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赤松嘉次「渡嘉敷戦斗ノ概要」 昭和二十年十一月沖縄収容所に於て

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赤松嘉次「渡嘉敷戦斗ノ概要」 昭和二十年十一月沖縄収容所に於て




解説


「渡嘉敷戦斗ノ概要」は、海上挺進第三戦隊長赤松嘉次大尉による戦闘報告であって、本人に拠れば沖縄本島石川の捕虜収容所で書いたものである。復員した赤松大尉が昭和21年1月、浦賀の引揚掩護局に提出した「戦闘報告」もこれであろう。

この最も古い赤松文書に渡嘉敷島住民の「集団自決」に関する記述は何も無い。降伏から3ヵ月後の時点で赤松が「集団自決」に言及しなかったのは何故だろうか? 彼や戦隊幹部将校が島民達の行動を一切知らなかったとでもいうのだろうか? 赤松隊の「持久戦」は、「集団自決」を生き残った村民達との共同生活によって成り立っていた。だから、隊長である赤松が知らなかったはずはない。

なぜ赤松は無視したのか? その答えのための入り口として、この「戦闘報告」が渡嘉敷島住民が読むことを200%予定していないことを挙げておこう。誰に読ませるべく書いたかを考えれば自ずと分かる。赤松は、「沖縄」という「戦地」において如何に誉れ高く戦ってきたかを、「内地」の人たちに「報告」したかったと思われる。

1945年時点のこれ、1968年時点での「週刊新潮」「琉球新報」のインタビュー、そうして1971年の「潮」「青い海」に寄せた手記、これら赤松自身の言動を比較してみる必要がある。


また、曽野綾子「ある神話の背景」(1973)における赤松供述との違いも、重要な分析課題だといえよう。

なお、「渡嘉敷戦斗ノ概要」は、1970年編纂の「陣中日誌 海上挺進第三戦隊」にも所収されている。「渡嘉敷島戦闘の概要」。こちらは、カタカナ書きではなくかな書きに改められ、表現にも細かい手が加えられている。後者には「中島一郎少尉」の名前はない。

  • 当稿を引用する方へのお願い:書き起こし文には私の間違いが含まれていますので、其の点を充分にご承知の上引用してください。また引用する方は当ページのURLを、必ず引用文に添えてください。食物の安全を流通過程で保障するのと同じように、資料典拠のトレーサビリティーを確保するためです。原文を独自に解読し直された方はその限りにありません。


「序」



今般近々一郎様二周忌ヲ迎エラレルニ当リ其ノ追悼録ヲ編集*致サレル御由、最近一般人心ノ御遺族ニ対*スル関心モ薄ラギ御遺族亦自ラ慮ンバカラレテ御遠慮ナサルヽ情勢ニテ全く慨嘆ニ堪ヘザルモノアルノ際 此ノ御企ハ近来ニナキ快事ニシテ衷心ヨリ喜ビ居リ候 何カ序文ニテモトノ御依頼ニ接シ厚顔ニモ机ニ向ヒ候モ想ヒハ遠ク沖縄ノ空ニ馳セ当時ノ戦況マガマガト脳裏ニ蘇リテ萬感胸ニ迫リ云ハントシテ云フ能ハズ 書カントシテ筆進マズ到底不肖如キ者ノ任ニアラザルヲ痛感致ス次第ニ御座候 然シ折角ノ御志ニヨリ予(かね)テ沖縄収容所ニ於テ徒然ナル儘ニ書キ連ネシ戦斗経過ノ概要之有候間、右ヲ以テ序ニ代へ申度 幾分時代離レノ感之有候モ多少ハ実感モ出デアリト存ジ御送附申上候間御参考ニ被下サレバ幸甚ト存候

※「予(かね)て沖縄収容所に於て徒然なる儘に書き連ねし戦斗経過の概要之有候間、右を以て序に代へ申度 幾分時代離れの感之有候も多少は実感も出でありと存じ御送附申上候」
元戦隊長赤松嘉次氏は、渡嘉敷島での「持久戦」を、自らを平家の公達にもなぞらえた悲劇の英雄物語として記憶に残したかったようだ。


