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3 伊沢修二の政策構想と理念

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植民地支配と日本語
第一章 台湾における日本語普及政策

3 伊沢修二の政策構想と理念


伊沢により開拓された台湾での日本語普及事業は、台湾総督府の強力な統治のもとで行われた。一八九五年三月に公布された法律六三号、いわゆる「六三法」により、台湾総督は法律と同じ効力をもつ律令を制定施行する権限を有していた。司法官をも勝手に任免できたから、「台湾皇帝」と呼ばれるくらいであった。六三法は制定された当時から、憲法違反であるとして日本国内から批判され、たびたび廃止が叫ばれていたが、延長を重ねていた。しかし、一九二一年(大正一〇年)「法律三号」において総督の律令制定権が制限され、基調として「内地延長主義」の政策が行われるようになった。「法律三号」によって、「憲法に違反せざる限り、台湾に対しては同化政策以外施策を行ない得な」かったのである。

「国民精神の涵養」と「国語の普及」が同化政策の基本方針として強調され、台湾人を「日本国民に育て上げる」ことがつねに目標として掲げられていた。これはまた、その言語政策の依りどころでもあった。伊沢は一八九七年の「新版図人民の教化の方針」において、マホメットがメッカの地より起こって、右手に剣、左手に「コーラン」の教典をもって人民を征服したことを例にとり、戦争による人身の征服と教化による精神の征服とは同等に重要であると説いた。そして教化の方法としては、

  1. 我国語我風習など凡て我と云ふことを主として此教化を行うて行く仕方
  2. 仮に彼れの言語並に彼れの風習などを用ひ即ち先づ彼れの利器を奪て之を仮りて我用をなし終に我か目的を達する仕方
  3. 我れと彼れと混合融和して不知不識の問に同一国に化して行く仕方

の三つをあげて、それぞれ「自主主義」、「仮他主義」、「混合主義」と名づけている(「新版図人民の教化の方針」『伊沢修二選集』)。

「自主主義」の例として、普仏戦争後のプロイセンのアルザスとロレーヌにおける統治があげられている。伊沢によれば、学校の制度を変え、フランス語の使用を一切禁止して、ことごとくドイツ語をもって教育を施さなくてはならないというビスマルクの政策は、鉄血政略が教化上にまでおよんだもので、そのため、「幾多のフランス人民をして涙を呑んで怨嵯せしめ」ることになった。しかし、かくまで威力をもってしたにもかかわらず、アルザス、ロレーヌの二州の人民は、かえって「一日も早くドイツ管轄を去り、フランスに帰したい」と望んでいる。「決して此のフランス語を捨ててフランスの歴史を忘れそうしてドイツ化すると云ふことは彼の実に有名なる独相の力をかりても行かぬことは今日誠に能く分って来たのである」と、ビスマルクの政策をみごとに失敗した教訓として説いて、いましめたのであった。一方同じ「自主主義」をとって成功した例として、アメリカがハワイを合併するまでの七七年問に行った宗教、文化、言語政策をあげ、つぶさに紹介している。

「仮他主義」の例としては、フランスの安南(今のベトナム南部)、東京(今のベトナム北部)での言語政策と、オランダのバタビヤ(今のジャカルタ)での言語政策をあげている。フランス人は、はじめはフランス
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語をもつてフランス的教育を施し、フランス化させようとした。しかし、たちまち反乱が起こり、種々様々な困難が起こったので、一八九一年から方針を変えて、その役人はみな安南・束京語を学んでそれによってすべての仕事をするようになったというのである。オランダのバタビヤでの政策はいっそうはなはだしいもので、「バタビヤで土人が和蘭語を習ふことは法律を以て禁じて」いるのである。この「仮他主義」をとる理由は、伊沢の分析によれば、古語の「民は之に由らしむべし知らしむべからず」という主義によるものである。つまり、バタビヤ人や安南人よりは、フランス人あるいはオランダ人というものはいっそう高いところのもので、決して同等になることはない。すなわち一方は「未来永劫服従の民」であり、他方はつねに統治者である。その治者と被治者の関係を長く保っていくためには、決して治者の国の言葉は教えない方がよい。伊沢によれば、この方針をとって以来、「バタビヤは無論のこと東京安南の如きも非常に良い成績を奏してき」たという。

