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第1章 二・二八事件

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図説 台湾の歴史
ポストコロニアルの泥沼

第1章 二・二八事件


1―戦争期世代

もし人類社会にいわゆる「共同記憶」(甘美なものにせよ、恐怖の記憶にせよ)があるとしたら、二・二八事件は台湾本省人にとっては共同の悪夢と言うことができる。悪夢のさなかにある人は、叫びたくとも声が出ず、心の重石を除けたくとも除けられない。目覚めた後にも、しばしば動悸がなお残っている。ましてやこの二・二八の悪夢は、四十数年にもわたって続いてきたのである! 半世紀も経た現在でも、今なお振り切れない陰影のように、引き続いて私たちにまとわりついている。もしこの夢魔の幻影を徹底的に消し去ろうとするならば、まずそれをしっかりと正視し、それを分析し、客体化された共同の認識としなげれぼならない。

「はじめに」で述べたように、台湾の若い世代は「光復」を熱烈に迎えた。しかし、彼らのうちで誰ひとりとして、後にこのような共同の挫折があり、さらに3, 40年にもわたって沈黙を強いられる歳月が待っていようとは想像だにしなかった。1945年以降の台湾の歴史を理解しようと思うならば、この世代に対する理解が必要である。彼らは、日本の台湾植民地統治の下で、教育を受け戦争動員に駆り立てられた世代であり、筆者は彼らを「戦争期世代」と呼んでいる。この世代とは、日本敗戦時におよそ15歳から25歳であった台湾人を指している。彼らは日本の植民地統治が安定と成熟にさしかかった時期に成長し、植民地教育の効果がもっとも顕著に現れた世代である。それ故に、植民者の統治理念もまた、彼らにもっとも深
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い刻印を残していると言えるのである。その受けた教育は、彼らをして国家つまり日本という国家を熱愛するように導いた。すなわち、彼らの歴史的アイデソティティの対象は日本の歴史であり、それも皇国史観の歴史であった。それと同時に、教育は豊富で実用的な知識(あらゆる日常生活に関するものから科学的知識まで)、さらに強烈な郷土観念と郷土愛をもたらした。彼らの道徳教育は、かなりの水準を保っていたと言えるが、残念ながら、そこには濃厚な軍国思想が混じっていた。その教育において、台湾とは過去を失った郷土であり、歴史的空間を切除された存在であった。また彼らの中国の歴史文化に対する知識と認識はほとんど零に等しかった。

それと同時に、皇民化運動と戦争動員がすさまじい勢いで進められた。世の中に、戦争ほど国民を結束させる力があるだろうか? 天皇を戴く日本軍の志願兵に、台湾の熱血青年たちは男女を問わず血書を認(したた)めて応募し、海外に赴いて戦争に参加したのである。彼らは日本語を話す新世代であり、父祖とは別の人生観や歴史認識を持っていたのである。父祖の世代は、日本が台湾を占領した時のさまざまな血なまぐさい事件をかすかに記憶しているか、あるいはどこかで聞いており、さらには年齢や経験によって、彼らの多くが植民地社会の差別や不平等を肌身に感じていたので、「日台融合」や「日台一体」といったスローガンや、それに対応する政策(法律上の平等)に、若者のように惑わされることなく、当局の真意を容易に見抜くことができた。

しかしながら、歴史は日本の植民地統治者に十分な時間を与えなかった。台湾人は大和民族ではなく、日本人ではない。この事実は、そう簡単に消え失せたり抹消したりはできなかった。漢人系の台湾人のほとんどは、自らの祖先が対岸より渡来したことを知っていた。ある台湾人日本兵は、アメリカのジャーナリストのインタビューを受け、あなたは自分が日本人であると思うかどうか問われた時に、「いいえ。私が小さい頃から、父親が、祖先は大陸から渡ってきたのであって日本人ではない、ということを言い聞かせてくれた」と答えている。しかし記者が日本の戦争について触れた時には、彼ははっきりした口調で「われわれは、あの時確かに日本人だっ
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た。国家に忠誠を尽くすのは当然だ」と答えたという。この一見矛盾する答えは、実はそう食い違っているわけではない。前者は民族的自覚( ethnic identity )に関わり、後者は国家への帰属意識(national identity)を表しているのである。言い換えると、当時台湾人は日本を国家の帰属の対象としており、日本は「御国」(mikuni)なのであって、この意味では台湾人は日本人であった。しかし民族的にいうと台湾人は日本人ではなかったのである。

つまり日本の教育を受けた台湾人の多くは、自分たちは日本人ではなく、やはり漢人の子孫であることをはっきり知っていたということがよく分かる。そこには、「日台一体」などのスローガンによってなんとか縫い合わせようとした民族間の裂け目が存在していたのである。もし日本統治が充分な長さであったなら、あるいはこれらの縫い目は、それと分からぬほどにつながってしまったかもしれない。しかし1945年8月15日、日本が降伏したため、この縫い目は、縫い合わせた跡がくっきり浮かび上がったのである。そして、異なる布地を縫い合わせようとしたところは、いとも簡単に断ち切られたのであった。


