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第8章 二大抗日事件

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第8章 二大抗日事件


(噍吧哖事件)

1895年11月、日本軍は「全台平定」を宣言したが、実際は台湾人民は引き続き「蜂起」していた。漢人の武装抗日運動は1915年の「噍吧哖(タパニー)」事件が平定された後に、やっと本当に幕が下りたと言える。

※「哖」=「口ヘンに「年」

台湾での権力交代の際、上級士紳(進士、挙人)や豪商は慌てふためいて大陸に移る者が多く、各地にはまた「日本軍を出迎える」者も幾らか現れ、全島民が一致団結して外敵に立ち向かうといった状態ではなかった。それでもなお、乙未(1895年)の役では全階層・全島民の郷土防衛戦としての性質は失われてはいない。研究によれば、指導層は、清朝の官吏の他に、台湾人の「生員」※1・豪商・大地主や、地方の土豪・親分などを中心とし、兵卒は正規軍・民兵から私兵や一般の村人などさまざまであり、老人や女性、子供までもが含まれていた。乙未(1895年)から1902年まで、台湾各地でこのような人びとによる抗日蜂起が頻発した。1902年から1915年の間、抗日運動は局部的となり、「陰謀事件」が主となってくる。これらの二つの時期※2 の抗日活動においては、土紳階級はもはや指導層とはなっていない。1920年代から30年代、台湾の社会政治運動は、少数の旧時代の士紳階級と、新興の知識分子が指導層となっており、武装抗日との間に断層現象が見られる。数ある武装抗日事件の中で、特にここでは「噍吧哖(タパニー)事件」と「霧社(むしゃ)事件」を見てみよう。前者は漢人の最後にして最大の抗日革命であり、後者は先住民族による最後にしてかつもっとも壮烈な起義であった。

※1 科挙の第一段階に合格した人、秀才とも言う。
※2 第1期1896~1902年、第2期1902~1915年の2期を指す。

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噍吧哖事件は、別名「余清芳(よせいほう)革命事件」あるいは「西来庵(せいらいあん)事件」の名で知られている※3。余清芳はこの事件の指導者とされているが、話は三つに分けて説き起こす必要がある。なぜならば、この「陰謀事件」は、主に余清芳・羅俊(らしゅん)・江定(こうてい)の3人が合同して起こしたものであるからである。

※3 日本では「西来庵事件」が一般的だが、事件発生の地名をとって「タパニー事件」とも呼ばれる。

台湾が割譲された時、余清芳は17歳で、抗日義勇軍に入ったことがあった。後に台南庁の巡査補を8年ほど務めた後、1904年に辞職し、台南庁の各地の斎堂に出入りし、信徒を反日に誘導した。その後、「浮浪者収容所」に入れられて、3年ほど教戒を受けたが、釈放後、西来庵を拠点とし、密かに抗日活動を続けていた。信者たちは尊敬の意味を込めて彼を「余先生」と呼んだり、不思議な霊力を備えた皇帝、または皇帝と民衆の仲介者と見なしたりした。当時、この「皇帝」は、手は膝まで届き、耳は肩まで届いたと語り伝えられていた。

また指導者の一人である羅俊は、元の名を頼秀(学者名、頼俊卿)といい、他里霧(現在の斗南)に生まれ、かつては書塾(寺子屋)で教えたことがあり、医術も学び、風水などに詳しかったという。彼もまた割譲の際に抗日義勇軍に参加し、敗れてのち大陸に渡り、密かに台湾に戻ったものの、一家離散したのを目の当たりにして再度大陸に行き、インドシナ半島を旅したこともあったが、最後は福建省天柱岩の寺に隠棲していた。しかし抗日の志は忘れがたく、1914年末に、還暦を迎えていたにもかかわらず密かに台湾に舞い戻り、台中や彰化一帯で古い人脈を頼って活動を再開した。羅俊は自ら法力を有すると宣伝し、信徒たちに玉皇大帝※4や九天玄女※5を祭らせ、その呪法を習得すれば銃弾からも刀剣からも身を護れると説いた。

※4 道教の中で天界における最高神と崇められる神。
※5 またの名を「九天娘娘」、あるいは略称として「媧皇」や「玄女」、「元女」、「九天女」などと呼ばれる。古代中国神話の中で伝説の女神と言われ、後に道教信仰の対象となる。現在でも台湾民間信仰の中ではかなりの影響力を持っていると言われている。

