15年戦争資料 @wiki

1 過酷な征服

最終更新:

pipopipo555jp

- view
管理者のみ編集可
日清・日露戦争
第4章 台湾征服戦争

1 過酷な征服



北守南進策の台湾

狭義の日清戦争は終わったが、戦争そのものは続いていた。清国が譲渡した台湾での中国人による抵抗が続いていたのである。

台湾に注目し、その占領と清国からの割譲を要求するのは、政府と軍部の了解事項であった。松方正義は北守南進論の構想を持ち、一八九四(明治二七)年冬、一つの意見書を、同じ薩摩閥の川上操六(そうろく)参謀次長に送った(『公爵松方正義伝』)。松方は、天津から北京を占領するより台湾占領の急務を提案し、これを占領せずに終戦となるのは「百年の遺憾千秋の失敬このことと存侯」とまで重要だと位置づける。「我邦の前途は、北に守りて南に攻るの方針」を取らねばならない、台湾は、マレー半島や南洋群島にまで進出する根拠地だと位置づけていた。日清戦後の情勢予想からすると、日本の南進論の拠点として確保しなければ、列強が奪取する可能性に危機感を抱いていた。こうした見方は、松方一人のものではなかった。松方はこの意見書を「天下有識者の公論」と言い、伊藤博文も「同感同情」であると伝えている。

また陸奥宗光外相も、同じ意見を持っていた。意見書「台湾島鎮撫策に関して」(作成年月不明。陸奥は一八九七年八月二四日没)は、台湾領有の目的を、(1)中国大陸や南洋群島に将来版図を
96
展開する際の根拠地とする、(2)資源を開発して工業を育成し、通商利権を握る、の二つを挙げている。そのため陸奥は、鎮撫統治の要は「第一、島民を威圧するを要す/第二、支那民俗を台島より攘逐減少するを要す/第三、我国民の遷住を奨励す」の三カ条とした。このような見方は国家機密でも何でもなく、一八九七年に出版された『台湾事情』(春陽堂)で地理学者松島剛・佐藤宏が、
新領地もし治績(ちせき)緒につき、拓殖の功挙がるに及ばば、この地〔台湾〕我鵬翼(ほうよく)を延ばすの根拠となるは自然の勢なり。南を望まば比列賓(フィリピン)は已(すで)に咫尺(しせき)の間〔近距離〕に在り。南洋諸島は飛石の如くに相連り、香港、安南、新嘉披(シンガポール)もまた遠きにあらず。みな邦人の雄飛を試むべき地なり。然れどもこれらの事はただ将来の出来事をして、自らこれを証せしめんのみ。
と解説したように、帝国として膨張しつつある日本、という認識が広がっていた。台湾統治を南進の拠点とする考えは、のちに児玉源太郎台湾総督や後藤新平民政長官の支持も得る。

台湾の自生的発展

一八九五年六月二日、台北の北、海上で李経方と台湾の割譲手続きを済ませた樺山資紀(すけのり)台湾総督は、占領した台北で台湾総督府始政式を執行した。樺山総督に同行した水野遵(じゅん)民政局長は「極めて平和的、極めて文明的の形式をもってその受理が終
97
ると考え」(『大路水野遵先生』)ていたように、台湾平定は順調に進むと思われた。上海居留地で発行されていたイギリス系新聞『ノースチャイナ・ヘラルド』の記事「台湾の日本軍」(一八九五年九月六日)は、台湾占領について作戦のまずさを指摘するだけでなく、「日本の犯した大きな過ちは、島に住む客家(ハッカ)その他の中国系農民の気性と力を過小評価したことだ」と、抵抗運動のエネルギーを見据えていた。

その記事の言うように、台湾は一九世紀に入って茶業と糖業を中心に開発が進められ、欧米との貿易も増加したため、本土からの移住も増えていた。一九世紀前半には「一府二鹿三[舟孟][舟甲]」と呼ばれるほど、台南府・鹿港(台中の南、彰化(しょうか)の港町)・[舟孟][舟甲](台北の西部)の三大港を中心とした繁栄が見られ、林本源一族や陳中和一族などが土着した商人資本の代表だった。一八八五年には台湾省を置き、三府一直隷州六庁一一県の設置となった。アヘン戦争などを機に貿易港として指定された基隆(キールン)、打狗(タアカウ)(日本領有後に高雄と改称)港を中心として、城壁都市台北府(一八七五年設置)や台南府が設けられ、都市化が進められた。

