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4 戦争の実相

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日清・日露戦争
第3章 日清戦争

4 戦争の実相


不潔とにおい

兵士たちが上陸して感じたのは、まず「不潔」と「におい」だった。「におい」が、生活文化を背景にした異なったものとして認識されることは、時代を超えて異文化に遭遇した際の共通体験といえる。「におい」や「不潔」という第一印象記録は、日露戦争やアジア・太平洋戦争など多くの従軍日記にしばしば見られるものである。松山市駐屯の歩兵第二二聯隊の一士官も、八月五日朝鮮国の元山(ウォンサン)港に上陸した印象を記した。

さらに驚きは、聞きしに勝る不潔である。道路は塵糞にておおわれ、不潔の大王をもって自ら任ずる豚先生、鼓舞を引き連れ、人間どもを横目で睨みつつ道路を横行する。臭気鼻をつき、嘔吐をもよおすなり。(濱本利三郎『日清戦争従軍秘録』)

と、「塵糞」に覆われ、家畜が右往左往する街に驚いている。

日清戦争の兵士は、一八七二年の学制発布後に生まれている。彼らは、学校と軍隊という二つの教育により、「衛生」や「清潔」について、念入りにたたき込まれるという経験を、理念的にも(「衛生的であることが近代人である」)、身体的にも(「まず手を洗い、食事をしよう」)経てきている第一世代である。兵士たちは、克服すべき対象の欠陥に最も敏感であり、「不潔」と「におい」の向こうに、必ず「遅れた文化」を見据えている。平壌を占領した後備歩兵聯隊の軍曹は「朝鮮と申す処は御承知の通り野蛮も甚だしき処に御座侯」と故郷への手紙の冒頭に記した(『東北新聞』一八九五年一月九日)。

「文明の義戦」なるイデオロギーは、そのままでは浸透しないが、自分の生活文化と異なったものを自覚した時、優劣を腑分けし、戦闘と殺戮を正当化する意識操作を開始する。これが商業や観光のために外国へ赴く人々と兵士の大きな相違である。日清戦争は異文化衝突を大量に生み出した最初の国民的体験であった。衛生に対する完全な知識が兵士たちに装備されていたのか、といえば、「不潔」を第一印象とする多くの兵士にあって、そうではなかった。日
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清.日露戦争を通じて、多数の戦病死者が出るが、その多くは赤痢やコレラなど消化器系の罹病であった。補給の不備という条件から、腐敗した食物や水を口にしていたのである。

猛暑から酷寒へ

もう一つの敵は夏であった。最初の混成第九旅団を除き、多くの部隊が出兵したのは七月から八月。動員過程でも死者が出ていた。

八月四日・充員召集の命を受けた歩丘一第七聯隊は、金沢市から官営鉄道の駅である福井県敦賀まで一六〇キロを陸行せよとの旅団命令を受領、二八日午前六時三〇分に金沢城を出発する。九月一日、敦賀に到着するまでに日射病患者一二五九名、死者五名(翌二日に一名)という惨事となった。これに材を取った泉鏡花は、「予備兵」という最初の本格的現代小説を、同年一〇月の『読売新聞』に連載している。

この年の夏は朝鮮でも暑かった。先の濱本少尉は、「この不潔よりいっそう驚いたこと、吾々がいまだかって体験せざるのはその暑さである。日中、華氏の百二十五度ないし三十度、軍人は冬衣夏袴という秋季の服装でこの大暑を過ごすこと、実に釜中に座し、火中を歩行すると同様である」と猛暑を記録している。華氏一二五度は摂氏五一・七度。濱本少尉は、別の所で「華氏百二十五度乃至三十度という金燻の暑中」と表現している。華氏一三度は摂氏五四・四度で、体感温度としても相当な暑さである。兵士らが肩に担う背嚢は五貫(一八キロ)、それに小銃や弾帯など相当な重さを装備して猛暑の中の行軍となった。日本の軍隊は、日清戦争から
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アジア・太平洋戦争終了まで五〇年問、アジアを歩き続けたと言っても過言ではない。その始まりである。アジアを歩き続けて私たちは何を見てきたのか、歴史を問う意味がここにもある。

七月の緒戦で、牙山に進駐していた清国軍を敗走させた後は、朝鮮国北部の平壌に集結している北洋陸軍の潰滅が目標となった。第一軍による平壌攻略戦(九月一五日)が終わると、次の戦略目標は、首都北京をめざす直隷決戦である。一〇月二五日、鴨緑江を渡河し、清国に入った歩兵第二二聯隊は、遼陽方面に向かって進んだ。一一月二五日の草家嶺(そうかれい)の戦闘最中に初雪が降り、一時間で三センチ積もった。二九日の退却行では「三時間余り、雪中に両足を没した」ので「急ぎ焚火で暖めたが足は膨張して赤く、これぞ最も恐るべき凍傷の発生である」と、部隊で「凍傷にかからぬ者は、実に十人中二、三人であった」という(濱本利三郎)。