2―黎明を迎えて

光が戻って来た! 台湾人は「歓喜を面(おもて)に表した」。彼らは積極的に新しい「国語」(北京語を基礎とした中国の標準語)や祖国の事物を学びはじめた。しかし中国と切り離されて50年という隔たり、また中国本体の巨大な変化は、至るところで、台湾人の祖国に対する理解にも欠落を生じさせていた。さらに厄介なのは1937年から1945年までは、台湾では皇民化運動の8年であり、そして戦争動員の8年でもあった。そして中国にとっては、その8年は抗戦の8年であったのである。日本は1930年代初頭から中国を侵略しはじめ、とりわけ37年からの8年にわたる抗戦は、日本に対する深刻な怨恨感情(ルサンチマン)を中国人の心に刻み込んだ(このような感情は、今でもなお容易に爆発するものである)。全体的に見れば、台湾人は戦争期には中国人とまったく反対の立場、つまり日本人の側に立っていた。そのため必然的に、彼らは祖国の人びとの日本に対する怨恨感晴を理解すること
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ができなかった。また逆に言えば、中国人もまた日本の植民地統治が台湾人に与えた影響、その功罪両面をまったく理解できなかったのである。

連合軍の協定に基づき、台湾は中華民国政府に接収された。1945年8月29日、蒋介石(台湾では一般的に蒋中正と呼ばれる)は、福建省主席陳儀(ちんぎ)を台湾行政長官に任命し、9月1日より台湾省警備総司令官を兼任させた。台湾接収の任務を受けた第70軍の先頭部隊である第75師団が、10月17日、基隆に到着した。祖国の軍隊が台湾に上陸してくることを聞きつけ、台湾人は非常に興奮した。台北人は言うに及ばず、はるばる台中・台南や高雄などから基隆港に駆けつけて来て国軍を出迎えた人も少なくなく、波止場にはびっしりと人びとが詰めかけ、祖国の軍隊の勇姿を固唾(かたず)を飲んで待ちかまえた。しかし、国軍の姿は、彼らのよく知る日本の軍隊のそれとはまったく異なっていた。隊列もばらばらで、見るからにみすぽらしく、全員が背中に雨傘を背負い、鍋や食器、寝具を担いでいる者もいた。また彼らのゲートルは、くるぶしのあたりで、ひどく膨れ上がっていた※1。 国軍兵士の、これまで見たこともないありさまを目の当たりにして、若者たちは失望を隠すことができなかった。国軍への愛着、そして自分自身を納得させる心理から、老人たちは「国軍は普段、鉛板を足首に装着して歩行を鍛錬しているのだ。だから、いったんそれを外せば、飛ぶように疾走できるさ。背負っている雨傘だって、落下傘に使うんだぜ」と語った。こうとでも解釈しないと、こんな格好をした国軍が、どうして、装備優良、軍容厳正な日本軍隊を打ち破ることができたのか説明がつかなかったのである。同じように奇妙なのは、あくまでとことん善意に解釈しようとした呉濁流ですらも、「ある錯覚があった。あのみすぽらしい様子こそ、まさしく民族精神の実態そのものだったのではないか」と語っていることである。国軍上陸の光景、そしてそこに「加えられた」解釈は、瞬く間に遍(あまね)く台湾全島に伝えられた。当時その場に居合わせなかった多くの台湾人が、後日、あたかも自分がその眼で見たかのように、この歴史の一幕を回想したのである。

※1 ゲートルはきちんと巻かないと足首のあたりでたるんでしまい、だらしなく見える。
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10月24日、陳儀が台北に到着すると、歓迎の人波が松山飛行場に溢れかえり、バスに乗れなかった人たちはわざわざ歩いてやってきた。もし国軍の歓迎が、「箪笥壷漿」〔食物や飲物を献呈して新支配者の来臨を歓迎する〕であったとするならば、陳儀を歓迎した様子は「万人空巷」〔皆が家を空けて迎えにいく〕と言ってもよいほどであった。翌日、「台湾行政長官公署」が正式に成立し、台湾総督府に取って代わって最高権力機構となった。同日に執り行われた「中国戦区の台湾省が日本軍の投降を接受する典礼」によって日本の植民地統治は正式に終わりを告げ、国民政府による統治が開始されたのである。こうして10月25日は「台湾光復節」とされ、日本による植民地統治の始まりの日の「始政記念日」〔6月17日〕と同じように、重要な祭日となり、新たな統治の始まりを表示するものとなった。


1-1 台湾の生徒たちが国軍の来台を並んで迎えている。
出典:二二八紀念館 提供。

1-2 花蓮の医者張七郎(1888-1947)が書いた歓迎の書と四幅の歓迎門聯。図中2つ目の聯には「五十一年、卑僕まさに死なんとしてまた生く 〔日帝支配下に51年間、奴婢の身で死なんばかりであった我々は、再生の時を迎えた、の意〕 」と書いてある。この時、1年半後に長男の宋仁、三男の果仁とともに国軍に殺害されるとは、彼には思いもよらぬことであった。
出典:二二八紀念館提供


