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検証「集団自決」ジェンダーの視点から 宮城晴美

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琉球新報 2009年6月19日~24日(四回連載)

検証「集団自決」ジェンダーの視点から 宮城晴美




(一)権力による“殺人”

  犠牲者の83% 女性・子ども

 2005(平成17)年8月に、座間味村、渡嘉敷村の元戦隊長とその家族による、ノーベル賞作家の大江健三郎氏と岩波書店の提訴があり、それ以来、この数年間に県内外で「集団自決」にまつわるさまざまな動きがあったことは論をまたない。とりわけ、教科書検定がもたらした危機感は、黙して語らなかった「集団自決」体験者に重い口を開かせ、県民に沖縄戦史に向き合うパワーを与えた。

 しかしながらその一方で、法廷における元戦隊長らを擁護する立場から歪んだ「証言の再構築」(隊長は命令しなかったという新証言なるものなど)が浮上したり、「集団自決」の用語を封じる手段として、援護法(戦傷病者戦没者遺族等援護法)と「靖国思想」をからませた論理で、その当事者を糾弾するような言説が見られることなど、立場こそ違え、モノ言わぬ島の人々や死者を鞭打つような暴力的論調に強い懸念を抱くものである。

ミクロの視点の欠如


 そのことについては後に触れるとして、こうした弱者切り捨ての視点は、権力者(軍隊)の思想と軌を一にするといっても過言ではないだろう。「集団自決」の犠牲は女性・子どもが圧倒的に多い。そこには、住民を「死」へと追い込んでいった「力」が、軍隊という強い者から最も弱い住民へと幾重にも及んでいったことがわかっている。にもかかわらず、「集団自決」が強制された住民同士の「殺し合い」として、その要因が一括りにされてきた感は否めない。こうしたことでは、地域性、年齢、ジェンダー役割等ミクロの視点が欠落し、沖縄で起こった軍官民の「集団自決」が十把ひとからげに論じられ、その本質が見えにくくなってしまう。

 「殺し合い」というのは、「力」関係が対等であることが前提となる。しかし「集団自決」は、強大な「力」を持つ軍隊が、地元の指導者を通して住民を強制・誘導することで、家族の中の「力」のある者が、最も弱い者から手にかけていったという、「不平等な力関係」のもとで起こっている。こうした「集団自決」の本質に迫るには、ジェンダーの視点での分析が必要になってくる。

 「ジェンダー」というだけで、男性の多くが拒否反応を示すことは知っている。その言葉の持つ意味が「女らしさ」(弱い、優しい、しとやかなど)、「男らしさ」(強い、潔い、雄々しさなど)という、社会的・文化的に作られた性差として批判の対象になっているからであり、「女は女らしく」と願望する男性にとって、不都合なことが多いことは確かだ。

 しかしながら、「ジェンダー」は単に女・男の「不平等な力関係」だけでなく、軍隊と民間人、あるいは地元指導者と一般住民という階級的差異、家父長制下の家族構成などといった階層秩序と相互に連動することで、抑圧構造を強化していくことがわかっている。言いたいことは、「集団自決」はまさにこうした構図の中で繰り広げられたということである。

軍からの「憎悪発話」


 本稿では、私がこれまで調査をしてきた座間味島の具体的事例をもとに、「集団自決」の構造を弱者(家族の中の子ども、軍隊に対する民間人など)の視点から検証し、また「集団自決」の用語をめぐる問題にも言及するつもりである。

 座間味島の場合、「集団」で「自決」したのは、家族・親族単位の防空壕が最も多く、私が調査した限りにおいて、犠牲者の83%が女性・子ども(満12歳以下)であった。その行為遂行者のほとんどが男性であり、男手のある家族ほど犠牲者が多かったことを示す。そこには家族を守らんとする家父長制下の男性の論理があり、その「守り」は、日本軍に隷属させられたことで体現されたものだった。

