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水利技師・鳥居信平の知られざる業績

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水利技師・鳥居信平の知られざる業績

平野久美子

『諸君!』2008年3月号
日本・台湾=『水』の絆の物語─水利技師・鳥居信平の知られざる業績

■平野久美子(ひらの くみこ)ジャーナリスト。東京生まれ。1972年、学習院大学卒。出版社勤務を経て、アジアを多角的に捉えた執筆活動を続ける。99年『淡淡有情幅』で第6回小学館ノンフィクション大賞受賞。『中国茶・風雅の裏側』(文春新書)や『トオサンの桜−散りゆく台湾の中の日本』(小学館)など著書多数。

水利技師・鳥居信平の知られざる業績【1】
─感動秘話日本・台湾=「水」の絆の物語

水は農民の命。いまも土地を潤す地下ダムの設計者に、台湾の人々はけっして感謝の心を忘れない

ジャーナリスト 平野 久美子

■日本人の知らない日本人


 台湾には、今も日本を母国のように慕い、戦前に習い覚えた日本語を流暢に話す70代以上の年配者が少なくない。そうした彼らを「多桑」(トオサン、日本語の“父さん”の発音にそのまま漢字をあてはめた台湾語)とも呼ぶのは、映画監督の呉念真さんが、自分の父親をモデルにして1994年に製作したヒット作、『多桑』のダイトルにちなんでのこと。一昨年、台湾各地を取材してまわったとき、トオサンたちは口癖のように繰り返した。

「戦前の日本人は、ほんとうによくやってくれた」

 もちろん、日本統治時代(1895〜1945)には教育から就職の機会、賃金、人権まで、さまざまの差別があった。それでもなお台湾人にこう言わせる気骨や知恵を、戦前の日本人は発揮していたのだろう。トオサンの代表とも言える李登輝前総統(85)や世界的なABS樹脂メーカー『奇美実業股[イ分]有限公司』の創始者である許文龍さん(79)らは、戦後生まれの日本人に、正しい認識を広めたい」との思いから、台湾のために貢献した日本人の功績を顕彰し、知らしめる努力を続けている。

 その甲斐もあってか、台湾社会の基礎作りに尽力した第4代総督児玉源太郎(1852〜1906)や、彼のもとで民政長官を務めた後藤新平(1857〜1929)、殖産局長となった新渡戸稲造(1862〜1933)、歴代総督19人のうち、唯一台湾に骨を埋めた第7代の明石元二郎(1864〜1919)、烏山頭ダムを造った水利技師八田與一(1886〜1942)らの名前は、日台の若い世代にも知られるようになってきた。

 台湾のお年寄りたちは、偉人の功績を称える一方、こう強調する。

「お役人ばかりではありませんよ、名もない多くの民間人が、台湾のために献身的に働いてくれましたよ」と。

 2007年春、南台湾に位置する屏東(へいとう)県から招聘を受けて1カ月ほど滞在したとき、曹啓鴻(そうけいこう)県長(59)から「鳥居信平(ニヤオチユーシンピン)」という名前を聞かされた。初耳であった。

 彼は、1923(大正12)年に、県内の林辺渓という川に独創的な地下ダムを造った民間技師で、中学校の副教材にも登場するという。県長は地図を広げ、「このあたりは、河床の下を流れたり、また表面に出たりする伏流水が豊富なので、それを利用して灌漑したのです。風景や生態系を壊さず環境に配慮した工法を、私たちは高く評価しています」と説明する。「鳥居の造った二峰[土川](にほうしゅう 註・[土川]とは人工的に造った用水路のこと)は南部台湾の宝ですよ。後世に残るよう大切に使っていきたい」と結んだ県長の決意に、トオサンたちの口癖とも言える言葉が重なったのだった。

