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沖縄作戦 殉国日記 index

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沖縄作戦 殉国日記 index

<沖台 沖縄234>

図版01


【資料データ】

沖縄戦関係資料閲覧室
整理番号: B03-5-331
収蔵文書名:
簿冊名: 沖縄作戦 殉国日誌(海上挺進第3戦隊 皆本義博提供)
原本所蔵機関: 防衛研究所
請求番号: 沖台 沖縄234
(「沖縄作戦 殉国日記」が正しいが、誤登録の為「沖縄作戦 殉国日誌」でないとヒットしない)

画像閲覧
http://www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0305331
(アジ歴ではみつかりませんでした)


【殉国日記とは】

沖縄で「集団自決」が起こった島の一つ、渡嘉敷島に駐留していた海上挺進第三戦隊第三中隊所属の中島一郎少尉は、戦後もなお行方不明であった。千葉県の実家への郵便は昭和20年1月15日消印が最後であった。父中島幸太郎氏は必死に息子の消息を尋ねた。沖縄の収容所にいる部隊関係者と連絡を取ろうとした。彼らが復員してくると手紙で問い合わせ、直接面会もした。こうして息子一郎氏の戦斗と戦死の真相を求めつづけた。その過程を綴ったのが「殉国日記」である。

息子からの手紙をまとめた前半は、いわゆる特攻作戦のための「特別幹部候補生」を理解する上でも貴重な資料である。

息子の消息をたずねる後半は、赤松戦隊長や皆本中隊長の手紙や直話が網羅されていて、終戦直後の戦闘状況の認識が分かって興味深い。

中島一郎少尉の行方不明と戦死は、第三戦隊将兵の中でも特異だ。当時、渡嘉敷島には赤松隊を指揮する船舶団司令の大町大佐とその幕僚が訪れていた。慶良間列島が米艦隊に包囲されたことを知った大町大佐は、全隊をもって敵艦隊を突破し、沖縄本島に転戦する命令を下していたが、渡嘉敷島では舟艇の泛水に失敗し、その機会を失った。窮余の策として舟艇2隻をもって、大町大佐と幕僚の本島転進を図った。そのとき選ばれて、操縦の任についた2人のうちの1人が中島一郎少尉だった。

したがって、彼の死の真相に迫ろうとすれば、「なぜ赤松隊は出撃できなかったのか」、「転戦命令は如何に出されたか?」といった核心に触れざるを得ない。のちの曽野綾子「ある神話の背景」などに於ては、大町大佐の優柔不断が赤松隊の戦闘意志を砕いたかのごとく語られるが、果たして真相はどうだったのだろうか?

因みに、赤松隊が出撃中止となったいきさつと大町大佐一行の本島転進について、赤松からの伝聞をあれほど饒舌に記述をしている曽野「ある神話の背景」だが、中島一郎少尉のことは何も記されていない。(wac版P121)

渡嘉敷島の戦闘から1年ないし2年のうちに語られた戦場は、軍人側から見たモノとして貴重な資料といえよう。

序文として、赤松戦隊長が座間味島の捕虜収容所でまとめた「戦闘報告」が載せられている。


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