15年戦争資料 @wiki

rabe12月18日

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pipopipo555jp

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十二月十八日


最高司令官がくれば治安がよくなるかもしれない。そんな期待を抱いていたが、残念ながらはずれたようだ。それどころか、ますます悪くなっている。塀を乗り越えてやってきた兵士たちを、朝っぱらから追っ払わなければならない有様だ。なかの一人が銃剣を抜いて向かってきたが、私を見るとすぐにさやにおさめた。

私が家にいるかぎりは、問題はなかった。やつらはヨーロッパ人に対してはまだいくらか敬意を抱いている。だが、中国人に対してはそうではなかった。兵士が押し入ってきた、といっては、絶えず本部に呼び出しがあった。そのたびに近所の家に駆けつけた。日本兵を二人、奥の部屋から引きずり出したこともあった。その家はすでに根こそぎ略奪されていた。日本人将校と発電所の復旧について話し合っていたとき、目と鼻の先で車が盗まれたこともあった。何とか苦労して取り戻すことができたが。将校の言うことになど、兵士たちはほとんど耳を貸さないのだ。


中国人が一人、本部に飛びこんできた。押し入ってきた日本兵に弟が射殺されたという。言われたとおりシガレットケースを渡さなかったから、というだけで!

私は発電所の復旧の件で話し合っている将校に、なんとかしてくれと申し入れた。するとその将校は日本語で書かれた札をくれた。さっそくそれをドアに貼ることにして一緒に家に戻った。

家に着くと、ちょうど日本兵が一人押し入ろうとしているところだった。すぐに彼は将校に追い払われた。そのとき近所の中国人が駆けこんできた。妻が暴行されかかっているという。日本兵は全部で四人だということだった。われわれはただちに駆けつけ、危ないところで取り押さえることができた。将校はその兵に、平戸打らを食らわせ、それから放免した。

ふたたび車で家に戻ろうとすると、韓がやってきた。私の留守に押し入られ、物をとられたという。私は身体中の力がぬけた。車から降りて、私はその将校にいった。「一人で先にいってください」。次から次へと起こる不愉快な出来事に、実際に気分が悪くなってしまったのだ。

しかし将校はそうはしなかった。私にあやまり、きっぱりといった。「今日のことで、あなたがたの言うことが誇張ではないということがよくわかりました。一日も早くこの事態を改善するよう、精一杯努力します」

十八時


危機一髪。日本兵が二人、塀を乗り越えて入りこんでいた。なかの一人はすでに軍服を脱ぎ捨て、銃剣をほうり出し、難民の少女におそいかかっていた。私はこいつをただちにつまみ出した。もう一人は、逃げようとして塀をまたいでいたので、軽く突くだけで用は足りた。

夜八時にハッツがきた。日本の警部といっしょだ。かなりの数の警官をトラックにのせてつれてきている。金陵大学にある難民収容所を夜間見張るためだという。日本大使館での抗議が早速いくらか役に立ったようだ。

寧海路五号にある委員会本部の門を開けて、大ぜいの女の人や子どもを庭に入れた。この人たちの泣き叫ぶ声がその後何時問も耳について離れない。わが家のたった五百平方メートルほどの庭や裏庭にも難民は増えるいっぼうだ。三百人くらいいるだろうか。私の家が一番安全だということになっているらしい。私が家にいるかぎり、確かにそういえるだろう。そのたびに日本兵を追い払うからだ。だが留守のときはけっして安全ではなかった。もらった貼り紙はあまり役に立たない。兵士たちはほとんど気にしないのだ。彼らはたいてい塀を乗り越えてやってくる。張のかみさんの容態が夜に悪くなり、今朝もういちど鼓楼病院へ連れていかなければならなかった。悲しいことに、鼓楼病院でも看護婦が何人か暴行にあっていた。


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