■鳥居信平、南へ下る

 80年以上も前に、環境に優しい工法を思いついた鳥居信平とはいったいどんな人物なのだろう? 帰国後の6月、都内に住むご子息に連絡を取り、挨拶がてら訪問した。玄関先でまず目に入ったのは、ごろごろ並ぶ奇岩の数々だ。中から出てきた夫人が、「主人が南極から帰るたびにねえ」と笑う。「増えちゃったんですか?」と私。そこへ白髪をきれいに整えた紳士が現れた。広くなだらかな額、柔和な瞳が写真で見ていた鳥居信平にそっくりだ。長男の鳥居鉄也さん(89)だった。69歳まで、南極と日本を28回も往き来した鉄也さんは、私が子供の頃憧れた南極越冬隊の、隊長を務めた地球化学者だったのである。大正時代に北回帰線を越えて南へ下り、熱帯の荒れ地へ分け入った父、その子息はさらに南へ、南の果ての南極まで下り、我が国の極地探検に貢献した。

「今日まで元気でいられるのは小さい頃の環境がよかったんでしょうなあ」

 極寒の地に適応できたのは、台湾で生まれ育ち新鮮な果物を沢山食べて育ったおかげ
と、鉄也さんは今も信じている。

 父親の仕事に関しては、2004年に台湾から研究者が訪ねてくるまで、「特別の関心もなかった」。

 ましてや、南台湾の20万を超える人々が、父親の造った二峰[土川]の恩恵を受けて暮らしていることなど、想像もつかなかったらしい。

「私は13歳で台北の中学に入学し、その後内地へ転校しましたから、正直言ってあまり記憶にないんです」

 そう言いながらも鉄也さんは、おぼろげな父の姿を追い始めた。

 鳥居信平(とりい のぶへい)は1883(明治16)年、静岡県周智郡山梨村(現在の袋井市)の農家に生まれた。地元の中学を終えると金沢の四高に進学し、1904(明治37)年、あの八田與一と入れ替わりに卒業。東京帝大農科大学に入学し、卒業後は農商務省農務局、清国山西省の農林学堂教授、徳島県技師を経て、1914(大正3)年、台湾に本社をかまえる『台湾製糖(株)』へ転職した。ちなみに四高から東京帝大工科大学土木科へ進んだ八田與一は、1910(明治43)年、台湾総督府土木局技手を拝命して渡台。信平が『台湾製糖』に入社した年には土木技師に昇格している。

 ご存じのように台湾製糖業の発展は、第4代児玉総督のもとで殖産局長を務めた新渡戸稲造の尽力による。彼は、「糖業改良意見書」を1901(明治34)年に作成。サトウキビの品種改良や大型機械による工場の近代化を提案し、保護政策を奨励した。国策に沿って1900(明治33)年に創業した『台湾製糖』は、当初から農民との共存共栄を図りつつ、自社農地の所有を社是として事業を拡大してきた。しかし、1911(明治44)年、1912(大正元)年と2年続きの大型台風によって、サトウキビ畑は泥流に呑まれ、収穫高は前年度の半分にも届かなかった。台風の影響はその後も続く。病虫害の発生により農民の意気は消沈、折から米価が上がったため、サトウキビから米作りに転業する農家が相次ぎ、原料の確保もままならぬ事態になった。こうした危機を乗り切るには、風雨に強い優良品種の育成、土地改良、灌漑と排水システムの改善など、農業土木の専門家がぜひとも必要だった。

「父が台湾に渡ったきっかけですか? 恩師の上野英三郎先生のお薦めが大きかったことは間違いありません」(鉄也さん)

 上野英三郎博士(1871〜1925)は、近代的な農業土木、農業工学の創始者であり、「忠犬ハチ公」の飼い主としても知られている。東京帝大の教授と農商務省の技断を兼務していた博士は、早くから台湾の水利事業に瀾心を寄せ、現地を視察して総督府の殖産、土木行政に提言をしていた。そんな博士と親交のあった『台湾製糖』の社長山本悌二郎(やまもと ていじろう 1870〜1937)に、愛弟子の鳥居信平を推挙したとしても不思議はない。1914(大正3)年、青年技師は、南へ南へと下っていった。

 大正時代初めの台湾といえば、反日運動は収まっていたものの、山地に行けば“生蕃”(せいばん 帰順しない原住民)や毒蛇が侵入者の命を狙う。ペスト、腸チフス、発疹チフス、赤痢、天然痘、トラコーマ、しょうこう熱、ジフテリアといった伝染病と風土病(マラリア、デング熱)が、いたるところ、まだ猛威をふるっていた。

