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樺太の悲劇(2) 相次ぐ家族の自決、心中 遺族が自問「愛の極致とは」

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◆樺太の悲劇(2) (世界日報 2008/6/17)

相次ぐ家族の自決、心中   遺族が自問「愛の極致とは」



 樺太の悲劇を書いた著作の中でも、圧巻は映画「氷雪の門」の原作といわれる、金子俊男氏の『樺太一九四五年夏』(講談社、昭和四十七年)である。樺太・豊原市生まれの金子氏は、「北海タイムス」社会部長、編集委員などを務め、同紙に「樺太終戦ものがたり」を一年にわたり連載。この原稿が作家、吉村昭氏の目に留まり、単行本となった。

 八月九日朝のソ連対日参戦から、二十二日の停戦交渉前後までの約二週間の、樺太でのソ連と日本(軍だけではなく義勇隊・民間人)との戦闘の状況を克明に描いたものだが、四百人を超える関係者の手記とインタビューを合わせて、極めて密度の濃い戦場記に仕上げられている。

 ソ連軍を目前にして、家族同士の心中や自決が相次いだ。真岡中学の体育教師、平野太さんは、妻の真砂子さん(当時43歳)と四男、剛男君(同9歳)が、隣家の江村孝三郎少尉(同55歳)一家五人と共に自決したことを知らされる。収録されている平野さんの手記を紹介する。

 周囲の人の話では、江村少尉は家族四人と、平野さんの妻子に目隠しをさせて、首をはねた後、最後に自ら仏壇に面して切腹したという。知人の校長らは、その自刃を、口を極めて褒めた。

 平野さんは、綴(つづ)る。

 〈私としては、相手がソ連兵でなくてよかった、日本軍人、しかも長い間の友人によって、その一家と死を共にしたのだから、何もいうことはないと思った。ただ、なんとかして船で引き揚げさせようと思って、叱って区長のところへやったことがこうなったと思うと、悪いことをした、私が軽率であったとくやまれてならなかった〉

 死後、一カ月以上が過ぎて、道路脇に埋められていた遺体を掘り出した時の平野さんは、江村少尉の行動を尊敬する一方で複雑な心境でもあったと告白する。

 〈思考、意志という点でおとなの江村少尉と妻たちは、ある覚悟があって切られ、自決したのであろうが、子供たち五人は目隠しをされ、おそらくは合掌し、お題目をとなえながら首をはねられたのであろう。そのときの気持ちを思いやれば、私には名状すべからざる悲惨な悲しみがわいてくる。

 悲しかったであろう子供たちの気持ちを想像するたびに、思い起すたびに、じっとしていられないような気持ちになり、夜も眠りつけないことが、いまなおしばしばある。しかし、私よりももっともっと不幸な人びともあったであろうからと、忘れる努力をする以外にはない〉

 平野さんの手記は、江村さんの隣の官舎にいた同中学の軍事教練の助教官や柔道の教官、英語の鴨志田義平教諭の一家六人の自決などにも触れられている。鴨志田教諭は、外国語学校の出身で、かつて樺太国境警備の巡査だったが、敷香中学開校のときに英語教諭として迎えられ、後に真岡中学に移ったという。

 平野さんは、江村少尉の自決と、この英語教諭の自決を比較して、こう述べる。

 〈江村少尉の自刃を軍人のかがみとしてほめるのは当然であるが、英語教諭一家の自決については、周囲の人びとのほとんどが、あまり語らなかった。なぜだろう。私は一抹の寂しさをそのことに感じたものである。両家とも、子供たちを思う愛情が死に結びついたものであろう。そうであれば文官であった鴨志田先生の精神をももっと称揚してよいのではなかろうか。ただ、なんとか生き残って将来の道を打開することも人間としての愛の極致ではなかったかと当時思ったこともあったが、これは私のごとき凡人の考えであるかもしれない〉

 万に一つでも、愛する妻子の体に敵のソ連兵の指一本も触れさせないようにするためには、自決しかない。死をもって家族を守ろうとした江村氏や鴨志田教諭の決断と行動を、「愛の極致」と称賛する気持ちに偽りはない。

 だが、その半面、平野さんは自問する。何とか生き残って将来の道を打開することも人間としての愛の極致ではなかったか、と。

 誰も、この問いに答えることはできない。平野さん自身も。ただ、明白なのは、平野さんの手記に、自決に関して軍の強制があったとか、日本軍への恨み言などが一行も書かれていないということだ。


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