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監訳者あとがき

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監訳者あとがき


1987年、台湾では日に日に強まる民主化要求のもと、1949年以来38年間しかれていた戒厳令が解除され、学術・文化が蒋氏家族=国民党専制政権の管制から解き放たれていくことになった。それとともに、歴史の領域でも、大中華意識の抑圧のもと、肩身狭く続けられていたかに見える、台湾の歴史の研究と教育が、大きく開花し始める。

そのような流れの中で、台北の「霖英文化教育基金会」は、1994年、設立直後の「中央研究院台湾史研究所籌備処(設立準備室)」に対し、台湾のあらゆる年代の読者に読まれるような、多くの図版や写真を使った台湾通史の編述を要請し、着任したばかりの周婉窈専任講師がこれを担当することになった。周教授は学術書の水準を保つとともに、一方で表現方法はできる限り「基金会」の希望に沿う形で台湾通史を叙述し、『台湾歴史図説』として完成、同書は97年10月、台湾史研究所籌備処から刊行された。教授は、「当時、台湾社会は自分たちの歴史に興味を持ち始めたばかりの時であったが、台湾の通史を書いた本が非常に不足していた。おそらくそのため、拙著が世に出てまもなく読者の愛顧を得たのであろう」と自ら述べておられるが、学界の評価は極めて高く、一般読者の広い支持も得て、同書は数ヶ月で売り切れてしまった。そこで翌98年9月、台北の聯経出版公司から第2版が出版された。爾来10年近く、本書は版を重ね、2007年1月現在、21刷、累計8万6000部を売っている。台湾史研究所から刊行された第1版3000部を加えると9万部近く売れているわけで、本書のように学術的な本としては台湾で最も多く売れ、そして読まれた本ということになるそうである。日本版は第2版を底本にしているが、特に日本降服、すなわち統治権放棄(よく誤解されるが、中華民国への返還ではない)以後の「戦後編」を、周教授は日本語版のために加筆された。

台湾では、90年代半ば以降、初等・中等教育で『認識台湾』などを教本に、台湾の歴史・地理の授業が開始された。さらには杜正勝教育部長(文相に相当)のもとで、台湾史―中国史―世界史と積み重ねていく「同心円」歴
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史教育が推進されている。丹念に書き込まれた本書は、教員の参考書、あるいは生徒の副読本として、広く用いられていると聞く。ついでに述べておけば、このような変化が、現今の台湾に居住する人の全てに受容されているわけではない。2005年5月、台北のある私大で講義を終え、キャンパスでタクシーを拾った。運転手は、「外国人でありながら、台湾の大学で中国史を講ずるとは偉い」と誉めてくれた後、「現在、台湾では、けしからぬことに、中国史を無視している」と憤慨する。「そんなことはないだろう。杜教育部長の同心円理論でも、きちんと台湾→中国→世界と積み重ねて教えることになっているではないか」と語るや否や、返ってきた答えは「ふん。台湾にどんな歴史があると言うんかね!」であった。いわゆる「族群」(出身民族)問題と、それに発する文化価値・歴史意識の差異は、本書戦後編でも触れられるとおりである。原著が台湾社会に有する意義は、10年前に比しても全く減じていないと断言してよいであろう。

著者周婉窈教授は、台湾大学で日本統治時代の「議会設置請願運動」の研究で修士の学位を取得し、イェール大学から戦時期の「皇民化運動」を主題にした研究で、1991年、博士号を授与された。この間、この二つの大学のほかに、スタンフォード大学、東京大学東洋文化研究所、ブリティッシュ・アカデミー等で研究し、ブリティッシュ・コロンビア大学で教鞭をとるなど、国際経験も豊かな、台湾出身の、特に日本統治時代台湾史の研究者である。台湾史研究所籌備処設立(98年に研究所に正式に昇格)と同時に助研究員(専任講師)に就任、副研究員、研究員(教授)と順調に昇任された。昨2006年8月から、台湾大学歴史系教授に転任されている。無数の研究業績を積み重ねてこられたが、2003年2月刊行の、第二次大戦期日本統治下の台湾を考察した『海行兮的年代(「海ゆかばの時代」)日本殖民統治末期台湾史論集』(台北=允晨文化実業有限公司)もまた、ぜひ一読を薦めたい好著である。