■今も地元を潤す二峰圳]


 鳥居信平が手がけた二峰[土川]をこの目で見たい。そう思った私は、昨年秋に屏東県を再訪した。高雄空港から高速道路を使うと約四十分で到着する屏東市は、1910年代から『台湾製糖』の城下町として、また、陸軍第8飛行連隊の駐屯地として日本人が多く住み、港湾都市高雄とは別の賑わいを見せていた。しかし今はのどかな田舎町といった風情で、市内に残されたサトウキビ運搬のレールだけが、かつての繁栄を偲ばせる。

 その屏東市で私を待っていてくれたのは、信平の工法を学生時代から研究している国立屏東科技大学土木工程系教授の丁撤士(てい てつし)さんだった。人なつこい笑顔に丸っこい体躯。いつも河川を歩き回っているだけあって、赤銅色に日焼けしている。1956年生まれというから今年52歳。82歳の父親は今も不自由なく日本語を操るが、本人はまったく話せない。それでも幼い頃聞いた日本の童謡「桃太郎」や「鳩ぽっぽ」を覚えていて、丁さんの妻の麗満(れいまん)さんとともに歌ってくれた。彼らと過ごした1週間は自分とほぼ同世代のトオサンの子供たちが、日本統治時代をどのように見ているかを知る上で大変興味深かった。そのことはまたあとで語ろう。

 翌朝、市内から20キロメートルほど離れた林辺渓へ向かった。台湾では、どんなに下流の川幅が広くても、岩や浅瀬が多く船が航行できぬ河川は「渓」(シイ)と呼ぶ。「渓」は上流との落差が急なため、雨期になると洪水が起きやすく、乾期には干上がってしまう。そのため農民は水の確保が出来ず、長い聞苦しめられてきた。台湾を領有した日本政府、“治水なくして台湾統治なし”、とばかりに河川の整備や灌漑工事を重点的に行い、衛生面からの上下水道完備にも莫大な予算と優秀な人材をあてた。そのほとんどが総督府・土木局主導の大型公共工事であり、プランは官僚が作った。一方、二峰[土川]のように、民間会社が総督府の補助金を受けて自分たちで行ったものも各地に残っている。

 台湾の農民にとっては官も民も関係ないけれど、「お上」の業績は民間企業より知名度が高く、残されている資料も多い。いわゆる官尊民卑の風潮が、台湾でもしっかり根付いていたということだろう。実際、明治憲法下の官僚、特に植民地で近代化の推進役となった彼らは、天皇の大御心(おおみこころ)にもとづいて仕事をしている意識が強かったのだ。

 いつのまにか車はパイワン族が多く住む来義(らいぎ)郷へと入った。道路脇の用水路から無数のパイプが延びている。二峰[土川]の工事に参加した村人の子孫は永久使用の権利があるため、各家庭がパイプを取り付けて飲料水を引いていた。この村はクリスチャンがほとんどなので、洗礼用の聖水としても使われているという。私たちも車を停めて用水路の水を飲んでみた。活力があって柔らかい。山の湧き水の味だ。ちょうどそこへ1台のジープが横付けになり、ポリタンクを手にした青年が降りてきた。

「台北から来たんですよ。二峰[土川]の水は美味しいと有名ですからね」

 片道5時間はかかるというのに! これには驚いた。

 橋を渡り車は川岸に停まった。パイワン族が聖なる山と崇める、大武山系が林辺渓の彼方にそびえている。あたりは神秘的な青灰色に染まり、濃厚なフィトンチッドが深呼吸を誘う。なんという静けさだろうか。昨夜来の雨で黄土色になった濁流の音が、深閑とした森に吸い込まれていく。

「ほら、あれが地下ダムですよ」

 丁さんの指さす方を見ると、川の中に地下ダムの上部が覗いていた。80数年の聞に川底が削られて、ダムが見えるようになったのだ。川岸にある給水塔の扉を開けて地下をのぞくと、目の前の濁流とうって変わり谷川のせせらぎのように澄んだ水が導水路を流れている。青年技師は、どのようにしてこんなきれいな水源を確保したのだろうか?