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また大陸から和尚・「紅髭姑」(あかひげおばさん)それぞれ一人を招き、遁身(とんしん)の術を教授してもらうつもりであると語った。法力を信じたためか、羅俊や彼の信徒たちは、武器はまったく準備していなかった。

もう一人の江定は、台南に生まれ、彼もまた割譲後に義民を率いて抗日の遊撃戦を展開し、後に山中に潜んだ。1901年、日本警察は新化南里庄の湖底で彼を包囲し、打ち倒したと思い込んだ。実は、江定はまんまと逃れ、部下を集めて山中に十数年潜み、さながら独立国を形成していた。

1915年旧暦2月、羅俊は3人の同志と台南の余清芳を訪ねた。余清芳は羅俊に自分の持つ宝剣を見せ、それを3寸も抜げば一瞬にして3万もの敵を薙ぎ倒すことができ、革命を起こして日本人を駆逐しようとしているのだと語った。二人は意気投合し、遅すぎた出会いを恨みながらも、その年の秋口には一斉に決起することを誓い、決起の前に、羅俊は中北部、余清芳は南部を中心に仲間を募ることにした。一方、江定もまた余清芳に会い、蜂起の時には必ず山を降りて敵を殲滅(せんめつ)すると約束し、余清芳を首領として、自分は副将になりたいと申し出た。

8-1 余清芳  8-2 羅俊 8-3 江定
出典:『台湾匪乱小史』1920 出典:『台湾匪乱小史』1920 出典:『台湾匪乱小史』1920

惜しいかな、5月から6月にかけてまだ連絡を取り合う段階から、蜂起
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の情報は、日本の警察に察知され、関係人物は次々と逮捕され、羅俊は変装して逃亡した。余清芳は事件発覚を知ると、集めた軍資金を持って山中に隠れ、江定と落ち合った。日本側は至るところに彼らの人相書きを貼り出して、懸賞金をかけた。そして6月29日に羅俊は捕まった。江定・余清芳と仲間は嘉義・台南・阿猴3庁の境にある後掘仔山中に隠れ、日本警察の包囲攻撃も効果はなかった。7月には余清芳は部下を率いて甲仙埔支庁を襲撃、日本側は相当の死傷者を出した。8月3日、噍吧哖支庁下の南庄派出所を襲撃し、敵を殲滅した後、再び転じて噍吧哖を攻撃し、日本警察と来援した軍隊を相手に激しい戦闘を繰り広げた。余清芳軍は3昼夜も奮闘し、ついに支えきれず、6日夕刻に山谷に退却した。この時の死者は300人余り、多数が捕虜となった。

余清芳の敗走後、日本側は報復を考え、計略によって噍吧哖の壮丁たちを惨殺し、伝えられるところでは、被害は数千人の多きに及んだと言われる。これが「噍吧哖虐殺事件」である。8月22日、余清芳と数名の仲間たちは警察と村民の策略に引っかかり、ついに官憲の手に落ちてしまった。江定の部下たちも日本警察の降伏勧誘に従い次々と投降し、江定自身も翌年4月末に下山して自首した。当局は(自首すれぼ)処分を加えないという約束に背いて、5月18日に江定ら200余名を法院に送って裁判にかけた。

この事件でもっとも興味深いのは、余清芳が捕まった後、台南臨時法院は「匪徒刑罰令」によって裁き、被告が1957名にも達したことである。2ヶ月後の判決では、死刑は866名、懲役刑453名、行政処分及び不起訴544名、無罪86名、その他8名であった。この判決は日本国内の世論、および帝国議会の厳しい批判を引き起こし、その年の11月に台湾総督は大赦の名目で彼らの減刑を宣言し、死刑は無期懲役に、そのほかも1等ずつ減刑された。しかし当時すでに95名の死刑は執行済みであった。江定らの事件も翌年7月に判決が下され、その結果、江定ら37名が死刑を宣告され、9月に台南監獄で絞首された。