国軍についての神話が信じられたのは、ごく一時期のことにすぎなかった。「祖国の懐(ふところ)」へ帰ることに対して、台湾人が最初に抱いた熱情と想像は、さして時日を経ぬうちに、その現実に触れることによって、あっという間に冷め、幻減に変わりはじめたのである。役所では汚職や腐敗がはびこり、軍隊には紀律がなく、勝手放題に何でも取り立て民間を煩わすばかりだったし、さらに、経済の破綻、不合理な貨幣制度※2、物価の高騰などによって、台湾人の不満はつのるばかりであった。

日本が敗戦を迎えたとき、台湾に居住していた日本人とその子女は、約31万人であった。12月25日から始まった日本人の帰国の中で、彼らは所有していた不動産を没収され、ただ身の回りの品々と、1000円を上限とする日本円しか持ち帰れなかった※3。彼らの中にはいわゆる「湾生」―台湾生まれの日本人―も少なくなかった。日本人が台湾を離れるときに味わった諦めと苦しみの様子を、至るところで多くの台湾人が記憶にとどめている。植民地という枠組みは、支配される人びとにとって、決して気持のよいものではなかった。しかしながら、日本人教師と台湾人生徒の師弟間の情誼や、この地に生まれ育った日本人の郷土感情は、政治やさまざまな障害を越え、数十年の後も断ち切られたかに見えて、実はついに切れることなく連綿と続いているのである。彼らは「同窓会」などの組織を通じて、昔の交流を重ねつづけている。当然のことながら、こうした話はずっと後の話であるが。

※2 日本敗戦まで台湾では、台湾銀行券が通貨として安定した価値を維持していた。国民政府の統治開始後、中華民国の通貨「法幣」が法定貨幣となったが、大陸のすさまじいインフレーションが台湾に持ち込まれることとなった。

※3 残された公私の彪大な資産は、国民政府に没収されたが、当時の国民党と国家・政府が一体化した体制の中で、例えば全省の映画館が国民党所有に無償移転されるなど、莫大な「党産」(国民党の資産)の形成に用いられた。さらには腐敗体制の中で、新支配層の個人資産に転移したものも少なからず存在したと言われている。現在、この国民党の党産の国家への返還が、一つの政治問題となっているが、頑強な抵抗が続き、進展が見られない。
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1-3 1945年10月25日「中国戦区台湾省日本軍投降接受」式典が公会堂(現、中山堂)にて執り行われた。図は、台湾省行政長官陳儀が、連合軍中国戦区最高統帥を代表して、日本軍第10方面参謀長諌山春樹が奉呈する降伏文書を受け取っているところである。
出典:二二八紀念館 提供

1-4 降伏式が執り行われた際、公会堂の外に集まった群集
出典:二二八紀念館提供

1-5 1946年5月雑誌『新新』に掲載された漫画。画題は「銭が物においつかない」。作者は葉大仙(葉宏甲のこと)
出典:『新新』第4,5号(1946年5月)

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前述したように、漢人系台湾人は自らの祖先が大陸から渡ってきたことを知っていた。台湾が日本の植民地となった情況は韓国とは違い、韓国は一つの国家そのものが植民地に落とされてしまい、そのため、身分階級の上下を問わず、すべて退路がなかったのである。しかし台湾は、自身の文化や政治の母体から日本に割譲され分離されたのであり、したがって、対岸の「唐山」(中国大陸)の存在は、常に一つの要因として影響力を持ちつづけ、ただ時間の推移とともにその作用がしだいに弱まっていったのである。日本統治下において、台湾人の中には、さまざまな原因(植民統治への不満など)から中国大陸に移住していった者もいた。台湾光復の後、彼らは次々と台湾へと戻ってきた。台湾に残った人びとは彼らを「半山」(半分は「唐山」人、半分は台湾人)と呼んだ。「半山」という用語は、後になって、ある種の特定の意味、多分に政治的意義を込めた言葉となった。つまり、中国大陸に居住し、国民党と密接な関係を築き、光復後に故郷に戻ってきた台湾人たちを指したのである。彼らは台湾人のことも中国の統治者のこともよく知っていたので、光復後、双方の相互理解を促すことができた。彼らのうち何人かは二・二八事件で、意思の疎通を図る協力をしたために犠牲者になった。しかし何人かの「半山」は事件の後、新統治当局の協力者に変わったため、「半山」という呼称には「裏切り者」への否定的な意味合いがあるのである。

台湾の日本への割譲は条約に明記されており、しかも中国は、1894年の日清戦争以来、清末の義和団事件や辛亥革命、軍閥専制、国共内戦などの動乱によって政治や社会は動揺しつづけ安定することなく台湾を顧みる暇(いとま)がなかった。しかしながら、大陸に寄留した少数の台湾人は、やはり、祖国によって台湾が救済解放される思いを捨ててはいなかった。1942年、重慶国民党政府当局は4月5日を「台湾の日」と定め、台湾人政治団体と国民党当局の宣伝の下に、ある時期「収復台湾」「光復台湾」などの呼び声が高まった。さらに1943年には、中国、アメリカ、イギリスの3国の指導者たちがカイロで会談を行い、第二次世界大戦終結後には、台湾を中国
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1-6 まもなく日本本土に送還されようとしている在台日本人
出典:二二八紀念館提供