■近代科学に触れた原住民


 鳥居信平は1914(大正3)年に渡台すると、ただちに水源、土壌、作物の用水量の調査を開始し、あわせて仏印やオランダ領インドネシアなどの水利事情を視察した。1919(大正8)年からは、農場開設のために原住民を案内役に雇い、標高3000メートル級の山々を歩き回り、渓流の勾配や伏流水の状態を克明に記録した。マラリアの特効薬キニーネを持参しての調査行は、2年の歳月を要した。その結果、伏流水が海抜15メートルの地点まで流れていることを突きとめ、林辺渓の上流にあたる2本の渓の合流点に地下ダムを造ることにした。

  水利工事は1912(大正10)年5月から始まった。総督府からの補助金がついたものの、総工費は約65万1500円、工期は2年。水が干上がる11月から4月にかけて河床を一気に掘り、長さ328メートルのダムを埋設した。ダムに集めた伏流水は、全長3436メートル導水路を通して第1分水工に送ったあと、暗渠を三方へ伸ばし、さらに支線、小支線を補って扇形の屏東平原に水がゆきわたるよう工夫した。

  開墾も困難を極めた。南部の沖積層は中部とは違い、大小無数の石ころがコンクリート化して非常に固い。そこで、地元の原住民に協力を申し入れ、まず整地作業を行った。それが済むと、強力なスチーム・プラウ・エンジンで深耕用ナイファーを牽引し、コンクリート状の土層を2メートル近く掘り起こした。大正4年発行の『台湾糖業会誌』の記事によれば、労勤者の延べ人数は14万人以上、日給は62銭だった。大正10年の日雇い賃金1円99銭(労働省賃金統計課資料)に比べるとかなり安いが、『台湾製糖』は、原住民の頭目に毎月30円と60キロリットルの樽酒を献上していた。戦後、補償金だけは国営会社『台糖』が引き継ぎ、1967年まで毎月300台湾ドルを頭目に支払っていたという。

 工事が終わる頃には原住民の生活は大きく変わった。総督府の移動交易所が開かれると、釘や農具や布を買う人が集まり、中には手提げ金庫を買ったり、郵便貯金に励む人も出た。1円銀貨に人気が集まったのは、祭礼用の冠に、ワシの羽根やシカの角、ユキヒョウの毛皮とともに飾るためだった。

 二峰[土川]の建設工事のエピソードは、パイワン族の歴史を口伝する女性によって現在も子から孫へと伝えられている。かつて「谷口滝子」という日本名だったチャーパーライ・サングさん(71)は、父親の従兄から工事の話を聞いて育った。5日間働いて2日だけ家族のもとへ帰り、また5日働くというローテーションで、村の若者たちは日雇いに通った。当時の写真を見ると、原住民の男たちが掘り出した石ころを、女たちが月桃(げげっとう)の葉で編んだ大きなザルに入れ、頭に載せて荒れ地を行進している。長袖の上着にズボンをはいているものの、女も男も裸足である。彼らが親の反対を押し切ってまで参加したのは、お金の魅力よりも近代科学への好奇心によるものだった。村人の間で語りぐさになったのは、技師が火薬を使って岩を爆破する作業だ。

「日本人が大きな岩に火薬をしかけていっぺんに壊したときは、みんな腰を抜かしたそうよ(笑)」

 現場の指揮を担当した信平は、妻まさと3人の子供を屏東市の社宅に残して仕事に明け暮れた。薄暗いランプのもとで煤にまみれて遅くまで設計図と向き合うこともあったろう。ときには、頭月の家でシカ肉やタケノコを肴に小米酒(粟のどぶろく)を飲み、そのまま酔いつぶれたこともあったろう。東京帝国大学を卒業した当時のエリートが、よくぞ、“蕃地”にとどまり、原住民のふところへ飛び込んで行ったものだ。彼らの大切な狩り場や漁場に配慮して、自然を壊すことなく設計したことが信頼につながったのだろう。