噍吧哖(タパニー)事件は現代人にはほとんど忘れ去られた感がある。その遺跡や記念碑は今なお台南に現存しているが、訪ねる人も少なく、荒れるにまかされ
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ている。今日この事件を改めて顧みた時、余清芳らが用いた「皇帝」の概念、呪法・宝剣などの迷信、さらには「武器は不要」という考え方などはとても称揚するわけにはいかず、まこと不思議な感じで、悔しくとも溜息をつくしかない。とはいえ、このような愚昧と迷信の基底に、われわれに深く考えさせることは何もないのだろうか? 研究が欠けており、余・羅・江らの反乱の社会的・経済的原因は、分かっていない。羅俊は日本政府の過酷な収税と行政を批判することで支持者を集めたが、これらの批判は現実とは著しくかけ離れていたのであり、これらの呼びかけによって本当に仲間を集められたのかは大いに疑問である。また、余・羅・江らは、かつて割譲後の抗日闘争に参加しており、3人の謀反もあるいは郷土防衛戦の名残なのかもしれないが、本当のところはよく分かっていない。裁判の尋問の際に、羅俊は最後に言った。「すべては話したとおりである。今回の大事が失敗に終わったことは認めよう。しかし再び生まれ変わって必ずこの目的を達成することを誓う!」 その言や豪壮、まこと革命指導者の名に恥じぬものと言える。



(霧社事件)

噍吧哖事件が後の人々に忘れ去られてしまったのに対し、1930年に起こった霧社事件は、幸運と言うべきか、これを扱った文章が、中国語でも日本語でも少なくない。噍吧哖事件が伝統的な下層階級の反乱で、これといった目新しいものはなかったとすれぼ、霧社事件はさまざまな様相を示し、植民統治者と植民被治者間における愛憎恩讐が入り混じっており、加えて蜂起した人びともまたもとより勇猛果敢で知られるタイヤル族※6であったからであろう。

※6 台湾先住民の中でも2番目に多い8万5000人の人口規模を持つ民族集団。居住地域は台北、新竹、苗栗、宜蘭、花蓮たど中央山脈周辺。なお霧社事件を起こした支族のセデック族は現在タロコ族と認定されている。

霧社事件の原因は、決起した側がすでに亡くなったか逃げてしまい、歴史の舞台上の発言権を失っているため、日本側の政府・軍隊・警察が残した資料に依拠して推測する他はない。これらの資料によって以下3方向から検討することができよう。第1に、労役強制の問題、第2に山地先住民と日本人の間の婚姻問題、第3にマヘボ社頭目の不満の問題であった。
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労役問題は霧社事件の直接の起因となったものである。事件発生前、霧社一帯の先住民は度重なる労役に狩り出され、多くが建設や補修などの工事に従事させられていた。労役は非常に過酷で絶え間がなく、警察も威嚇酷使し、先住民の怨嗟(えんさ)の声が絶えなかった。たとえ有償であっても、正当な賃金とは言いがたく、さらに先住民は報酬の前払いに慣れていたが、算数ができず、警察の帳簿もいい加減であったため計算が分からず、ごまかされているのではと疑心暗鬼になり、先住民の不満は募っていた。事件が発生した時、霧社小学校寄宿舎の建築工事が行われており、タイヤル族霧社集落および近隣の集落の人びとが動員されており、木材を運ばされていた。その途中、ふだんから互いの集落で宿を借りあっていたたので、互いが
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接触し協同する機会が生まれ、ついにはその共通の憤懣を共同行動に転化させることとなった。


先住民と日本人の婚姻間題とは、山地先住民の女性が日本人警官に嫁いだことから発生してきた問題である。領台当初、日本は「蕃情」を把握し、統治に利するという理由から、警察官に、各社の頭目や勢力者の娘を娶(めと)って妻とすることを奨励した。これらの警察官は往々にして「内地」(日本本土)にはすでに妻子がいたから、娶った先住民の妻はすなわち「内縁の
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妻」ということになる。この種の結婚は、終生添(そ)いとげるということはまれで、女性の側が常に捨てられた。霧社事件を率いたマヘボ社頭目モーナ・ルダオの妹もまた日本巡査近藤儀三郎に嫁いだが、数年後にこの夫は行方をくらました。貴種たる頭目家の女性が、このように捨てられたという事実に、族人で憤(いきどお)らぬ者はいなかった。霧社における最高権力者は警察の霧社分室主任であった。当時の主任佐塚愛佑警部は白狗群マシトバオン社の頭目の娘を妻にしており、つまり佐塚警部は、タイヤルの女婿であった(白狗群は事件発生後警察側に立ったといわれる)。佐塚警部は事件の最中にその命を落としたが、半ばタイヤルの血統を引く娘の佐塚佐和子※7は、後に日本で有名な歌手になったが、これは後日談である。

※7 歌手「サワ・サツカ」として知られた彼女は台中女学校を卒業し、東洋音楽学校に進んだ。その後、南部たかね(新潟出身のオペラ歌手)に認められコロムビア所属となり、「サヨンの鐘」などを歌う。


