15年戦争資料 @wiki

rabe12月17日

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pipopipo555jp

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十二月十七日


二人の日本兵が塀を乗り越えて侵入しようとしていた。私が出ていくと「中国兵が塀を乗り越えるのを見たもので」とかなんとか言い訳した。ナチ党のバッジを見せると、もと来た道をそそくさとひきかえして行った。

塀の裏の狭い路地に家が何軒か建っている。このなかの一軒で女性が暴行を受け、さらに銃剣で刺され、けがをした。運良く救急車を呼ぶことができ、鼓楼病院へ運んだ。いま、庭には全部で約二百人の難民がいる。私がそばを通ると、みなひざまづく。けれどもこちらも途方に暮れているのだ。アメリカ人のだれかがこんなことを言った。

「安全区は日本兵用の売春宿になった」

当らずといえども遠からずだ。昨晩は千人も暴行されたという。金陵女子文理学院だけでも百人以上の少女が被害にあった。いまや耳にするのは強姦につぐ強姦。夫や兄弟が助けようとすればその場で射殺。見るもの聞くもの、日本兵の残忍で非道な行為だけ。

仲間のハッツ(R. R.Hatz、オーストリア、安全区機械工、)がひとりの日本兵と争いになった。その日本兵は銃剣を抜いたが、アッパーカットを食らい、吹っ飛ばされて地面に叩きつけられた。そして完全武装した二人の仲間といっしょに逃げていった。


きのう、岡崎総領事から、難民はできるだけ早く安全区を出て家へ戻り、店を開くように、との指示があった。店? 店なんかとっくに開いてるじゃないか。こじ開けられ、ものをとられていない店なんかないんだからな。驚いたことに、ドイツ大使トラウトマンの家は無事だった。


クレーガー(Christian Kroeger、ドイツ礼和洋行、)といっしょに大使の家からわが家に戻ってきた。なんと家の裏手にクレーガーの車が停まっているではないか。きのう日本軍将校数人とホテルにいたとき、日本兵に盗まれたものだ。クレーガーは車の前に立ちはだかり、がんとして動かなかった。ついに、中に乗っていた日本兵は、"We friend・・・you go!"(俺たち友達ね---さあ行けよ!)と言って返してよこしたのだった。

このときの日本兵は午後にまたやって来て、私の留守をいいことに、今度はローレンツの車を持っていってしまった。私は韓に言った。「『お客』を追っ払えないときには、せめて受け取りをもらっておくように」すると、韓は本当にもらっておいたのだ。"I thank your present ! Nippon Army, K. SAto. "(プレゼントどうも! 日本軍、K・サトウ)
ローレンツはさぞ喜ぶことだろう!



軍政部の向かいにある防空壕のそばには中国兵の死体が三十体転がっている(写真18)。きのう、即決の軍事裁判によって銃殺されたのだ。日本兵たちは町をかたづけはじめた。山西路広場から軍政部までは道はすっかりきれいになっている。死体はいとも無造作に溝に投げこまれた。

午後六時、庭にいる難民たちに筵(むしろ)を六十枚持っていった。みな大喜びだった。日本兵が四人、またしても塀をよじ登って入ってきた。三人はすぐにとっつかまえて追い返した。四人目は難民の間をぬって正門へやってきたところをつかまえ、丁重に出口までお送りした。やつらは外へでたとたん、駆け出した。ドイツ人とは面倒を起こしたくないのだ。

アメリカ人の苦労にひきかえ、私の場合、たいていは、「ドイツ人だぞ !」あるいは「ヒトラー !」と叫ぶだけでよかった。すると日本兵はおとなしくなるからだ。きょう、日本大使館に抗議の手紙を出した。それを読んだ福井淳(きよし)書記官はどうやら強く心を動かされたようだった。いずれにせよ福井氏はさっそくこの書簡を最高司令部へ渡すと約束してくれた。私、スマイス、福井氏の三人が日本大使館で話し合っていると、リッグズが呼びに来て、すぐ本部に戻るようにとのこと。行ってみると、福田氏が待っていた。発電所の復旧について話したいという。私は上海に電報を打った。

ジーメンス・中国本社 御中。上海市南京路二四四号。「日本当局は当地の発電所の復旧に関し、ドイツ人技術者をさしむけてほしいとのこと。戦闘による設備の損傷はない模様。回答は日本当局を介してお願いしたい」 ラーベ


日本軍は本当はわれわれの委員会を認めたくはないのだが、ここはひとつ、円満にことを運んでおく方がいいということだけはわかっているようだ。私は最高司令官に、次のようにことづけた。「『市長』の地位にはうんざりしており、喜んで辞任したいと思っています」


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