 糖業界ではそんな彼を「人に接するに純朴、職務に厳格の一面に豊かな人情味があり、人使ひがうまい」「どこ迄も熱の人であり意の人」(『糖業』昭和12年第11号より)と評している。鳥居邸を訪れたとき、鉄也さんの妻の矩子さんが「お義母さんから聞いた」と前置きしてこんな話を披露してくれた。

「頭目から、おまえは立派な顔をしているので首を家に飾りたいと、真面目に申し入れがあったそうです。お義父さんは、この仕事が終わったらくれてやってもいいと応じたんですって。肝っ玉のすわった人だったんですね」

■嘉南大圳より早く輪作を導入


 1923(大正12)年、2500ヘクタールに及ぶ「萬隆農場」が完成。信平はその後も、南部の力力渓(りきりきけい)沿いに1700ヘクタールの「大[口向]營(だいきょうえい)農場」を開墾すべく山中にとどまった。地下ダムは山本悌二郎社長の雅号「二峯」にちなみ二峰圳と名付けられ、豊水期は1日あたり約25万トン、乾期は約7万トンの農業用水を供給した。『台湾製糖』の山本社長が、後に農林大臣を二度も務めたほど農業に明るい人物だったから、部下も意欲的な試みができたに違いない。

 当時、伏流水をこのように大規模利用した灌漑は例がなく、きわめて斬新な試みだったため、「南部台湾開拓史の一新紀元」(『台湾糖業全誌』大正14〜15年期)、「地下水利用法としては本島に於ける嚆矢(こうし)のもの」(『国民新聞』大正12年7月25日付)と絶賛された。新しい農場ではサトウキビの収穫高が順調に増えたうえ、土壌水分をコントロールすることによって糖分が上昇することもわかり、荒蕪地開拓の事業は会社の発展と地域住民の生活向上に大きく貢献した。1936(昭和11)年、鳥居信平は農業土木の関係者として初めて、日本農学賞を受賞している。

 戦後、二峰圳の維持管理は県政府と『台糖』の両者が共同で行ってきたが、大規模修理はたった3回だけ。80年以上も前に自然環境を破壊することなく、水の性質や地形を利用し、管理がたやすい持続可能な工法が台湾で実施されていたことに、驚きの念を禁じ得ない。

 途中から林辺渓に同行した元明治大学教授の山本光男さん(81)は、台湾政府の水利規格試験所の技術顧問をしている。彼は数年前に二峰圳を知り、衝撃を受けたと話す。

「余分な水を自動的に排水路へ流す横越流(よこえつりゅう)式余水吐(よすいば)きといい、満水時の水門の開閉システムといい、ほんとうによくできています。効率よく運用できるように細かい工夫がされているんですよ」

 地下にダムを設けたから、雨期にどんなに豪雨が降ろうとも水は濁らず、乾期でも安定した水量が確保できる。しかも、ダム底部に土砂が堆積しないので維持管理は経済的だ。山本さんは1990年代に新しい水工法特許を日本で申請したが、「一部のアイディアは、すでに鳥居信平が行っていた」と笑う。

 もうひとり、専門家の意見をご紹介する。台北一中を卒業した鉄也さんの後輩にあたる元東京農業大学教授の高須俊行さん(85)は、戦前の台北帝大農業土木科に学んでいた頃、実習で二峰圳を訪れた。水源を伏流水に求めた斬新な計画、大区画農場の整備、輪作に必要な水量を詳細に調査していることに強く感銘を受け、興味深く見学したことを今も思い出すという。

「作物に必要な水量を数値化した点は、彼の大きな功績です。当時まだ台湾では研究されていなかった輪作体系と作物の用水量について、実施状況、現地試験、現地の土壌や気象を勘案して、具体的な数値をはじきだしたのですからね」

 彼が計算した用水量は、その後の灌漑工事計画の基礎になったことは間違いない。農業土木の専門家だった信平は、集団移住してくる農民がサトウキビを栽培しながら、米を自給自足できるように配慮した。そのため設計の段階から、乾期にはサトウキビ畑ヘ、雨期には水田へ、余った水は雑作用の畑にまわすよう分水工を設けて輪作を取り入れたのである。