私事に渉って恐縮であるが、筆者は、1999年秋、台湾政府国家科学委員会招聰教授として、国立政治大学歴史系に招かれた。大学院では明清社会経済史演習、学部では明代経済史、各一コマの授業は、私にとって初の中国語の講義で相当に難儀したが(いまにして思うに聴講学生諸君は、講師以上に難儀だったのではないか)、愉快な半年を過ごさせて頂いた。赴任直後4日目、9・21大地震に遭遇。李登輝総統以下の間髪を入れぬ水際立った措置を目の当た
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りにし、数年前に兵庫自宅で際会した阪神大震災に対する、自国の村山内閣の対応を想起せざるを得なかった。折しも翌2000年春の投票を目前に、総統選挙の熾烈な前哨戦が始まっていた。1月末に帰国し、直接に選挙は目睹できなかったが、この二つの経験―地震と選挙―を通じ、台湾が一個の民主的かつ効率的な「国家」として存在しているという、何人といえども到底否み難いであろう現実は、深く脳裏に刻み込まれることになった。

雑務から解放されて久々に生じたゆったりした時間は、愉快な交遊や、稔り多い参観のほか、日本でなかなか目に触れる機会のなかった台湾関係の無数の書籍・雑誌の閲読に充てられた。その中で特に惹き付けられ、絶えず座右に置き、繰り返し熟読した歴史書が、本書であった(同様に、李筱峰教授『台湾史100件大事』も忘れ難い書である)。

もともと中国近世史を専門領域とし、台湾史はいわぼ門外漢である。しかし、韓国・朝鮮や中国と並んで日本に最も近接する台湾の歴史が、日本の大学・高校でほとんど教授されておらず(専任のポストは皆無の状況。代表的研究者若林正丈東大教授の職務も中国語教育と聞く)、学生諸君の知識にも大きな空白が存在することを痛感していたので、90年代に入ってから、通史に類する講義を本務や兼任で担当する際に、必ず数時間を割いて台湾の簡史を講ずるのを常とした。そのような情況のもと、伸びやかな視野と、鋭く澄んだ分析と、そして深い情感とを湛えたこの『台湾歴史図説』を一読した時の感動は、お分かりいただけるであろう。

2001年3月、日本の大学を定年で退職し、すでに99年に約束していた国立曁南国際大学(中部の南投県埔里鎮所在)に専任教授として赴任した。演習に2年間参加した修士課程院生陳恰行君(現政治大学博士課程院生)は、所要単位取得後、多くの院生の例に倣って史料収集のために台北に移り住み、論文作成の傍ら、学者の研究助理の仕事に就いた。時折訪れて来る陳君が、周婉窈教授の助理と聞き、本書を話題にしたのである。直後に周教授から電話を頂き、すでに台湾大学大学院の留学生、石川豪(人類学)・中西美貴(歴史学)両君が翻訳を始めていること、ついては翻訳に目を通し、適宜助言をして欲しいとのお申し出があった。台湾史専門家ではないが、漢学(Sino1ogy)と歴史学をいささかなりともかじった者として何かお役に立てれば光栄と感じ、そしてなによりも本書を隣国日本に弘めることの意義を考え、翻
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訳に参加させて頂くことにした。

原著に惹かれたのは、その内容だけでなく、周婉窈教授の透徹にして情趣あふれる、流麗な叙述であった。その文章については、台湾の学者からも、評価をしばしば耳にする(ちなみに、周教授たちは日本時代の文書解読の研究会を、院生の訓練を兼ねて開いておられるが、長年指導に当たられた老師の傘寿の祝賀文を、周教授は完壁な候文で書いておられる!)。果たして、私どもの訳文がそれを十分に伝えることができたかどうか、心許ない点がないわけでもない。かつ、監訳者の仕事の運びが決して快速とは言えず、周教授、ならびに担当編集者関正則氏と蟹沢格氏にご迷惑をお掛けしたことをお詫びしておきたい。ともあれ、翻訳に当たられた若いお二人とともに、本書が日本で刊行されることを、心から慶びたいと、思う。

2007年1月10日 濱島敦俊


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