「渡嘉敷戦斗ノ概要」

以下は、原文カタカナ書きをひらがな書きに改めたものです。

渡嘉敷戦斗ノ概要

神国日本に危機迫り三千年来の国体を護持すべく昭和十九年八月熱血の健児等水軍発生地瀬戸内海は小豆島に集ひて海上挺身第三戦隊を編成す短期間なりしと雖も連日連夜の訓練功成りてか供覧演習の映画は遂に天覧に供する所となり吾人の光栄何物か之に過ぎん

訓練の概成するや直ちに懐かしの宇品港を後に敵潜の出没する魔の海を一路南西諸島に向ふ故国を去るに臨み上旨、肉親に何を語りしや「予等の存する限り敵一兵と雖も上陸せしめず」と豪語せしが九月下旬慶良間列島は渡嘉敷島に於て愈々土と海に対する闘は開始せられたり 連日連夜の洞窟作業、南海とは云え寒風肌を刺す黒潮の舟艇訓練唯々皇国のため将校も兵も将亦(はたまた)村民も一丸となりて黙々と来たるべき日に備えなりき、特に女子青年団の協力涙ぐましきものありたり

比島、硫黄島と戦局緊迫の度を加へ我が南西諸島にも妖雲漂ひ唯ならぬ空気を感じありたり 然れども反面作業は之が為大いに進捗し海上戦斗の諸準備は完成し今や水際陣地の構築に移らんとしありたり

三月は二十三日第十一船舶団長大町茂大佐の視察来島を待機しつつ軍民一体となりて偽装に専念しありたり、折しも一○時三○分頃数機のグラマン飛来すると見るや直ちに数百機之に続*き銃爆撃耳を聾す、民家は飛び熊笹深き山は忽にして火に包まる 物量を誇る敵とは云いながら一時呆然自失す 此の間にありて対*空射撃に将亦(はたまた※)諸施設の掩護に任ずる将兵は実に神兵の姿なりき 赤陽遠く西の島に落ちんとする頃敵機は遠く脱去し嵐の后の静寂の中に周囲*の島々は燃え吾亦火の中に在り、壮観筆舌に絶し亦哀愁限りなし、明くれば二十四日亦前日に倍し二十五日には艦船をも伴ふ、愈々事態の急なるを察し部隊将兵一同只々穏忍腕を撫しつつ出撃の機を窺ふ、タ闇の迫る頃敵機は脱去し艦船亦列島の四周を警戒す、部隊は出撃に備へ約三分の一の舟艇を泛水す 二四時○○船舶団長丸木船にて阿嘉島より来島、軍命令並に団長の意向に依り途中の敵を撃破しつつ本島に転進し本島に於て海上作戦を行ふに決す、茲に於て部隊は勇躍泛水出撃の作業を開始す、折しも阿波連に於ては敵艦艇湾内に侵入し作業を妨害遂に命中弾により舟艇に引火し爾后の作業は不能に陥る、亦一方主力渡嘉志久中央基地に於ては敵砲弾下鋭意作業を続*行するも訓練不充分の半島出身軍夫のこととて如何せん作業は容易に進捗せず全舟艇の泛水出撃準備の完了せるは五時にして東天白々と明け染めたり嗚呼白昼*堂々と敵船に斬込まんか成功望無きも全員死所を得べく、然りと雖も他の五ヶ戦隊の企図を暴露し軍の海上作戦に重大なる影響を及ぽすべし、舟艇の揚陸亦不可能なり 重盛が心の悩も斯くありたるべし、萬事休す涙を振ひ愛艇を自沈す誰か之が心情を察せざる 誰一人として己の愛艇を沈むるものなく互いに戦友の艇を沈む。