 鳥居信平の輪作法を、さらに大規模に、綿密に、組織的に実現したのが八田興一である。彼は1919(大正8)年から嘉南大[土川]の工事を始め、東洋一の烏山頭ダムと嘉南平野に網の目のように広がる水路を10年かけて完成させた。こちらの総工費は5545万9000円也。ダムを造って確保した水は約5万ヘクタール分だったのにもかかわらず、15万ヘクタールの豊饒な農地が生まれたのは、サトウキビ、米、雑作(緑肥やイモなど)用に耕地を3つに細かく分け、1年ごとに順番に作付けして灌漑したからである。この3年輪作法こそ、八田與一の最もすぐれた功績だと、農業博士号を持つ李登輝前総統は称えている。

■死ぬまで仕事一途


 鳥居一家が暮らした屏東市帰来(きらい)町の社宅群は、すでに取り壊され、わずかに残る廃屋が草の海におぼれかけていた。鉄也さんの記憶によると、社有地には社宅のほかに、商店、医院、テニスコーが2面あり、日本人社員の子供たちはその中で遊んだ。社宅は1軒が500坪くらいあり、日本から連れてきたお手伝いさんと台湾人の書生を住まわせていた。

 製糖の季節になると、工場からバニラが焦げたような濃厚な糖蜜の香りがあふれてくる。すると、子供たちは立ち入り禁止の工場へ忍び込み、顔見知りの工員から内緒でざらめを分けてもらい、カラメル焼きを作ってほおばった。

「私が4、5歳の頃から父はほとんど家にいませんでした。友だちとケンカをすると、おまえの父親には蕃人の嫁さんがいるといじめられました。この噂に母はひどく怒っておりましたね」(鉄也さん)

 脳裏に浮かぶ父親は、カーキ色の作業服に地下足袋をはいた姿だが、「珍しい写真がある」と言ってアルバムから一枚取り出す。大理石の床が涼しげな室内に、竹製の飾り棚と籐の家具。慈愛のこもったまなざしで息子を見やる(次頁参照)和服姿の信平が写っている。

「たまの休みや正月に社宅に戻ると、風呂にゆっくりと入り髪や髭を整えて、入念に“ベイラム”(註・月桂樹をラムに浸した芳香液を頭髪香水にしたもの)をつけるんです。わざわざ日本橋の『丸善』から取り寄せていました。その後和服に着替え晩酌をやる。ほんとうにおしゃれな人だった」

 1934(昭和9)年、信平は入社から20年目で取締役に就任した。会社に多大な貢献をした割に昇進が遅かったのは現場第一の技術職だったせいかもしれない。1937(昭和12)年に常務取締役になったが、1938(昭和13)年に離台。55歳の働き盛りで後進に道を譲ったのは、衛生状態の悪い奥地で眼病を患い、視力が年々衰えてきたためだ。

 『台湾製糖』に在籍した約25年間、彼は農業工学に基づき、約60カ所の各種施設と、3万ヘクタールの農地を改良した。自社農場だけでなく、周辺住民の土地まで灌漑の恩恵を広げ、一企業の枠を超えて、台湾の人々に感謝された。

 退社後、1941(昭和16)年に設立された「農地開発営団」の副理事長に就任。太平洋戦争が始まると、食料増産を緊急課題とする内務省と農林省は八郎潟の干拓を営団に託した。信平は実現に向けて奔走したが、地元の反対や物資不足もあり計画は頓挫した。1945(昭和20)年、日本が敗戦を迎えると、営団は復員兵の受け入れをまかされた。信平は業務に没頭する。1946(昭和21)年2月14日、いつものように新宿の営団事務所へ出かけ、海軍省の復員兵を受け入れる開拓地について打ち合わせをしている最中、信平は突然脳溢血を起こした。

「親爺は戸板に載せられて、戻ってきました」(鉄也さん)