1-7 引き揚げ前に検査を受ける日本軍人
出典:二二八紀念館提供

に返還するという原則を確認した。台湾の回復に希望が見えはじめたので、国民党政府は「台湾調査委員会」を組織し、台湾接収の準備工作を始めた。台湾調査委員会には多くの台湾人が参加した。彼らは台湾出身者であり、同時に国民党支配下の中国で生活し仕事をしていたため、両方の清況を了解していた。積極的に台湾接収の準備が開始された時、幾人かの台湾人が、中国の当局に対して、しばしば意見を提出した。後から見れば、彼らの建議は予言に似ており、人びとに「不幸にして予言が的中した」感を与えるのである。

『台湾民声報』は、1945年4月16日に重慶で創刊され、毎月2回刊行された雑誌である。この雑誌の中で「臬紹(げっしょう)」と署名している筆者は、台湾の接収に対して10項目の要求を提出している。

  1. 台湾総督の「委任統治権」※4 とそれに類似する特権を台湾社会から排除する。
  2. 台湾の地方自治制度は、改善した上で継続して施行する。
  3. 祖国当局は、模範となるような公僕を選んで、台湾に派遣服務させる。
  4. 祖国当局は、直ちに、台湾の現下の物価指数を基準とする新しい貨幣制度を確立する。
  5. 当局は言語及び文字について、〔急激な国語=北京語強制を行うのではなく〕漸進的な変更政策をとる。
  6. 当局は政体の変化に伴う失業をできるだけ食いとめる。
  7. 当局は台湾人民の土地所有権に関する不合理な変動を抑える。
  8. 当局は台湾人民の流動資本及び固定資本の急激な変動を抑える。
  9. 当局は台湾人民に言論思想及び結杜の自由を与える。
  10. 当局は余計な混乱及び不当な事物を台湾に持ち込むことを禁ずる。

さらに署名「孝紹」という別の筆者は、以下のような警告を発している。

「50年にわたり、台湾人は祖国への復帰を熱望してきた。……ただ台湾人は祖国の落ちぶれた様子を愛さないし、祖国の畸形じみた社会生活も愛さないだろう」。そこで彼は呼びかける。「祖国は、上下を問わず、みな「50年もの間、日本に行っていた留学生」として台湾人民を見てほしい。この見方は大変重要である。もし日本の植民地、あるいは日本の奴隷として台湾人を見るならば(台湾人は普通みな反抗精神を持ち合わせているが)、中国が台湾を接収したとしても、中国による台湾の植民地化と何ら変わることがなくなるだろう」。

この二人の筆者は、非常に深く中国を理解していたがために、このような建言や呼びかげを行ったのだろうか、それとも無意識のうもに、潜在的な懸念・憂慮を漏らしたのだろうか? あるいはその両者を兼ね備えたものなのか、私たちには分からない。だが確実なことは、歴史が証明しているように、祖国による台湾接収のやり方とその政策は、彼らが提言したものとまさにまったく反対のものであった! その結果が、二・二八事件として現れたのである。


3―顛末


国民党政府による台湾接収の後、台湾は省を設置されたが、一般の行政制度が採用されず、行政長官公署による統治が行われた。台湾行政長官公署とは、台湾総督府によく似た、あるいはそれ以上に行政と軍事権力が一体となった機関であった。これもまた『台湾民声報』に言うところの「伯権」である。日本統治下の地方自治および選挙制度は引き継がれなかっただけではなく、これを基礎に改善することなど論外であった。台湾にやってきた官員の中には、当然のことながら清廉で阿(おもね)らぬ者もいたが、倫理において欠ける者が大部分を占め、彼らの汚職腐敗の情況は中国大陸ではあるいはごく見慣れたものであったかもしれないが、〔日本時代の〕およそ清廉潔白な行政を見慣れた台湾人から見ると、まるで常軌を逸しているように映ったのである。これら汚職や腐敗は個人に限らず、しばしば官員と商人の癒着にまで及び、彼らの目標は、台湾の物資を余さず奪い取り、大陸に横流しして、暴利を貪(むさぼ)り取ることにあったのである。かくして、「接収」は「劫(ごう)収」(強奪)に変わっていった。