清国の開化派である洋務派の劉銘伝(りゅうめいでん)が巡撫(じゅんぶ)となると、地租改正を意味する清賦事業に着手し、省都・台北府の近代都市化も大きく図られた。電気と電灯、電信、鉄道などの近代的社会基盤を整備し、本土から商人資本を呼び寄せ、興市公司を設立するなど積極的な政策を進めた。劉巡撫は、一八八七年に基―彰化間の鉄道を建議して認められ、一八九一年には基隆―台北間
98
が竣工、台北より新竹間が一八九三年に竣工した。全線七五マイル(一ニ○・七キロ)は乗客中心で貨物輸送力は微弱だったが、中国で最初の鉄道の一つという画期的なものだった。

こうした自生的発展にストップをかけたのが、一八九五年の台湾割譲だった。本土から移住の漢人商人(台湾士紳)を中心に台湾民主国が作られたのも、南洋大臣張之洞(ちょうしどう)らの割譲阻止策略という背景もあったが、一九世紀末に至るまでの台湾の自生的発展からの結論でもあった。

台湾民主国と占領戦争

五月二三日、「わが台民敵に仕うるよりは死することを決す」という台湾民主国宣言が発表され、二五日に総統就任式を行い、劉銘伝の後任巡撫である唐景崧(とうけいすう)を総統、挙人(科挙の郷試(地方試験)合格者)の丘逢甲を副総統兼全台義軍統領として台湾民主国は樹立された。年号を永清、国旗は「藍質虎章(らんしつこしょう)」と定めた。だが九〇〇〇人と推定された巡撫の清軍は、近衛師団が上陸すると一戦も交えず崩壊し、唐総統は台湾を脱出した。

最も強く抵抗したのは先住民である高山(こうざん)族で、彼らを率いた台湾幇辮軍務の劉永福(りゅうえいふく)は「民主国大将軍」を名乗り、台南府を拠点に頑強に戦った。劉将軍は、清仏戦争で黒旗軍を率いて、フランス軍を敗北に追い込んだ英雄として知られており、台湾でも自然の「嶮(けん)に拠り、塁を築き濠を掘」(台湾総督府法務部編纂『台湾匪乱小史』一九二〇年)って戦いを続けた。強い抵抗に遭遇した樺山総督は、「実際の状況は外征におけるに異ることなし」と六月一九日、政府に報告し(『秘書類纂』台湾資料)、軍隊増派を請求した。これを受けて、大本営は、遼東半島にいた第二
99
師団から混成第四旅団を抽出し、台湾に向かわせる。七月中旬、樺山総督は、さらに一個師団半の増派を請求した。

大本営は増派決定のうえ、八月六日に台湾総督府条例を定めた。この条例は、鎮定難航のため軍政施行を意味するとともに、「軍部機関を拡充して略々(ほぼ)軍司令部と同一の編制」(参謀本部編『日清戦史』)とし、二個師団を上回る兵力は、第一軍以上の軍事力となり、それだけ台湾平定が困難になっていたことを物語る。

枢密顧問官・高島靹之助(とものすけ)陸軍中将を現役に復し、台湾副総督に任命して、南部平定軍の指揮を執らせ、大島久直陸軍少将を総督府参謀長に任じた。伊藤内閤も、七月一六日、台湾情勢は「百事至難の境遇に在る」と認識を改め、「速(すみやか)に鎮定の奏功を望」むので「鎮定までの間は法規等に拘泥せず万事敏捷に相運侯筈に申合せ」た八カ条を内閣閣令として通達した。

