでしょうか?

7、1970年の赤松隊の戦友会谷本伍長がまとめた『海上挺進第三戦隊陣中日誌』では、
二一三○ 船舶団本部より下記命令を受領。
「敵情判断不明、慶良間の各戦隊は情況有利ならざる時は所在の艦船を撃破しつつ那覇に転進すべし。那覇港到着の際は懐中電灯を丸く振れ船舶工兵之を誘導収容す。」
なんと、転進先は何の説明も無く「糸満」から「那覇」に戻されてしまったのです。こっそりと、だともいえます。これでは、大本営の記録を引っ込めまでして赤松氏を尊重し、敢えて「糸満」を主説とした公刊戦史編集者の面目丸つぶれです。

というか、同一人物の記憶と主張がこれ程クルクル変る例はめったに無いのではないでしょうか? しかもこれは、渡嘉敷島にいた海上挺進第三戦隊そして配属部隊の将兵の運命を決めた軍司令部命令に関することです。もちろん、玉砕を迫られた女性、子供、老人たちの運命までが、僅か25歳の司令官のシビアリティーのない記憶によって差配されていたことを思うと、余りにも痛ましいとしか申し上げようがありません。



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