※4 原語は「伯権」。count palatineの訳語。中世ヨーロッパの、自領で王権を行使することのできた伯爵の特権を意味する。

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精神面において、台湾人、とりわげ知識人にとってもっとも受け入れがたかったものは、新しい統治集団が口を開くたびに、台湾人を「奴隷化教育」を受けた者として否定することであった。彼らは、台湾人は日本の教育によって奴隷根性を植えつけられた集団だと見なし、さらに台湾人の持つ能力や受けた訓練を軽視し、彼らを新社会の建設の枠外へと追いやったのである。陳儀政府のとった言語及び文化政策は、過激でまったく融通の効かぬものであった。光復から1年後、新聞の日本語欄はすべて廃止された。これを日本統治時代の台湾では42年を経てようやく新聞から漢文欄が消えたのと比べると、こうした措置は、陳儀自ら語るとおり、かなりの「剛性」(強権)であったことがうかがえる。言うまでもなく、植民者の言語を排除するのは当然であり、これらは台湾人も初めから分かっていたことである。光復当初、「国語(=中国普通語)」の補習クラスの類の施設が、雨後の筍のように相次いで設立され、台湾人も競って「国語」を学んだ。たとえば、日本の植民統治時代に名を成した小説家の呂赫若(りょかくじゃく)※5 もまた急いで改め、中国語で小説を書くようになったのである――しかし、彼もまた二・二八事件とそれに続く白色テロで命を落とすことになるとは、当然のことながら予見できなかった――。このため、台湾人に新しい「国語」を学習させることはそれほど問題ではなかったのである。しかし問題は「国語」が政治化され、台湾人を排除する武器としてそれが利用されたことなのである。それはまさに例の「奴隷化」のスローガンと同様に、有無を言わさず相手をまとめて倭小化し、台湾人の利益を奪う口実に変わった。

※5 呂赫若(1914~1951?)台湾の作家。本名は呂石堆。日本語による処女作「牛車」(1935)でデビューし、日本統治時代の台湾を代表する作家となる。戦後、「人民導報」記者として、中国語で創作を続けるが、のちに左傾化し、武装蜂起を企てる中で死去したとされる。


陳儀は経済上徹底した統制政策をとり、専売局と貿易局に、省内商業と対外交易を管理させた。台湾当局は煙草、酒、樟脳、火柴及び度量衡の5種を専売品と定め、さらに塩、砂糖、石灰等を半専売の統制下に置き、専
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売局にこれらを管理させた。貿易局は対外的経済統制を管轄し、あらゆる物品は、必ず貿易局を通過してのみ国内への持ち込み販売を許した。それは台湾と国内の物資の流通を妨げただけでなく、これらの手法により、官僚の介入操作に道を開き、賄賂が公然と横行する忌まわしい状況を造り出すことになった。この他、長官公署は光復当初より台湾紙幣を維持する政策をとり、台湾での法幣の使用を禁止し、台湾元と法幣の兌換率を規定した。経済統制によって、加えて物資が汚職で絶えず流出したために、台湾はインフレーションと物価騰貴に陥り、価格が上海よりも高くなるという現象を招いた。米が年に2,3度も収穫できる台湾本島で、100斤の米が上海の2倍以上の価格で売られるようになった。1947年1月には、米価が高騰し、一日に何度も値段が上昇するという状況が発生した。台湾経済を


1-8 専売局台北分局前に集まって抗議する群衆
出典=二二八紀念館提供

牛耳っていた二つの機関のうちの一つであった専売局が、ついには二・二八事件の引き金を引くことになるのだが、この偶発的な事件も、全体的な観点から見ると、単なる偶然として片付けることはできないのである。

事件発生の数日前、上海の週刊紙『観察』の特派員が、台湾に関して、詳細かつ正確なルポルタージュを書いた。彼は結びの部分で、
「最後に、私が台湾に在って観察するところ、今日の台湾は至るところに危険状況が転がっており、つまりいつでも争乱や暴動が起こりうるということを直感している」
と結んでいる。この「台湾通信」が、3月8日の『観察』に載ったその時には、彼が直感した「いつでも起こりうる」争乱、あるいは暴動がすでに発生していたのである。

1947年2月27日の夕刻7時頃、専売局台北分局の取締官、傅学通(ふがくつう)ら6名と台北警察隊の警官4名が、闇煙草を取り締まるために太平町〔現在の延平北路〕に赴いた。そこで、闇煙草を密売していた林江邁(りんこうまい)の煙草と売上金を没収した。林江邁は40歳の寡婦で、10年前に夫が亡くなったとき、二人の息子と、お腹には娘がいた。そのため生活は苦しく、闇煙草を売ることで何とか生活をしていた。林江邁が没収品を返してほしいと涙ながらに訴え、小競り合いになるうちに、官憲の一人が銃の柄で林江邁の頭を殴り、林江邁の頭から血が流れた。周りにいた人びとがこれを見て憤激し、専売局のトラックを破壊するなどして反撃した。この混乱の中で傅学通は民衆から逃れるために威嚇射撃を行ったのだが、その弾がたまたま歩いていた陳文渓に誤って命中した(翌日死亡)。取締官は警察局に逃げ込んだので、群衆は警察局を包囲して殺人を犯した人物の引き渡しを要求したが認められず、群衆の怒りはますます高まったのである。