長時日の苦心も水の泡か止めんとすれども涙燦然と流る、敵の砲爆撃下部隊将兵は壕にも入らず唯々相抱きて泣くのみなりき 依然として猛烈なる砲爆撃は続*き諸施設は破壊され山は燃ゆ、夜に入り船舶団長を中島少尉指揮の下に決死の二艇に依り敵船団を突破本島に護送せしむ 時に阿嘉島には既に敵上陸せる模様にして曳光弾はとび 赤青の信号弾、弥生の空にきらめく 部隊は明日の敵の上陸に備へ陸上戦斗諸資材を複廓陣地と予定せる地区に搬送す、山深くして暗夜に何れが予定せる地域なるや判明せず明くれば二十七日敵留利加波に上陸との報に接し水際戦斗を断念し途中各所に敵を撃破しつつ予定陣地に撤退す、此の日敵は各々戦車数十輛を伴ひ、阿波連、渡嘉志久、留利加波に上陸略一ケ聯隊の兵力を以て複廓陣地を包囲攻撃態勢を示せり 三月二十七日思ひは深し米兵の皇土渡嘉敷に上陸第一歩を印せし日ぞ、爆撃艦砲、迫撃砲将亦(はたまた)機関銃飛び交ふ中に今は海上作戦の断念を余儀なくされたる将兵は樹下に伏して唯々最后の機を窺ふのみ、二十七、八、九、三十日と敵は砲爆撃の掩護下、陣地を攻撃し来れるも天険による必死の将兵の奮斗ににより数度に渡り之を撃退す 御賜の煙草を頂き唯々死所を求むる神兵の前には敵の攻撃敢えて恐るるに足らざりしなり、敵は水際設傭を破壊せると攻撃容易ならざるによりてか攻撃を断念し三十一日夜、戦車数十輛並に艦砲掩護の下に撤退を始む、時に敵情不明にして此の機に乗じ大打撃を与へ得ざりしを遺憾とす

斯くして敵は一時我が渡嘉敷島を撤退せるも慶良間海峡には数百の敵艦船碇白(ママ)し亦哨戒機常時在空す本島亦既に敵上陸し彼我の間に皇国の興廃を緒(ママ)したる激戦展開し亦特攻機毎日の如く飛来しラヂオ亦友軍の大戦果を報導す、絶海の孤島而も敵の真只中に取残されたる部隊の士気を鼓舞するは実に特攻機の奮闘とラヂオの報導のみなりき、

三月末敵撤退后吾人は何を為せしや。一言にして云へば生きんが為と戦の為に戦ひたり孤島にして補給途絶し然も敵上陸のため多からざりし糧秣の大部も焼却せられたり、部隊は一日一人マッチ箱一杯の米として度々の敵の上陸を警戒しつつ現地自活作業を行い亦一方陣地の構築を開始せり、然りと雖も未だ充分にして、牛あり豚あり芋あり少量の米にても辛うじて体力を保持し亦精神の緊張せるにより陣地の半ば完成せるは五月十日再び敵の渡嘉敷島掃蕩を企図せる時なり、敵上陸するや戦力の相違は如何とも為し難く平地は放棄するの止むなきに至り之がため一ケ月有余の夜間作業を以て植付せる甘藷畑も敵の蹂躙する所となり、

嗚呼我が渡嘉敷島も第二のガ島たらんとするや否々断じて然らず、吾人は第二のラバウル建設を目標とし斬込戦斗に陣地構築に将亦(はたまた)糧秣の確保に邁進せり、唯々吾人の念願とせし所は何ぞや「渡嘉敷島はよくやった」と後世の史家をして批判せしむれば十分なり、唯々犬死を恐れたるのみ、歴戦の勇士や熱血の若人は挙りて斬込を志願し地雷地帯を突破し鉄條網を抜け敵陣地や幕舎内に忍び込んでは之を爆砕し敵の心膽を寒からしめたり

中には斬込の帰りに敵の煙草や糧秣等を土産に持ち帰*れる勇士もありたり。然りと雖も地雷に触*れ或は敵の発見する所となり名誉の戦死を遂げたるもの亦数多し然れども之がため士気の落ちること毫もなく戦友の仇をと続*々と志願したりき 我が果敢なる斬込の為か敵は一時攻撃を断念し渡嘉敷部落周辺に陣地構築を始め亦一方宣伝を実施せり「世界の大勢云々……早く投降しなさい、さもなくば正々堂々と戦ってください」かかる放送を聞きては将兵共苦笑をまぬかれず、亦遂には之を唯一の娯楽放送と考ふるに到りたり