 当時鳥居一家は、空襲で焼けた西大久保の自宅の前に借りた一軒家に住んでいた。かかりつけの医師が手当てをしたものの翌15日に死去。鳥居信平(享年63)は、死ぬまで仕事一途の男だった。特に営団の業務は戦中と敗戦直後の混乱期と重なり、心労は並大抵のものではなかった。今なら過労死にあたるだろうが、これもまた一種の“戦死”かもしれない。陸軍省の南方・開発派遣要員としてフィリピンに赴く途中、輸送船が米軍の魚雷攻撃を受けて亡くなった八田與一と同じように。

 葬儀は、折から新円切り替えのための金融緊急措置令や銀行貯金の差し押さえと重なったため「後になって弔問客の方々から、香典に苦労したとこぼされました」と鉄也さん。

「親爺は働きづめの人生でした。ほんの短い間でも、母と2人でのんびり過ごすなり、人生をもっと楽しんで欲しかったと、つくづく思います」

 鉄也さんは、遠のいてしまった日々をゆっくりとたぐりよせる。

「あの糖蜜の匂いだけは、もう一度だけ嗅いでみたい」

 地球化学者となり、戦後は研究室を飛び出して極地へ通い続けた鉄也さんは、1937(昭
和12)年に台湾を離れて以来、一度も生まれ故郷を訪れていない。


■“飲水思源”のこころ


 地下にあるためその存在さえ知られず、民間企業の施設だったことから専門家も注意を払わなかった二峰圳。それが、今になってがぜん注目を集めているのは、環境悪化を食い止める工法として期待されているからにほかならない。

 前述の許文龍さんが私にこう言ったことがある。

「台湾を理解するには“水”のことを知るといい。水は農民の命、台湾の心ですから」

 だが、農民の命であるはずの「水」が危機にさらされている。ここ20年ほどの間に、台湾では地下水を多量に使うブラックタイガーやウナギの養殖池が急増したため、地下水が涸れて地盤沈下や土壌の塩害が広がっている。特に南台湾の沿海地方では、海水レベルが地下水層より高くなっている場所もあると聞く。私たちにとって他人事で済まないのは、養殖エビやウナギのほとんどが日本へ輸出されているという事実だ。

 屏東県政府は、鳥居信平の工法を参考にして、洪水であふれた林辺渓の水を人工池に溜め、地下水を増やすことで地盤沈下を防ぐ7カ年計画を始めた。また、高雄県との県境を流れる高屏渓の支流や中部の大甲渓では、山本さんの指導によって水利局が取水堰を造り、表流水と伏流水を取り入れる工事が始まっている。

 屏東市を去る前に、私はトオサンの子供の世代にあたる丁撤士さんと日本と台湾の互いの歴史について話し合った。丁さんは私にこう語った。

「戦前の日本時代から学ぶことはたくさんあります。僕らは日本時代を否定する教育を受けてきたけれど、ずっと違和感を感じていましたよ。海外留学をしたり本を読んだりすれば、冷静な目で歴史を見るようになるものです」

 彼らは親から教わる事実と学校で教わる歴史との違いを体験しながらも、社会のリーダーとなった今、日本時代の遺産を台湾の未来に活かそうと努力している。週末になると、丁さんは愛車「ホンダ・シビック」に二峰圳を説明した手製のパネルを積み込み、林辺渓へ出かける。河原や近くの公園でバーベキューをする若者グループに出会うと声をかけ、車のトランクからパネルを取り出して説明を始める。丁さんを突き動かしているものは、公共財の「水」を守ろうとする使命感、温暖化や渇水による砂漠化が進む地球へのいたわり、そして何よりもトオサンたちから受け継いだ台湾を愛する心なのだ。

 2005年、二峰圳をわかりやすく展示した「水資源文物展示館」が、来義郷の森林公園内に開館した。そのオープニング・セレモニーには、信平の孫にあたる東京大学教授の鳥居徹さん(52)が招かれた。“飲水思源”という敬虔な気持ちを持ち続ける台湾の人々は、自分たちの恩人を忘れない。日台の水の絆はここ南台湾でも、静かに確実に世代を超えて息づいている。

(終)


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