さらに、旧幕府時代松前藩が蝦夷統治でとった政略も「仮他主義」の例としてあげられている。松前藩は旧称福山藩であり、一六世紀の終わり頃に豊臣秀吉に蝦夷島主として認められ、のちに徳川家康からも承認をえて、一七九九年東蝦夷地区、一八〇七年全島が幕府の直轄になるまで、その統治にあたった。そのとき、いわゆる「和人」の居住地域は、福山を中心に二〇〇キロの海岸線にかぎられており、摩擦を避けるため本州人と蝦夷の雑居が禁じられていた。この差別と隔離政策とも関連したのだろうか、「彼の頃には蝦夷人が日本語を学ぶと謂ふことは全く禁じてあった」。日本語を学んで罰せられたという蝦夷人に会ったことがあると伊沢は述べている。しかし、これらの古典的帝国主義、植民地主義の経験や手本が、ただちに日本の台湾統治に適用できるかといえば、そうではない。むしろ「自王主義」も「仮他主義」も排斥すべきであり、「混合主義」以外にとるべきものはないと、伊沢は断言している。

「混合主義」の実例はあまりみられないが、イギリスがカナダを占領したあとの施策がよい事例とされた。それはフランス人が住んでいて、フランス植民地であったところを、イギリス人が入って、「段々英吉利に混和して」しまうという方法であった。台湾で混合主義を採らなければならない理由を論証するため、伊沢は次の論拠を立てていた。

  1. 台湾は日本とは、地理上の関係に於て「実に一の脈をなし殆ど天然に我国に附いて居る」。
  2. 歴史上、古来日本の甲螺の渡航を始めとして、台湾への植民があったことと、鄭成功は日本人を母として生れたものである。「その鄭成功が一時台湾を占領したと云ふ歴史もある」。
  3. 台湾人は日本人と「殆んど同人種」である。
  4. 言葉の種属は違うけれど、「文字は同じである同文の国」である。
  5. 「台湾人の智徳の量と日本人の知智徳の量と殆ど相同じ」ということ。

伊沢によれば、プロイセンのアルザス、ロレーヌでの失敗は、ほとんど同じ種類の言葉をもち、文化の程度も人種も同じ地方でとるべきではない「自主主義」をとったからである。それに対し、ハワイでの「自主主義」が成功したのは、七七年前からアメリカの宣教師がはじめてハワイにいって、英語を教え学校を建て、「天に在ます我等の父」という主義で教化した結果、今はそのハワイの人民はみな、アメリカからきた人びとを「我々よりは一層高い所の人である即ち彼れは『神の子孫』であると云ふことを殆んど信じて居る」ようになったという。「自主主義」の実行条件としては、明らかな文化的落差と人種の違いが考えられている。そして「自主主義」でうまくすすめられない場合、オランダやフランスのように、「仮他主
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義」に切りかえればよい。しかし、台湾の場合はいずれのケースにもあてはまらないゆえ「混合主義」によるしかないという論理である。

「混合主義」という方針の実行にあたって、「第一の必要は何んであるかと云へば先づ言葉が通じなければならぬ」。そのために、「第一着として我国語を彼に教へる彼れの言葉を我に習ふと云ふことは是が融和の第一着」とされている。伊沢はここで正式に「彼我相学」の方針を打ちだしている。しかし、この理念の目指している民族間の相互理解と融和は、実現されることがなかった。それは、武力によって獲得した植民地を統治する際、民族間の対立と矛盾が鋭く、言語、文化、民族意識などの面において平等に共存する可能性、あるいは調和の余地がきわめて小さいことにもよる。だが、それよりもまず統治者側の意識に、真の意味においての平等、共存、調和、融和といったようなものが考えられなかったからである。台湾総督府の統治政策の実践からみれば、その同化政策が求めているのは、あくまで一方通行的な文化専制であって、民族平等や融和、理解ではないことが明らかである。そこに植民地統治上の政治的策略と言語政策の理念との根本的な矛盾があったのである。その必然的結果として、この「混合主義」の思想は、理論と実践の結びつきにおいて、その本来の意味から乖離し、日本語の強制的普及に有利な方向へ発展していかざるをえなかった。そして、日本語教育を通して日本国民に育てあげるという側面ばかりが強調されるようになる。