台湾平定の困難さは武装抵抗だけではなかった。風土病のマラリア、炎天下の水不足から生水を呑んでの赤痢などによる「吐潟(としゃ)病」、栄養不足からの脚気病などが広がり、「八月中旬後[土龍]壊に抵(いた)るの頃は各隊の病者概(おおむね)健康者の半数以上に達した」(「明治二十七八年役陸軍衛生事績」『明治
100
軍事史』)と罹病者が続出したことにより、戦闘力が不足した。八月二九日に中部の彰化を占領した近衛師団は、南方への前進を止め、一〇月三日まで給養することになったが、「諸隊の人員殆ど半に減ず」(『官報』八月三一日)という有り様だった。

台湾平定宣言

ようやく南下を再開した近衛師団は、一〇月九日には嘉義(かぎ)を占領した。台南の南北海岸に上陸した増援部隊を含め三方から台南府を攻略にかかると、一九日、劉将軍も台南府から脱出し、厦門(アモイ)に向かい、台湾民主国は崩壊した。台南を無血占領したのを受け、樺山総督の台湾平定宣言は、一八九五年一一月一八日東京の大本営に報告された。

攻略作戦の途上、近衛師団長北白川宮能久(よしひさ)親王と川村第一旅団長、阪井第二旅団長がマラリアに罹り、能久親王は亡くなる。日本は、約七万六〇〇〇人の兵力(軍人四万九八三五人、日本人軍夫二万六二一六人)を投入、日本軍の死傷者五三二〇名(戦死者一六四名、戦病死者四六四二名、負傷者五一四名)、中国人兵士・住民一万四〇〇〇人を殺害して、台湾を獲得する。

先に引用した『ノースチャイナ・ヘラルド』紙は、「全く無用の戦い」で「〔日本軍と住民の〕両者ともども行った残虐行為の記憶は長く心にとどめられ、平和で静穏な状態を確立する上で障害となるだろう」と、九月六日の時点で断言していた。無用の残虐な征服戦争に踏み切った日本は、外交的軍事的敗北を宣言されていたことになる。

その後の抵抗運動と弾圧

予想の通り、同年一二月には台湾北部の宜蘭(ぎらん)が包囲され、翌年元旦には台北城が襲われるなど、各地で高山族が蜂起し、日本統治への抵抗は一九〇二年まで続く。台湾総督府法務部編纂『台湾匪乱小史』は、一節を「土匪(どひ)蜂起と討伐」とし、一八九五年五月末から一九〇二年五月末に至る七年間の蜂起と鎮圧経過を記している。

一八九五年から一九〇二年は台湾統治上「第一期」と呼ばれている。この時期に「土匪の台北を襲うこと二回、台中を襲うこと二回、その他各所の守備隊弁務署支庁憲兵屯所を襲うこと五十数回、巡査派出所襲撃などは枚挙に遑(いとま)あらず(矢内原忠雄『帝国主義下の台湾』)と総督府の弾圧が残虐であるだけ、抵抗もいっそう厳しくなっていた。『公爵桂太郎伝』も、「匪賊」と住民の区別を付けることができず、「玉石倶(とも)に焚(た)くという殺戮を敢てしたり」と認めている。

後藤新平が一九一四年五月、東京で行った講演の記録『日本植民政策一斑』は、一八九六年から一九〇二年までの「匪徒殺戮(林少猫討伐まで)」について、「捕縛もしくは護送の際抵抗せしため」五六七三人、「判決による死刑」二九九九人、「討伐隊の手に依るもの」三二七九人、合計一万一九五一人を「殺戮」したが、そのうち裁判で死刑となったのは三〇〇〇人しかいなかった。その他の九〇〇〇人の「殺戮」の例を、後藤はこう語った。
102
帰順証交付のため警察署弁務署支署等へ呼び出し、訓令を加え、これに抵抗したるものはこれを殺戮することに予定し、同日同刻に呼んで一斉射撃で殺したのであります。(中略)土匪帰順法は(中略)天皇の大権に亘る生殺与奪の権で(中略)帰順させた者の中には良民たるべきものと不良民にして到底ものにならぬ奴がある、まず仮帰順証を与えて若干月日監視し選び抜いてその悪い者を同日同時に殺したのであります。