壮快なる戦斗(勿論斬込が主にして昼*間は全くもぐらの如く土の兵隊となりたり)の反面糧秣方面の苦心は言語に絶す、蘇鉄の精製之亦多人数に給するに足らず、木の葉、椎の実、茸、トカゲ、百足虫等食し得る物は総て食せり、将兵は瘠衰へ六月末には武装して起ち得る者約半数なりき、特に戦斗の終始を通じ栄養失調により戦病死せる十数名に至りては思ひ半ばに過ぐべし、人情の美しさは人間の逆境にありて始めて見らるべし、斥候に出でて拾ひし一個の缶詰も分ちて喰ひ部下は上官を、上官は部下を思ひ苦しい中に美しき人情を発揮し団結は益々鞏固となれり、予は断言す 部隊将兵一同生死を超越し只々皇国のため共に渡嘉敷の土たらんと無言の仲に誓ひしと、かく書き来れば敵の行動不明なるも彼我谷一を隔てて相待待(ママ)し昼間は何震?の戦場にても見得る如く、銃砲撃は全く彼の独戦(ママ)場なりき

他に砲艦並に座間味、阿嘉両島の高射砲亦協力し恰も内地の祭りに於ける太鼓を打つ如くにして想像に絶するものあり、幸にして主陣地付近は深き森林渓谷にして之が被害軽少なりしも前進陣地付近は森林は吹飛び彼我の間に数次の争奪戦を実施せり (中略)

(1970年編集『陣中日誌』所収のものによれば、『中略』部分の内容は以下のとおりです。)
勿論奪取は夜襲によるものなり、前進陣地に於いてすべての敵を撃退せるは天瞼を利して堅固な構築陣地に依るものにし数倍・否数十倍の敵も死を怖れざる勇士の前には攻撃に成功望みなきなれぱなり。

顧ればあの天険将亦(ママ)逼迫せる糧秣下鞏固なる陣地の完成せるは実に天祐神助とも云ふべし、即ち天は自ら助くるものを助くるなり。

斯く(争)奪戦を続*けつつひたすら主力本島の作戦を案じ居りたるも七月二日大本営発表にて本島玉砕の報を聞く嗚呼悲しい哉、頼みとする本島敗れて我等如何にすべき悲観の中に議論紛々たり 直ちに敵陣地を攻撃し全員玉砕すべし、或は陣地に據りて一人にても多く敵を殺傷すべしと、部隊は後者を採り軍司令官以下の弔合戦と積極的なる防禦戦を実施す、

一方海上作戦は如何なりしや、全く断念せしや然らず 陣地の完成後丸木舟により敵艦船を攻撃せんと逐次準備を整え敵の目を盗んで訓練を重ねたりき、然るに何ぞや上陸せる敵に依り舟は焼却せられ遂にドラム罐により決行せんとせしも潮流早き為失敗に終り更に機を窺ふも敵の探知する所となり各海岸の警戒並に捜索厳重を極め遂に断念の余儀なきに至る、本島玉砕后渡嘉敷島の敵は兵力を増強し攻撃を企図せるも之亦撃退す、敵は宣伝*を案施する傍鋭意総攻撃の準傭をなしありたり。

(以下は、1970年編集『陣中日誌』に所収された時に書き加えられたと思われる文章です。原本であるこの文書にはありません。)
八月十二日頃より海岸に移住しある村民は既に敵陣に降る模様なるも既に食なく罪なき村民を唯日本人と言う名のみに於いて戦争に協カ拘束することあたわず自由に進むべき道を選択せしむべし。

八月十五日何ぞ図らずも大命により戦争終結との報導あり、信ずる能はず神国日本が必勝の国日本が無条件降伏とは部隊将兵誰しも之を信ずるものなし部隊と共に最后まで頑張り来れる渡嘉敷七百の村人もまた然り、更に情報を集むるも真なり 大命に生き大命に死するは軍人の本領なり涙を呑んで敵陣に降る、固く固く日本の再建を誓いて、0.234高地に於て最后の武器を取り遥かに皇居を拝み奉れば「君が代」の喇叭は幾多戦友の眠れる渡嘉敷の山々に響き唯々感慨無量、百万の敵を恐れざる勇士も泣けるなり

嗚呼皇国日本は敗れたり、敗因を深く省み苦しかりし戦斗の経験を活用し以て祖国再建に努むるこそ生き残れるものの努なれ。

昭和二十年十一月
沖縄収容所に於て、元球一六七七九部隊長 赤松嘉次


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