 つまり、「敵に捕まると男は八つ裂きにされ、女は強姦されてから殺される」、敵への投降、スパイ行為の絶対禁止、「生きて虜囚の辱めを受けず」(戦陣訓)など、軍民が混在するなか、日本軍からの憎悪発話がくり返し住民にもたらされ、現実に敵を目前にしたとき、先に妻子を、男手のないところは母親が子どもを手にかけ、自らは最後に「自決」することで日本軍の要求に応ずるという、権力への隷属的構図に巻き込まれた人々の姿があった。

 座間味島の「集団自決」は、「お互いの殺し合い」ではなく、「乳幼児が自決することはあり得ない」(安仁屋正昭著沖縄戦のはなし)と言われるように、軍隊→兵事主任→伝令から家族の中の力のある者へ、そして最も弱い者へと重層的に作用した権力による殺人であったと思っている。なぜこうした事件が起こったのか、「集団自決」を最も弱い立場の視点からあらためて検証してみたい。



(ニ)絶対的な「兵隊さん」

  捕まる前に「玉砕」促す

 座間味村の有人離島の一つ座間味島は、役場や学校、郵便局などの官公庁が集中する座間味村集落をはじめ、北東に阿佐、西に阿真という三つの小さな集落から成る。1944(昭和19)年9月中旬、この島に、未成年を中心に組織された海上挺身第一戦隊(梅澤裕戦隊長)という陸軍の海上特攻隊と、彼らが搭乗する特攻艇のの整備、秘匿壕堀り、陣地構築の役割をもつ約900人の海上挺身基地第一大隊(以下、基地隊という)がやってきた。

監視下の住民


 那覇に最も近い慶良間諸島は、米軍が沖縄本島に向かう際、一斉に特攻艇を出撃させて背後から敵艦に体当たりするという第三十二軍の作戦計画に基づき、座間味島の海上挺身第一戦隊をはじめ、阿嘉島に第二戦隊(野田義彦戦隊長)、渡嘉敷島に第三戦隊(赤松嘉次戦隊長)が配備され、秘密基地化されていった。

 座間味島に配備された日本軍は、特攻隊員が学校を宿舎にしたのに対し、基地隊の将兵はすべて座間味集落の民家に割り振られた。家族は裏座敷に追われた格好になる。当時、人口約600人の座間味集落に、倍近い日本軍将兵が分宿したため、集落内は日本軍であふれかえった。

 住民の行動は軍の厳しい監視下におかれ、日常生活のすべてが軍主導へと変わっていった
日本軍が駐屯したその日から、住民に特攻艇揚陸にからむ作業が命じられ、その後連日、防空壕堀りや陣地構築、食糧増産のため、役場職員の伝令が住民への集合を呼びかけた。とりわけ婦人会員には、会長ら役員が各家庭を回り、徹底して動員を強要した。体調が悪いだけでは容赦しなかったという。さらに日本軍は、スパイ防止のため、漁に出る住民はおろか、集落内の往来でさえ、スパイではないという証明のマークの着用を強制するのである。

 その一方で、一つ屋根の下で暮らす将兵と住民は、家族のような親しい関係も築いていった。やがて日常の付き合いの中で、住民は「鬼畜米英に捕まると男は八つ裂きにされ、女は強姦されてから殺される」という恐怖心を将兵から植え付けられる。そして捕まる前に「玉砕」するよう剣を渡されたり、あるいは自分でできないなら殺してあげるから日本軍の壕まで来るように言われた人たちも少なくない。特に夫や息子を兵隊にとられ、子ども、年寄りを抱えた女性たちにとって、自家に宿泊する「兵隊さん」の存在は絶対だった。

 女性たちはまた、日本軍将兵の性の相手として朝鮮半島から連れて来られた「従軍慰安婦」の存在も意識せざるを得なかった。朝鮮人という民族差別に加え、いわば「淫売」としての彼女たちに憐憫の情を寄せることで、将兵を前に「淑女」としての自らのステータスを高めた。

錯綜する情報


 日本軍駐屯から半年後の1945(昭和20)年3月23日、座間味集落は米軍による突然の空襲で、乳児を含む23人が死亡、ほとんどの家屋が焼失してしまい、その日から、全住民の防空壕生活がはじまった。空襲は翌日も続き、さらに25日には艦砲射撃が加わった。空襲後の艦砲射撃は、敵の上陸の前触れであることを住民は知っている。