翌朝午前9時、民衆は路上でドラを鳴らし、商店休業を訴え、デモ行進を挙行、まず太平町2丁目の派出所を破壌し、12時になると民衆は専売局台北分局に群れ集まり、犯人の厳罰を要求したが拒否されると、さらに行き先を行政長官公署〔かつての台湾総督府、現在の台湾総統府〕に変更し、陳儀に陳情しようとした。午後1時過ぎ、デモ隊は約4,500人にまで膨れ上がり、ドラを叩き、道々でスローガンを声高に叫び、勢いを増していった。
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1-9 二二八事件発生当日の台北駅の様子
(左上が旧台北駅。現在は敢り壊され、建て替えられている)
出典:前アメリカ駐台北副領事George H. Kerr 生前所有。二二八紀念館提供


1-1O 台湾省政治建設協会が南京のアメリカ大使スチュアートに、中国国民党政府蒋介石主席に渡して欲しいと頼んだ手紙。内容は蒋介石に「決して台湾に派兵してくれるな」と頼んだものである。台湾省政治建設協会の最初の名称は「台湾民衆同盟」であり、蒋渭川が日本統治期に抵抗運動者と合流して結成されたもの。
出典:蒋渭川家所蔵、二二八紀念館提供

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この時、公署の広場前には、すでに派遣されてきた兵士たちが警備していたが、突然銃声が鳴り響き、兵士たちは民衆に向けて一斉掃射を開始し、多数の死傷者を出した。これが事件の成り行きが収拾不能となってしまった原因なのである。

午後2時を回った頃、民衆は台北公園(俗称は新公園、現在は二二八和平紀念公園)に集い、台湾放送局(現在の二二八紀念館)に押し入り、全省へ向け放送を開始、台湾人は暴政に抗して決起するよう呼びかけた。こうして台北市での衝突は瞬く間に全島各地に広まり、各県・市もこぞって立ち上がり、全島を挙げての政治抗争へと展開してゆくこととなった。

紙幅に限りがあるため、ここで二・二八事件後の各地における政治抗争の模様を、詳細に描写することはできない。基本的には、二・二八事件は二つの段階に分けることができる。

第1段階は、わずか9日間のみである。すなわち2月28日から3月8日までである。「全台蜂起」(先住民部落を含む)のために、駐屯する軍隊・憲兵・警察がこれを鎮圧できず、民衆・軍警それぞれに死傷者を出し、台湾に居合わせた外省人たちが、時には路上で報復の対象となっていた時期である。そして、3月8日午前、大陸政府の派遣した軍隊が基隆港に上陸するや否や、午後2時から直ちに街路掃討・密集射撃を開始し、島内全域での血なまぐさい鎮圧が始められた。ここから形勢が完全に逆転、台湾人の死傷者は数え切れぬものとなってしまった。一般にわれわれがよく知る二・二八大虐殺は、この時から開始されるのである。

二・二八事件は、組織もなけれぼ、計画もなかった偶発的な事件である。しかしながら、事件発生後の3月2日、台北市で「二・二八事件処理委員会」が成立し、各県に相次いで処理委員会の分会が成立し事態を解決しようとした。二・二八事件処理委員会は9日間の事件の群衆の中枢とも言うべきものであり、同時に陳儀と交渉談判する組織でもあった。だが陳儀は、3月2日のうちに蒋介石に密かに打電し、軍の派遣を上申して鎮圧を要請する一方で、処理委員会の要求に応じるように見せかけ、時間稼ぎを行っていたのである。処理委員会が提出した要求は、後日、反乱の罪状と化し
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(陳儀政府は「(組織の)性質が変質して、非合法団体と化し、反乱行動に従事した」と指弾した)、そのため、全島で積極的に処理委員会に関与していた人びとは粛清対象となり、甚大な被害をもたらした。

1-11「清郷実施にあたり民衆に告げる書」の中国語版と日本語版。これは1947年3月20日に台湾省行政長官兼警備総司令の陳儀が発布した清郷〔直訳は農村掃討。農村などに逃亡し、隠れている政治犯の摘発と隠匿武器の取り上げを行った〕通告である。当時台湾で教育を受けた者は大抵中国文が分からなかったため、日本語版も同時に発布した。
出典:二二八紀念館提供

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3月9日、陳儀は台北及び基隆に戒厳令を布告、国軍が台北に入り、道すがら一斉掃射を開始したので、一日中銃声が途絶えることなく、民衆は次々と捕らえられて殺害された。10日、陳儀は「二・二八事件処理委員会」と一切の「非合法団体」の解散を命じた。また同日、蒋介石は台湾での事件について、共産党の煽動が二・二八事件の原因の一つであると語った。11日、治安回復計画が出され、交通及び通信が全面的に管制された。18日、国民党軍は東西の2路に軍を分けて掃討作戦を展開、台東で合流し、全島を掌握しようとした。21日には「綏靖(すいせい)(=治安回復)計画」に合わせて、「清郷(せいきよう)(地方や農村の「反政府的」人士の掃討)」を開始した。4月22日、行政院は台湾省行政長官公署を廃止し、これを省政府に組み入れ、魏道明(ぎどうめい)が省政府主席とたることを取り決めた。5月11日に陳儀は台湾を離れ、15日、魏道明が台湾へやってきて、翌日に台湾省政府が成立し、あわせて以下のような重要措置の発表が行われた。〔1〕戒厳令を解除する。〔2〕農村での掃討作戦を完成させる。〔3〕報道・図書・郵便の検閲を解除する。〔4〕各種交通規制をすべて解除する。ここにおいて二・二八事件は一つの区切りを迎えたのである。