霧社事件を語る時、モーナ・ルダオ※8について語らないわけにはいかない。そしてモーナ・ルダオに触れるとすれぼ、当時の霧社の民族的な(族群の)分類について説明せぬわけにはいかない。霧社分室所轄の先住民は4大部族――トゥルク、タウサ、霧社、万大――に分かれており、すべてタイヤル族に属していた※9。各部族はそれぞれ若干の「社」から形成され、霧社全体で11社があり、このうち蜂起に参加したのは8社で、3社は参加しなかった。またこれら霧社の社群のうち、マヘボ社がもっとも有力な1社であった。官憲の資料によると、マヘボ社頭目のモーナ・ルダオは「気性は剽悍(ひょうかん)、体躯(たいく)は長大、そして少壮の頃より戦術に長じている。‥‥彼の勢力は大きく霧社蕃12社中彼の右に出る者はいない」ほどだった。しかしモーナ・ルダオと官憲は互いにそれぞれ拮抗して譲らず、さまざまな経緯があった。前述したようにモーナ・ルダオの妹が日本人警察官に嫁いだが捨てられるといった事件があった。モーナ・ルダオはかつて2度ほど他

※8 霧社事件の中心となったマヘボ社の頭目であり、霧社一帯の勢力者であった。1910年に総督府が実施していた理蕃五ヶ年計画当時には、理蕃警察に率いられ日本各地を参観している。
※9 2004年5月現在ではタイヤル族からトゥルク族が分かれ、独立した先住民として台湾原住民委員会に認定されている。
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社の者と図って謀反を企てたが、すべて密告され未遂に終わっていた。この他にもさまざまた摩擦があったが、直接に事件のきっかけとなったのは、1930年10月7日午前、吉村克己巡査らがモーナ・ルダオの家の前を通り過ぎた時、ちょうど一組の男女が結婚披露宴を行っており、吉村巡査らが入って見物したことであった。その時モーナ・ルダオの長男であったタダオ・モーナ※10が、吉村巡査の手を引っ張り、酒宴に加わるように強いた。ところが吉村巡査は酒宴の不潔を嫌悪しており、両者間に執拗な遣り取りがあり、ついに吉村はステッキでタダオ・モーナの手を打ってしまった。タダオ・モーナにとって、これは最大の侮辱であり、そこで吉村巡査を殴り返してしまった。その後、父親であるモーナ・ルダオは、何とか穏健に済ませるべく何度か駐在所に足を運んだが、事後処理は遅々として進まなかった。モーナ・ルダオは、厳重な懲罰が下り、頭目としての威信が傷つくことに頭を痛め、さらにはその地位が誰かに取って代わられることをも心配した。そこで人びとの苛酷な労役に対する深い不満を利用し、蜂起の決行を決意するに至った。他社からも同調する者が少なくなかった。

※10 先住民の名前は、個人名のあとに父の名が来る。

決行の日時は10月27日と定められた。この日は、毎年霧社で盛大な行事が行われる重要な日であり、霧社分室管下の10個の学校と教育所が霧社公学校に集まり、学芸会・展覧会や合同運動会を開催した。参加する日本人も200人を下らず、能高郡郡守※11 も例年臨席し訓示することになっていた。このため霧社事件が発生した時、高官の能高郡郡守までもが被害者に入っているのである。決起した霧社の人たちは、早朝に手分けしてそれぞれの警察駐在所(派出所)を襲い、8時頃、霧社公学校での式典に参加していた警察や民衆を襲撃した。公学校の運動場は、瞬時にして血に塗(まみ)れた凄惨な修羅場と化し、校長宿舎に避難した日本人女性や子どもたちも囲まれ、ほとんど残らず命を落とし、3名の幸運な人が死体の中に埋もれ、2日2夜の後にようやく救出されたのみであった。事後の統計によれば、各地の日本人被害者は全部で139名(男86名、女53名)とされる。

※11 霧社地区は台中州能高郡に属した。郡役所は現在の南投県埔里鎮にあり、長官を郡守と呼んだ。


霧社のタイヤル族は一時的な勝利は得たが、日本側の軍隊・警察が到着した時点から、到底支えきれるものではなかった。紙幅に限りがあり、日本軍の掃討の過程を詳細に述べることはできないが、簡潔に言えぼ、日本の軍隊・警察の救援・討伐行動は、10月28日に始まり、12月26日に至ってようやく終わりを告げ、その間およそ2ヶ月を要した。