 真っ赤に飛んでくる艦砲弾で壕の周りは火の海と化し、途切れることのない炸裂音におびえる住民の元へ、夕刻、村当局から非常米の配給が告げられた。さらにその日夜遅く、今度は、毎日のように集合を呼びかけてきた役場職員の伝令から、忠魂碑前での「玉砕」命令がもたらされた。ただ、いずれもすべての防空壕に届いたわけではなかった。「米の配給だ」「いや玉砕だ」と住民の情報が錯綜し、危機感をもった子連れの女性たちの一部が、阿佐集落の裏海岸にある大きなガマ(洞窟)への移動をはじめた。その一方で、直接、「玉砕」命令を聞いた人たちは、最後の食糧を口にし、晴れ着に着替えて忠魂碑に向かった。情報の届かなかった防空壕の人たちは、外の気配に気づかなかった。

 飛んでくる艦砲弾をぬうように忠魂碑に向かったものの、ほとんどの人たちが自分の家族だけ、あるいは少人数という不安感で引き返し、またしばらく留まった人たちも照明弾の落下で四散するなど、結果的にこの場所での「集団自決」の決行はなかった。

 引き返したところ、必ずしも自家の壕とは限らなかった。「兵隊さん」と一緒に玉砕しようと、日本軍の壕へ向かった家族がいたり、また、子ども、年寄りを連れ、どうしてよいかわからない女性たちは、役場職員のいる農業組合壕をめざした。しかしながら、日本軍の壕は、すでに将兵が移動した後で空になっており、また農業組合壕では、役場職員とその家族が入るという理由から、ほとんどの人が入れてもらえなかった。

 3月26日午前、米軍の上陸を合図に、各防空壕で「集団自決」がはじまった。直に米軍を目にした者は、はじめて見る人種「鬼畜米英」を前にパニックになり、次々と妻子を手にかけていった。



(三)犠牲者 座間味部落のみ

  組織の指導者ら全員死亡

 敵の上陸を予期しなかった座間味島住民の防空壕は、空襲から身を守ることを目的に、家族・親族単位で掘られ、場所は集落の近くに集中した。当初は、「兵隊さん」の近くが安心だと、日本軍の壕近くに掘った人たちがいたが、空襲がはじまったことで移動を命じられ、ほとんどが役場職員のいる西の方へ移っていった。

 「玉砕」命令の伝令が回ったのは、農業組合壕を中心にした西の防空壕だった。防空壕は島全体で50から60あったといわれるが、私がこれまで調べてわかった「集団自決」の犠牲者の出た所は、地図で丸印のついたAからHの八つの防空壕(場所はおおよその位置)である。

 A、B、Cは日本軍の壕だった。「兵隊さん」と一緒に「玉砕」するつもりでやってきたというAの家族のように、B、Cもその可能性は高い。Cは八つの壕の中で、唯一、女性、子どもだけだった。

 そしてDが役場職員とその家族の入った農業組合の壕、Eが学校長を中心とした学校職員とその家族、それに一般住民が入った。Fは姻戚の二家族、Gが婦人会長の家族、Hは一家族で、FからHは自家壕であった。そのほとんどの人たちが、忠魂碑まで行って引き返してきたことがわかっている。

 上陸した米軍は、集落を通ってこれらの壕の前に突如として現れたのである。逃げ場を失った人々は、防空壕内で「集団自決」を繰り広げた。


「集団自決」の諸相



 日本軍の武器庫のため、その中にあった銃剣が武器となった。「軍隊アガヤー」(軍隊経験者)といわれた50代の男性が、自分の妻子・嫁・孫・座間味区長を務めていた兄、それに実家と行動を共にした兄の娘・孫らに発砲、自身は着剣で割腹自殺。

 壕を補強するための坑木の上部からロープを通し、二家族それぞれが父親(夫)によって縊死させられる。残った30代の父親は、「子どもたちと約束したから」と、妻子を死なせ半狂乱になっている40代の男性に懇願し、ロープを引っ張らせて「自決」。40代の男性も「自決」をはかるが、1人だけ生存する。