上記の日誌のように、事件のあらましを羅列しただけの描写では、おそらく「綏靖」や「清郷」の恐怖、さらには台湾人の受けた衝撃を十全に伝えることはできないであろう。国民党軍の鎮圧は報復的なものであり、裁判の手続きを踏むことなく、みだりに捕え、殺害するものであった。たとえば、「綏靖」のピーク時には、毎日のようにトラックが処刑者を基隆の要塞司令部へと連行し、縛ったまま死体を海へと流して、万事解決としたのである。その死体は、水を吸って膨れ上がり、海岸へと流れ着き、あたかも言い表せぬ恐怖を故郷の人びとに訴えかけるかのような表情をしていたという。今に至ってもなおわれわれは、この血なまぐさい鎮圧時期に、いったいどれくらいの台湾人が殺されたのか、知るすべを持たない。その数は数千から10万人以上とさまざまだが、研究者たちの間では、おそらく1万8000人ほどの犠牲者がいると推測するのが一般的である。たとえ人びとの印象の中の死者の数が誇張に過ぎることがあったとしても、それは理解できぬわけではない。
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1-12 嘉義出身の画家陳澄波(1895~1947)の学生時代の写真。陳澄波は東京美術学校(1924-1927在学)を卒業し、その後研究科で学んだ(1927-1929)。1926年、油絵「嘉義街外」で、日本の第7回帝国美術展覧会において入選した。この写真は入選後、東京美術学校で記者の訪問を受けたときに撮影されたものである。彼はその後数回帝展やその他の展覧会に入選した。二・二八事件発生後、表に立って情勢に対処したため、逮捕され、3月25日に嘉義駅前で銃殺刑に処せられた。妻は強いて冷静に努め、彼の遺体を写真に収めた。死後陳澄波の眼は大きく開き、容貌は学生の頃の写真と寸分変わらず、身を起こして筆を持ち、絵を描けるかのようだった。しかしながら実際には彼の体は血まみれで、両手はすでに冷たく硬くなり、胸を貫いた弾丸が彼の命を奪っており、二度と起き上がることはなかった。二二八紀念館を訪れる人は、展示されている写真の中に、この全く同じ容貌でありながら生死を異にしている写真を見ることができる。
出典:陳重光提供


1-13 医師盧鈵欽(1912~1947)は陳澄波と同様、二・二八事件処理の表に立ったため、逮捕され、陳澄波ら4人と嘉義駅前で刑に処せられた(1947年3月25日)。彼は一生の大部分を日本と広東で過ごした。これは臨終前に妻の林秀媚に当てた手紙である。手紙にはこう書いてある。
我が愛する妻よ
いよいよ明日あの世に行く。今世君に大分苦労をかけた有難う! 来世に必ず御礼返します。
只心配なのは子供らのこと、滄海にもお知らせして下さい。
……人は一度死するものだ。どうか健気に強く子供のため生きて下さい。僕はあの世で君の健康を見守る! ……只残念なのは君に充分愛を尽くす事の出来ないこと! でも宿縁とあらば仕方はあるまい。いとしい君の姿を胸に抱きて、僕はにっこりこの世を立つ。……
神になった気持ちを僕はいふ

良い妻をもらって何より満足だ。サラバー一
決して泣くなよ!
それから
君の鈵欽
彼の妻は、処刑の時に着ていた血のついた衣、そして全ての手紙を保管していた。あるいはそれは、彼女が生きてゆく精神の支えであったのかもしれない
出典:林秀媚女史提供


これらの原因は、二・二八事件の中で命を落とした台湾人の主要な犠牲者には、働き盛りのエリート及び学生を含む多くの若者が含まれていたからであろう――国軍の上陸の噂を聞くや、年配の者たちが若者たちを直ちに逃亡させ、多くが山間部に隠れたという。日本植民統治下において、台湾の社会的エリートは、少数で得がたい存在であり、比率からみるとその犠牲は甚大であった。今日、近代台湾史のどの側面を研究するにせよ、われわれは、優秀な人材が突然二・二八事件に飲み込まれてしまったことに気づく――小説家、芸術家、教育家(教授、教師)、実業家、マスコミ関係者、民意代表、医学生、法曹界の人士(法官、検察官、律師)、地方士紳、先住民エリート‥‥等々。若い人たちの命が損なわれることは、いやが上にも人びとに哀惜の念を起こさせる。なぜなら彼らには無限の可能性を秘めた人生が残されていたのだから。言い換えれば、台湾人はあの二・二八事件の短い間に、無数のエリートと歳若い子や甥を失ったのである。このことが、二・二八事件が台湾社会に大きな衝撃を与えた一つの原因なのである。運よく生き残ったエリートたちも、怯え萎縮してしまうか、さもなくば貝のように口をつぐんでしまうことになった。台湾社会は沈滞しただけではなく、「脱道徳化」(de-moralized)してしまったと言わざるを得ない。一個の社会が突然のうち、多くの名士や文化的エリートを失ってしまったとしたら、それがもたらす後遺症はいったいどのようなものになるだろうか? これはわれわれが考究するに値する深い問題である。