赤裸々に「土匪」の「殺戮」を語る後藤だが、第一期支配の特色として挙げたのが「保甲制度」だった。宋代の中国にあった民衆監視制度で、中国史に詳しかった当時の日本人ならすぐに思いつく政策で、陸奥宗光も提案している(『現代史資料』台湾1)。後藤は「総ての罪悪に連座の制です」と語って、治安維持に大いに効果があったと誇っている。

腐敗と堕落

このようなあからさまな「殺戮」と民衆の相互監視制度という強圧的政治のもたらしたものは、台湾総督府自身の腐敗と堕落だった。一八九七年中に台湾総督府の事務官(台北県知事、土木課長、技師など)が摘発された疑獄事件は四件もあった(『台湾総督府警察沿革誌』)。台湾総督府高等法院長高野孟矩(たけのり)は、乃木希典(のぎまれすけ)の非職上奏(休職にするよう天皇に上奏)に基づき同年一〇月解任され、高野に殉じた台湾総督府法院判官は一二月中旬までに「依願免本官」八名、「免本官」二名、「非職」四名と計一四名の多数となり、大事件となった。法院判官浜崎芳雄は、病と称して上京し、同年八月「台湾総督を弾劾するの書」を送付
103
するなどの抗議行動を起こして、一一月免官になる。その抗議書は、「希典疑獄事件の漸次蔓延するは、自家の職責に係(かか)るをもって頗(すこぶ)るこれを厭忌(えんき)し、なるべく事局の瑣少(さしょう)ならんことを欲するも、司法官は彼の意の如くならず。故にまず重なる司法官を非免(ママ)し、他を畏懼せしめ、もって自家の体面を装わんとする一片の卑劣心に出で」と乃木希典総督を強く弾劾するものだった。高野院長は、総督府疑獄の摘発に熱心だっただけでなく、総督府の先住民弾圧にも批判的だった。


2「外地」の誕生

軍政から民政へ

台湾の領有によって日本は、時間の基準を二つ持つことになる。一八九五年一二月二七日新たに台湾島の西を通る子午線東経一二〇度を「西部標準時」とし、台湾・澎湖諸島・八重山諸島・宮古諸島の標準時と定め、時差一時間の東経一三五度を「中央標準時」とすることが公布され、翌九六年一月一日から実施された(一九三七年廃止)。二つの時間を持ったことは象徴的で、法の支配力も二つに分かれていた。

台湾平定を受け、軍政を施行していた台湾総督府条例は廃止され、一八九六年三月三一日、新しく台湾総督府条例(勅令第八八号)、台湾総督府評議会章程(同第八九号)などが制定公布され、
104
民政へ移行する。台湾総督は、陸海軍の大将か中将とされて、以後軍部が独占した。総督の発する律令を検討する評議会は、総督以下の職員で構成され、地域住民の声を吸収する機関ではなかった。台湾統治の基本方針が定まったこの日、大本営はようやく解散となった。

六三問題

軍政から民政に移管する統治制度の協議のため、伊藤内閣は近衛師団の台北占領と同じ六月、伊藤首相を総裁、川上操六参謀次長を副総裁とする台湾事務局を内閣内に設置する。さらに御雇外国人顧問を動員して、統治制度の検討を行った。帝国大学御雇仏国人ルボンは、本国の延長と見なしてフランス式の同化主義を、司法省御雇英国人カークードは、ただ天皇の行政権・立法権のみに属して憲法の制約を受けないことを、外務省御雇米国人デニソンは、台湾島民の国籍と権利について憲法は施行されない、と意見具申した。

伊藤らが重視したのは、議会の介入を制度的に防ぎつつ、台湾統治を進めることだった。その点では、カークード意見書に基づく、憲法不適用、総督と総督府の権限強化、という内容がもっとも望ましかった。しかし一方で、天皇に直隷する武官総督が内閣から独立し専断化することも防ぎたかった。伊藤は、武官総督制に同意して陸軍に妥協したが、専断化の危険性については台湾関係予算の成立という課題を抱えていたため決断できず、暖味な内容の「台湾に施行すべき法令に関する法律」案を、第九議会に提出した(一八九六年三月一四日)。同法案は全五条からなり、台湾総督は「法律の効力を有する命令を発することを得」(第一条)、前例の命令
105




目安箱バナー