決起に参加した霧社6社では戦死・自殺・病死及び焼死者を合わせ644名(うち男性332名、女性312名)の死者が出ている。当時首を吊って自殺した先住民女性の写真を見ることができるが、今見ても当時の凄惨な光景が目に浮かぶようである。モーナ・ルダオは逃亡中に自殺、彼の二人の息子のうち一人は戦死し、もう一人は縊死した。この事件では双方とも婦女子
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や子どもの死者が非常に多く、一家全減の例も少なくない。昔から、日本も先住民も、「女子どもは殺さない」のを基本としてきた。このような事態には、慄然とせざるを得ないのではなかろうか。

日本の軍隊・警察の反乱タイヤル討伐に関して、ここで二つのことに一言しておく価値があるだろう。まず、当時国際的に禁止されていた毒ガスを日本軍が使用したとの噂が広範に伝えられた。事実の真相については、学者たちの間でも一致した結論が出ておらず、さらなる研究が待たれるところである。次に、討伐の過程で日本側は、「味方蕃」の大きな協力を得たことである。いわゆる「味方」とは同盟軍という意味であり、日本側は官憲と友好的な関係を持つ部族を利用して蜂起した山地先住民を包囲攻撃したのである。このような過去の族群間の関係をどのように理解するのか、そして相互の信頼と扶助のあり方をそこから体得すること、このことが台湾の歴史を研究する際に留意しておくべきことのように思われる。


最後に、読者の皆さんは「どうして霧社事件の重要人物であった花岡一郎、二郎について一言も述べないのか?」 という疑問をお持ちになるかもしれない。二人は共に霧社のホーゴー社出身で義兄弟の契りを交わしていたが、実際の血縁関係はなかった。日本人と現地住民の共学制度が実施された後、二人とも日本人児童の学ぶ埔里小学校で学んだ。卒業後、一郎は台中師範学校を出て巡査となり、二郎は高等小学校を出た後、警手(巡査に次ぐ職位)となった。二人は共に同社の娘、川野花子と高山初子を娶ったが、初子はホーゴー社頭目の娘、花子は頭目の妹の娘で、共に埔里小学校に学んだ。このような学歴と結婚は、人びとの羨望の的とならぬはずはない。写真に写った制服姿の一郎と二郎、和服姿の花子と初子はまるで日本人のようである。つきつめて言えば、彼らは確かに日本人が造り出した高度に「日本化された原住民」なのである。聞くところによると、一郎は巡査に任命されたことをあまり快く思っていなかった。彼はもともと教師になるはずだったのである。二郎の方は、事件前に官憲に対する不満を漏らしたことはなかったという。彼らが事前に蜂起を知っていたか否か分からないが、後の調査報告によると、発生してからは、一郎は明らかに若干
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関与していたようである。一郎夫婦と二郎は、最後に自殺してしまった。一郎は最期に宿舎の壁に遺書を貼り付けたが、達筆の毛筆で書かれており、二郎の手に成ると伝えられる。それはこう書かれていた。

花岡両 押捺
我等ハ此の世を 去らねばならぬ
蕃人のこうふんは 出役の多い為に
こんな事件に なりました
我等も蕃人たちに捕らはれ
どふすることも出来まセん
昭和五年拾月弐拾七日午前九時
蕃人は各方面に守つていますから
郡守以下職員全部公学校方面に死セリ


一郎は自殺前に鉛筆でわずかに数語を残した。「花岡、責任上考フレバ考フル程コンナ事ヲセネバナラナイ全部此処二居ルノハ家族デス」。 一郎夫婦は生後1ヶ月ほどの息子と一緒に自殺した。

この高度に日本化したタイヤル人が、自らの同胞が反日に奮起したのを目の当たりにした時の心情はどのようなものだったであろう。花岡二人は、蜂起に参与しなかったとしても、最終的にはやはり同族と一緒に自殺する道を選んだのである。彼らの遺言から私たちは一種の重苦しいやりきれなさを感じ取る。すなわち、彼らは自分たちの民族集団(族群)に忠ならざるを得ないのであり、さりとて日本人へも何らかの想いを表白せざるを得なかったのである。

花岡兄弟は、依然として謎である。私たちの霧社事件と噍吧哖事件に関する認識は、まだまだ表層にすぎない。ただただ願わくは、かつて台湾のこの土地の上に起こったことについて、より切実に、理解を深めることのみである。
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