歴史は、まさに二・二八事件が統治者による負の遺産であることを証明した。しかし当時において、統治者側にこのような認識はなく、陳儀はまさしく「死んだアヒルの嘴(くちばし)は硬く閉ざされる」(死んでも自分の罪を認めな
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い)のである。3月24日、陳儀が中央政府に打った電報の中で「この事件‥‥の遠因は、台湾人の受けた日本奴隷化教育の影響が余りに深く、思想が毒されていたためであって、平時に台湾紳士たちは懲治を受けたことがなく、新聞は悪性低劣で厳格に取り締まられてこなかった。弟〔陳儀の自称〕の政策は寛大に過ぎ、ために陰謀に道を開くに至ったのである。‥‥」と言っている。現在、次のように陳儀に直接問いかけることができないのが残念である。「当時、大陸の世論もあなた方を厳しく批判した。彼らは決して台湾人ではなかった。もしかしてあなたは、彼らもまた「日本奴隷化の影響があまりにも深く、思想中毒になってしまっている」とでも言うのだろうか?」 陳儀は電報の中で、さらに根拠のないことを持ち出して台湾人を非難した上、二・二八事件は、民衆の行政長官公署に対しての全面的な不満の表れであることを否定した。彼によると「結局のところ、この度の事件は完全に少数の「暴徒」が画策した動乱であり、民衆全体が政治及び専売・貿易などの経済制度の改革・改善を求めた運動ではなかった……」。まさに「此地無銀三百両」(語るに落ちた)※6 とはこのことである。

※6 自ら銀三百両を土中に埋めて、「ここには銀三百両はありません」という立て札を立てておく。

1-14 台中の弁護士林連宗(1905~1947)と娘の林信貞の、家庭での写真である。林連宗は1946年に制憲国民代表の身分で首都南京に赴き、中華民国制憲会議に参加した。二・二八事件発生後、林連宗は北上して「二・二八事件処理委員会」に参与し、親友李瑞漢(1911-1947)の家に泊まった。3月10日、軍憲が李瑞漢家に来て、陳儀が彼と弟の李瑞峰(1911-1947)に会議に参加して欲しいと求めていると言い、林連宗もともに連れ去られ、以後3人の行方は分からなくなった。李瑞漢兄弟と林連宗は中央大学法学部の同級生で、共に弁護士であった。
出典:二二八紀念館提供


二・二八事件は少数人が画策した謀略によって引き起こされたものでなく、まさしく民衆が政治の改良と専売・貿易などの経済制度の改革を願ったものであった。陳儀は台湾を離れた後、国民政府顧問となり、翌年には浙江省主席を務めた。1949年2月、「通共」(共産党と内通)した嫌疑が持たれ、浙江ク州に軟禁されたが、この年4月に台湾に連行され、1950年6月18日に銃殺処刑という目に遭った。しかし彼の死は二・二八事件とはまったく無関係であった!

もし陳儀がまだ生きており、さらにこの事件に対して何ら反省していないとしたら、あるいは柯遠芬(かえんふん)の態度が参考になるかもしれない。二・二八事件発生時、柯遠芬は台湾省警備総司令部参謀長を務めていた。四十数年後、彼は1989年に至っても、次のような見解に固執していた。「……ある同胞たちは台湾光復後、心理状態のバランスがとれていなかったのではないか。とりわけ日本統治期間に重用された紳士、皇民奉公会の人びと、及び私的に日本人の財産を受け取った悪質な地主や地方紳士、その他、悪辣な札付きの連中などが、頼りとするものが崩壊しても、心の中では旧主を慕い、新しくやってきた祖国の官吏を仇敵視したのであろう。もっとも惜しむべきは、日本人に利用された台湾籍の軍人や浪人たちである。というのは、過去に日本軍に協力し、祖国同胞をないがしろにするような習慣が身についてしまい、不運にして、台湾に送還されたが、一時的に仕事を得ることもかなわず、あるいは仕事に就くことを願わず、いわれなく祖国、及び大陸から台湾にやってきた官員・人民を逆恨みする羽目になってしまったのだ。これらの人びとはすべて事件を起こした不満分子や暴徒たちである」。 事件発生から四十数年が経ってなお、柯遠芬はこのような主張をしており、人びとが互いに理解し合うということの困難さを思うと嘆息するほかない。今日、二・二八和平紀念公園には事件を偲ぶ紀念碑が建立されてはいるが、二・二八事件についてどのような理解と内省をすべきかということについて、真のコソセンサスに到達するのは程遠いことのように思われる。
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