一方、伊沢の台湾赴任前の談話に「繁雑なる漢文字に代ふるに片仮名を以てし」という構想があった。しかしのちに台湾での実地経験からして、漢字という「利器」がむしろ日本語の普及にいたって好都合であると考えなおしたふしもある。このように、「混合主義」、「彼我相学」の真髄は、あくまで日本語教育の順調な実施にねらいを定めるものであった。

伊沢は「混合主義」や「彼我相学」を唱える一方、日本語が普及に適した性質をそなえているこ
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とを力説した。日本の国体に革命的歴史のあらざるごとく、「我が言霊のさきはふ国語にも曾て破壊的歴史を見出さぬ」ゆえ、自然の理法にしたがって発展してきたこの日本語は、何に不足なく、しかもヨーロッパ諸言語よりはるかにやさしいという。しかも、台湾とは「同文、同種、同教」の地であることも日本語の早急な普及に好条件を提供していると考えていた。伊沢の植民担言語政策に関する考えは、持論の国家教育主義と植民地における同化主義に由来するところが多いが、台湾赴任以来の経験とその言語観もそれをささえている(後年かれの「清国京師大学堂総教習呉汝綸に対する教育談」や「藤山雷太著『東語初階』弁言」、「所謂最近の国語問題に就きて」、「同文新字典序」などにも、その言語思想がよく現れている)。この「彼我相学」の思想は、表現のしかた自体には違いがあるが、のちに小倉進平らに継承され、理想として掲げられていた。しかし、台湾および朝鮮、満洲国などでの実際の施策をみればわかるように、それは一度も実行に移されたことがなかったのである。

植民地同化政策のイデオロギーと、その言語政策の理論とのあいだの矛盾によって内的な二律背反が生じている。政策主体内部の亀裂およびその理念の支離破減は、日本語と植民地の言語との関係に対するばらばらで揺れやすい主張や一貫性を欠いた対策に集中的にみられる。その国家主義と言語学、教育理論との奇妙な混合と対立は一つの象徴的意味をもつものである。それは当初の伊沢の理論や台湾総督府の施策からもみられるし、以来、日本の言語政策の基本的特徴としてますます顕著になった。これは結局その言語政策の解体にもつながっている。事実、早くも台湾総督府の内部からも牽制があり、それはまず教育経費をめぐって現れた。台湾総督府諸学校の官制改正などとからみ、水野民政局長と伊沢が対立した。伊沢は、当時の乃木希典総督からも支持がえられず、一八九七年七月に水野と伊沢の二人とも離職することとなった(しかし伊沢はすぐまた学務顧問に嘱託され、その後も台湾教育に関心をもっていた)。

総督府の言語政策の理念には強制的側面が次第につよくなっていった。それは日本語教育を「国
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語教育」としたイデオロギー的な面にとどまらず、教授法および教材などにも現れる。台北帝国大学教授の安藤正次が、「国語を教へるには、本島語や蕃語を知らぬ教師の方がむしろよいといふやうな説も出るが、それは誤ってゐる」(安藤正次「日本語普及の将来」一九四三)と当時の時流に反発したことはあるが、強制的日本語普及の前では無力であった。「皇国民に育てあげる」という同化政策が叫ばれながら、それがあくまで差別政策にすぎないのも明らかであった。植民地人民の民族精神やアインデンティティーをことごとくとりのぞいて、同化して皇国民にしても、その基本的生存権から参政権まで、「内地人」とのあいだに政治的、社会的そして精神的、文化的なあらゆる面で差別する政策をとっていたのである。たとえば一九一四年、板垣退助が台湾にきて、台湾人にも日本人と同じ権利待遇を与えるべきだとして「台湾同化会」を組織した。これは貴族院議長の徳川家達、立憲国民党総裁犬養毅、立憲政友総裁原敬、司法大臣尾崎行雄など二〇余名の有名人の支持をえていたものの、三ヵ月足らずして総督府に解散を命ぜられ、板垣本人も追放同然の形で台湾を追われたのである。また一九四〇年以後、国語普及と同時に、改姓名運動、皇民化運動が盛んに行われたが、改姓名は、むしろ厳しく制限されていた。総督府の同化政策の根底に、差別的な要素が根づよかったことがうかがわれる。

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