 子ども二人を両脇に抱えた母親が、「天皇陛下バンザイ」の叫びとともに手榴弾を叩く。子ども二人は軽傷で助かるが、母親と周りにいた母子が巻き込まれて死亡。その母親は、婦人会の活動家だった。

 最も犠牲の大きかったのが、村民の食糧庫でもあったこの壕である。村の三役をはじめ、その家族を中心に67人が入ったが、全員が死亡したため、武器に何が使用されたか不明。

 日本軍の防空壕で、学校長と学校職員の家族、それに逃げ場を失った子連れの女性たちが多く入った。Dの防空壕が「集団自決」を決行したことと、米軍がすぐ近くまで来ているという情報により、校長の音頭で「天皇陛下バンザイ」が三唱され手榴弾が叩かれた。それによって、女性教師ら2人だけが死亡。「自決」失敗にあわてた校長はカミソリを取り出し、とっさに妻ののどに切りつけ、そして自分の首を切って死亡。

 姻戚2家族と実家にもどってきた子連れの女性の家族。主に農薬の猫いらず(ヒ素を使った殺鼠剤)が使われた。いやがる子どもたちには黒糖を混ぜて強引に飲ませるが、のたうち回って苦しむ子どもを見るにみかねた父親が壕の前の小屋に火をつけてその中に放り込んだり、壕の土壁に叩きつけるなどして死なせる。実家にもどった女性は農薬を飲んで苦しみながら、生後2カ月の乳児を授乳しながら窒息させ、他の幼子たちは叔父にあたる弟に手をかけさせた。

 婦人会長の家族壕である。見つかったときは全員が白いハンカチを顔にかけて整然と横たわっていたという。ここも生存者がいないため、どのような方法がとられたか不明だが、婦人会長宅に分宿した軍の幹部から、いざというときのために、多量の睡眠薬が渡されていたことがわかっている。

 この家族は、忠魂碑からもどる際、1人の兵士から自分の壕で玉砕するよう手榴弾を渡されたが、死ぬ気を逸し、捨ててしまった。しかし、壕の前で銃剣をかまえて立ちはだかった大勢の米軍を見てパニックになり、40代の男性が妻をはじめ子どもたちの首をカミソリで次々に切っていった。男性も最後に「自決」をはかったが、男児1人が死亡し、残りは米軍に救助された。 

 これまで調査した限りでは、八つの防空壕には175人が避難し、そのうちの135人が亡くなったことがわかっている(この数字は座間味村の「集団自決」犠牲者の総数ではない)。

 座間味島の「集団自決」は、官公庁の集中する、しかも日本軍の分宿した座間味集落在住者だけにもたらされた事件だった。そして役場の全幹部(助役は兵事主任、防衛隊長なども務める)、学校長、婦人会長、青年団長、女子青年団長、座間味区長という組織の指導的立場にある人たちが、すべて亡くなった。



(四)痛ましい父と子の関係

  戦時下、国家権力が「利用」

 「玉砕」命令は、日本軍からもたらされたものだった。その結果、駐留する日本軍に最も隷属し、住民と軍をつないだ村の幹部や学校長ら指導者層は、住民を「死」へ誘導するメッセンジャーの役割を果たすとともに、率先して「軍命」を履行した。もちろん、座間味島の頂点に位置する日本軍の守備隊長(戦隊長)が自決することはなかった。

 こうした階層秩序による「力」の作用は、女性、子どもに大きな犠牲をもたらした。とりわけ、父親と子どもの関係は痛ましい。

 Bの防空壕では、先に子どもを死なせた男性が、「子どもたちに父ちゃんも一緒だと約束したから、自分も死なせてくれ」と「自決」の幇助を頼んだ事例、Dで亡くなった男性は「死」を決して忠魂碑に向かう前、子供たちを抱きかかえて「お父さんも一緒だから恐くないよ」と言い含め、Fの壕では男児が叔父に手をかけられる直前、「お父さんの所に行く」と防衛隊に参加している父親を求めて泣き叫んでいたこと、Hの壕では父親に首を切られた11歳の男児が、息を引き取りながら「お父さん」と最期の言葉を発したなど、「死」を理解できない子どもたちに、「父親が一緒だから」と説得したという証言は多い。