旅順虐殺事件

一八九四年九月、大本営は旅順半島攻略のため第二軍を編成した。第一師団と混成第一二旅団(第六師団所属)で編成し、一一月二一日未明から旅順攻撃を始め、正午頃には周囲の砲台等を占領した。午後以降市街と付近の掃討作戦が始まる。

そこで捕虜や、婦女子や老人を含む市民を虐殺する事件が起きた。二五日頃まで市街の掃討が続き、同時に旅順から金州方面に脱出しようとする敗残兵の掃討も行われた。これらを「旅順虐殺事件」と捉えるのは、戦闘と掃討戦の両方で、捕虜を取る意志がほとんどなく(計二三二人のみ、『戦役統計』)、軍人と民間人を無差別に殺害する例が多く、捕虜や負傷兵の殺害もあり、
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敗残兵捜索のための村落焼き討ちも行われるなど、容赦ない残酷な戦闘であったことが、参加した兵士らや内外のジャーナリスト、観戦武官などにより明らかであることによる。

一一月二八日の英紙『タイムズ』による「〔旅順での〕戦闘後二〇〇名の中国人が、日本人捕虜を扱った際の冷酷な暴行に対する報復として虐殺された、という噂があるので確認が必要だ」という報道から事件は広がる。翌日にも「両軍が残虐な行為を行ったという報告が確認された。多くの日本人捕虜が首を切られ、手足を切断されて発見された。それゆえに日本軍は住民を一掃した。無差別の虐殺である」という旅順に上陸した英国人将校の情報を掲載した。一二月には、米国の新聞『ワールド』に「日本軍の大虐殺」と題し、「三日間にわたる殺人」「無防備で非武装の住民は家の中で殺された」などの記事が掲載され、欧米各地の新聞に転載された。

欧米新聞の報道に接した参謀総長熾仁親王は、第二軍の虐殺や掠奪という風説に答えよ、という親書を持たせた使者を大山第二軍司令官のもとに急いで派遣した。二週問後に大山は「旅順市街の兵士人民を混一して殺戮したるは実に免れ難き実況」と明確に認めつつ、市街戦が薄暮で行われたことなどを挙げて弁解した。

事件はイギリスに続く条約改正の実現の妨げになる可能性もあった。栗野慎一郎駐米公使は、国務長官から、事実であれば条約改正が困難になる、と警告され、陸奥に対処を仰いだ。陸奥
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は栗野に「旅順口の一件は風説ほどに夸大(こだい)ならずといえども、多少無益の殺戮ありしならん」と認めた上で、戦闘の混乱の中での行き過ぎた行為、という論法で突破しようとした。「被殺者の多数は無辜の平民にあらずして清兵の軍服を脱したるものなりという」と新情報を付け加え、こうした「許多(きょた)の流説を傍生せざる内に」新条約が上院を通過するよう「敏捷の手段を執」れと厳しく命じた(『蹇蹇録』)。事件は曖昧のうちに終わるが、旅順には今でも旅順虐殺被害者の集団墓が、一〇〇年問の修復・再建・新設を経て維持されている。

兵士と軍夫



参謀本部編『明治廿七八年日清戦史』によれば、全動員兵力は二四万〇六一六名で、うち一七万四〇一七名が戦場に派遣された。それ以外に、日本人軍夫一五万四〇〇〇名が集められ、数千人の国内使役のほかは戦場に派遣された。日本人軍夫は事実上武装し、日露戦争での輜重輸卒(しちょうゆそつ)の機能を果たしたのだから、合計三九万五〇〇〇名が日清戦争での兵力と考えるべきである。一〇〇万人を動員した日露戦争での約四割の戦争動員がすでにあった。

大行李(食糧・衣服等)・小行李(弾薬等)を輸送するのは、輜重輸卒の仕事だが、日清戦争では輜重輸卒が十分育てられておらず、必要数だけの動員ができなかった。陸軍は各地の口入業者に依頼し、人夫を大量に集めさせた。一八九四年一二月初旬の束京では、不況に困惑した人力車夫たちが「軍夫蒐集に際し、我れ先きと争うてこの募集に応じ」、東京市内で軍夫にな
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った車夫は四万人を超えたという(『国民新聞』一二月九日)。人夫一人一日四〇銭、廿人長五〇銭、百人長七〇銭、千人長一円五〇銭の日当で、出征中は一〇銭増しというもので、貯金できた。軍夫の送金実態から試算すると、一年間で五〇円から一四〇円を故郷に送金したり貯金していると思われる。