 その底流には,「強い父親」と子どもの信頼関係、そして家族間の主従関係が横たわっていた。

 「敵の手にかかるよりは自分の手で」と、家族を守らんとする家父長制下の父親役割と子どもたちのこうした規範が、戦時下ではかくも残酷に国家権力に利用されたのである。

「玉砕」「集団自決」


 私は、これまであえて「集団自決」という用語で、座間味島で起きた戦時下の事件について書いてきた。1970年代に聞き取り調査をはじめた当初は、住民の証言は「玉砕」だった。ところが、1953年3月28日付の渡嘉敷村遺族会が出した「慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要」では、すでに、玉砕、自決、集団自決の表記がなされており、また座間味村役場の文書である「座間味戦記」でも、同様に玉砕と自決が入り交じっている。

 はじめて「集団自決」の用語が使われたのは、沖縄タイムス社の「鉄の暴風」(1950年)といわれるが、なぜ住民証言の「玉砕」ではなく、「自決」を使用したのか、「集団自決」を造語したという太田良博氏からその説明はなかったと思う。

 「集団自決」の証言者は、ほとんどが「玉砕」を使用する女性たちだった。その証言を公文書に記録したのは、戦後復員してきた男性たちである。昭和18年のアッツ島における日本軍全滅を糊塗するため、大本営が国民向けに使いだした「玉砕」という軍隊用語を、それまで関係ないと思っていた座間味島の住民も、米軍上陸前夜の昭和20年3月25日夜から、自分自身にふりかかった「死の強要」として受けとめるようになった。ただ、住民の表現する「玉砕」という用語は、自分自身では死ねないので「みんなと一緒に」という、表象的で受動的な意味合いが強い。

 それに対して、「自決」は、武士道の「ハラキリ思想」に通じる。「男らしさ」を象徴するこの武士道こそ、男性には、敵への投降が許されず軍の命令に忠実であることが求められたものだった。したがって、軍隊を経験した座間味・渡嘉敷島の男性たちが、女性たちの「玉砕」証言を記録する際、軍隊の価値観で「自決」「集団自決」と記したことが考えられる。

 新渡戸稲造は、その著書「武士道」において、「女子の武器に頼りて其貞潔(貞操)を守るに切なるは、男子の其君主を護るに似たり」といい、女性が貞操を守ることは命にも勝ると説いた。武士道の論理でいえば、「慰安婦」とは違う「淑女」としての女性たちは、敵に捕まり強姦されると、共同体社会の中で生きていくこと自体許されなかったのである。

 こうしたジェンダー役割に規定され、国家の犠牲にされた住民の体験の記憶は、証言する過程において「玉砕」、後に「集団自決」という用語で表現され、それを私たちは記録してきた。しかしながら、「集団自決」という用語が、国レベルで「崇高なる犠牲的精神の発露」として美化されたり、軍人用語だから住民には使えないなど、さまざまな問題点が指摘されだした。そして「集団自決」に対する用語として、すぐれた沖縄戦研究者によって「強制集団死」という言葉の使用が提唱されている。

証言者に敬意


 それでも私が「集団自決」にこだわる大きな理由は、つらい思いをこらえながら自分や親族の体験を話してくれた座間味村民の用語として敬意を払いたいことと、座間味・渡嘉敷村の近現代史に必要不可欠の用語になっているということである。ほとんどの方が故人になったが、現在でも生き残りの方々は、「集団自決」を証言する。その人たちがいま最も懸念していることは、「靖国」を賛美する人たちによって、「集団自決」の悲惨さが美化されだしたことや、援護法適用のために「集団自決」の軍命が「方便」であったとして、元戦隊長らを擁護する動きが出ていることである。

 住民の心に負った傷口をさらに鋭利な刃物でえぐるようなこうした言動があればこそ、告発の意味を含めて、弱者の視点から「集団自決」を記録し、継承することが、体験者のII世、III世、そして戦後世代の大きな役割だと思っている。

(沖縄女性史家)


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