軍夫の比重は高かった。野戦師団二万人に対し、軍夫は二~四〇〇〇人を伴っており、全体の一〇~二〇%を占める。兵站部ではその比率が圧倒的となり軍人八○○人ほどに軍夫が三~四〇〇〇となり、彼らがいなければ動かない構造となっていた(表3-1)。軍夫は、笠をかぶり、浅黄木綿の筒袖の上に○○組と染められた法被と股引を着、草鞋履きという異相で陣地を往来している。彼らは、物資を自らの肩で運ぶか(背負子)、「徒歩車輛」と呼ばれる一輪車(猫車)か大八車で運ぶか、いずれかだった。兵士と異なり、防寒具は自己調達とされたから、病気治療も含め困難な事態に追い込まれた軍夫も多かった。
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軍夫たちは歴史にほとんど記録されなかった。戦病死した軍夫たちも、政府の『官報』に掲載されることはなかった。また参謀本部が戦史を編纂する際に、軍夫の調査をした形跡はあるが、戦病死の数は不明となった。軍夫丸木力蔵の『明治二十七八年戦役日誌』は、『官報』掲載の日本軍死亡者数に「もし是に軍夫を加うればその数又数千人まさん」と述べている。物資輸送の根幹を担った軍夫が、戦後忘れさられた状況への異議申し立てであろう。おそらく七〇〇〇人以上の軍夫が戦死・戦病死したと推定される。

黄海海戦の「完勝」

平壌陥落の翌一七日、朝鮮半島の西、黄海で日清の艦隊による黄海海戦が戦われた(中国では大東溝海戦と呼ぶ)。海戦前の予想では、両海軍の力は同等か、定遠・鎮遠の巨大戦艦二隻を持つ清国の方が有利であると考えられていた。午後零時五〇分、清国一二隻、日本一二隻で海戦が始まる。戦闘が始まると、北洋水師は、横梯陣を組み、前正面砲撃と艦首水雷発射を続けて近接し、喫水線下に装備されている衝角(ラム)衝突で沈めるという、帆船時代以来の戦法を採用したのに対し、日本の連合艦隊は、単縦陣で高速移動しつつ、砲撃戦で艦上などに打撃を与え、戦闘能力を奪うという新しい戦術を採った。欧米海軍の主流は、前者であったが、日本海軍は新戦術をどこから学んだのか。それはジョン・イングルス英国海軍大佐を介してである。イングルスは、海軍大臣直属の月給一〇六三円という破格の条件で雇用され、一八八九年から一八九二年にかけて計四期の海軍大学生(現役の将校中から選抜
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された提督・参謀侯補者)に対し、蒸気船時代の艦隊戦術は、信号も不要な「前に倣え(フォロー・ザ・リーダー)」主義を採用して高速の艦隊運動を展開するのが、彼の教えであった。

五時間後の午後五時四五分に終わった時、清国巡洋艦四隻が砲撃で撃沈、一隻が戦場離脱の後擱座(かくざ)破壊と、清国は軍艦一二隻中五隻を失うという敗北となった。ほかに定遠・鎮遠・巡洋艦一隻も大破した。日本は、二隻大破(旗艦松島、砲艦一隻)、損壊一隻で、撃沈された艦はなかった。黄海海戦が終わった直後、山県は井上馨に宛てて、「平壌陥落は実に意外の結果」で、「引続海戦大捷是亦予想の外」と率直に予想外の勝利であったと伝えている。

主カを逃した失敗

黄海海戦で、清国は巡洋艦五隻が沈められたが、まだ主力艦で装甲砲塔艦である定遠・鎮遠をはじめ、巡洋艦靖遠・来遠・平遠・威遠などが残存しており、根拠地である旅順港か威海衛を拠点に、再び三たび黄海海上に現れる可能性があった。北洋水師も温存作戦を採り、威海衛から動かなくなる。冬季の港湾封鎖は困難で、北洋水師の水雷艇等が、黄海・渤海湾に出没し、輸送船を攻撃することは十分考えられ、陸軍に新たな作戦が強要されることとなった。一二月一四日、大本営は、旅順攻略を終えた第二軍に、対岸の山東省・威海衛攻略を命じた。第二軍に、内地に留保していた第二師団と第六師団の残部が加わり、一八九五年二月二日、威海衛要塞を占領したが、この戦闘で大寺安純陸軍少将が戦死する。日清戦争で戦死した唯一の将官だった。北洋水師は一二日遂に降伏し、潰滅した。
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(後略)



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