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外国資本の駆逐

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外国資本の駆逐

矢内原忠雄全集2「帝国主義下の台湾」
第一篇 帝国主義下の台湾

第三節 資本家的企業

前述台湾資本主義化の基礎的事業の上に如何に資本家的企業、殊に日本資本家の企業が発展して行つたか。そは外国資本の駆逐、資本形態の発展(商業資本より金融資本に迄)、独占の成立、及び島外への進出を含む。以下本節に於て順次之を説明するであらう。
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第一項 外国資本の駆逐

一八五八年天津条約による台湾の開港以来英米独等の資本が台湾に接触し、清国商人の勢カを凌駕して貿易及金融の権を掌握するに至った。彼等は多く厦門を根拠地と為し、当時の台湾貿易は大部分対岸及香港に対するものであつた。我が領台の効果はこの商権を移して内地資本家の手に帰し、貿易路を転じて内地に向けしむるにあつた。

○砂糖
先づ砂糖については一八五八年米国商ロビネット(Robinet)会社打狗に来りて砂糖輸出に従事したるを姶めとし、一八七三年には濠洲商メルボルン砂糖会社員打狗に来りて巨額の注文あり、我領台当時にありては徳記、恰記、慶記、美打、海興、東興等の洋行(即ち外国商館)が買弁(買継人)制度を利用して製糖業者に前貸金を放資すると共に製糖の一手買取を契約した。而して其の積出についてはジャンク船以外汽船積となさんには是非とも之等外商の許諾を要するものであつた。当時台湾の汽船海運は香港に本拠を有したる英商ダグラス汽船会社が独占して居たのである。かくて日清戦争前後には砂糖貿易は殆んど外国商人の独占する処であつた。

之に対して我が三井物産は明治三十一年台北に支店を設置し、三十六年始めて赤糖買付を開始し、外商と製糖業者及汽船会社間に存在せる特約によりて買付積出共に不利不便を被りつヽも、豊富なる資金を以て外商専属の買弁を吸引し盛に前貸金を放下して極力勢力扶植につとめた。又明治三十八年には横浜増田屋商店が砂糖貿易に着手し、打狗安平渡の旧慣に対抗して駅渡、進んで産地渡に改め製造業者の便を計りしにより、買弁制度を唯一の頼みとせる外商も漸次地盤を奪はれ、三井物産も買弁制度を廃して直接製造者と取引するに至った。又総督府の補助金政策の下に大阪商船会社が進出して、かのダグラス会社は明治
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三十八年頃遂に台湾海運界より撤退するに至りしを以て、砂糖積出に於ける外商勢力の支柱も一掃せられた。明治四十年より四十一年にかけて神戸の鈴木商店及湯浅商店、大阪糖業会社其他の砂糖買付開始あり、四十二年には内地系有力糖商間に糖商倶楽部なるカルテルが組織された。かくて外国人及本島人の糖商は明治四十三、四年頃には全く没落し、その或るものは全然台湾より撤退し、或るものは資金を製糖業に投じ、或は米の取引に方向転換を行つた。即ち前記洋行中営業を継続したるは恰記(ベイン商会)徳記(テイト商会)の二洋行に過ぎず、しかも恰記は砂糖貿易より手を引きて台南庁下に改良糖〓(「广」に「部」)を建設したが明治四十五年台湾製糖株式会社に買収せられ、徳記洋行は全然砂糖部を閉鎖したのである。かくて糖業に関しては完全に外国資本の駆逐が行はれた。

○茶
次に、茶の輸出は一八六九年英国商人ジョン・ドット(John Dodd)が約二十一万斤を紐育に直輸したるを嚆矢として頓に盛となつたのであるが、爾後厦門を根拠とせる洋行が茶輸出を独占し一面金融機関として強大なる勢カを有したるを以て、製茶売買価格は洋行の為めに独占的に決定せられその利益は襲断せられた。即ち徳記其他の洋行は厦門の外国銀行より資金を仰きて之を媽振館〔1〕に、媽振館は更に茶館に、茶館より生産者に前貸し、之に対して製茶の一手買取を約せるものである。(砂糖買取についても同様のシステムであつた)。而して洋行に対して金融を与へたる銀行は主として香上銀行であつた。かの東洋に於ける英国資本活動の中枢たる Hongkong and Shanghai Bank であつたのである。台湾がイギリス帝国主義の圏内にありしことを知るべきである。之に対して挑戦せる我資本の戦士は三井物産及野沢組であつて、明治四十年頃より茶貿易に従事し、外人商館は英商三、米商一を残すのみとなつた。茶貿易について尚かく
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外国資本の勢力を残せるは、他の産物の貿易路が殆んど内地に転向せるに反し、茶は今日依然内地販路よりも外国輸出を主とするが故であらう。今後三井合名会社等のエステート式直営茶園が発達して我資本家により輸出茶の大量生産が行はるヽに伴ひ、生産の資本家的支配は之と結合せる商業資本をも有力ならしめ、従つて茶貿易に於ける外国資本の勢力は益々駆逐せられて行くであらう。

○樟脳
樟脳については夙に英船の密輸出ありしが、清国の成豊年間台湾開港の天津条約が未だ批准交換を経ざるに先だち、英商ジャーデン・マジソン商会及びデント商会が官吏と結託して之を輸出し巨利を博したといふ。爾来外国商人が盛に入り込みて其輸出の利益を壟断した。清国時代に之を官業専売と為さんと試みしこと二度なるも、常に外国(主として英国)商人及び領事の抗議に遇ひて果さず、樟脳事業に於ける外国資本家の独占的地位は牢固として抜くべからざるものあり、我が領台に当りても政府は之に関して外国資本家の反抗を招くことを甚だ警戒したのである。明治二十八年樟脳製造取締規則を定め、二十九年には樟脳税則を定めて一定の課税を為したが、果して之が為め絶えず外国商人との間に衝突を来し其の抗議を受け、当時諸外国との交渉事件の大部分は樟脳に関するものであつた。かくの如き外商の勢力を駆逐し得たるは全く明治三十二年実施の専売制度の効果である。この国家権力の発動によりて樟脳商権は外人の独占より政府の独占に引上げられた。而して専売実施後も樟脳輸出は輸出業者の競争入札により一手取扱はしめたが、それは英商サミュエル・サミュエル商会に落札して居た。即ち実際上尚外国資本の独占に属したのである。明治四十一年に至り総督府がその販売方法を変更して直営と為し、而して三井物産株式会社に委託販売せしめたることによりて始めて樟脳商権は日本資本家に帰し得たのである。即ち専売制度により
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て外商の利権をば独占に移し、それにても尚抜くを得ざりし外商の商権は制度上形式的に総督府の販売直営と為すことによりて始めてサミュエルより三井へと移されたのである。外国資本家の堅城たりし樟脳商権を日本資本家の手に帰せしめたるは、直接的に政府強権の保護であつた。

○阿片
阿片は領台当時の輸入品中断然頭角を抜きて最高価額を示せる重要商品であつて、その輸入は専ら外商によつたが、同じく専売制度実施の結果三井物産其他邦商が之に代るに至りしものである。

○米
米も由来本鳥の重要物産であるが我が資本家が其の取引に着手せるは明治三十四年以来三井物産の進出に始まる。明治三十七年台湾総督在任のまヽ出征せる参謀総長児玉将軍が日露戦争の軍用米として三十万石の台湾米納入を三井物産に下命したが、之は台湾米の販路開拓奨励の政策をも含むものであつたといふ〔2〕。而して外国商人は漸次米の商売よりも手を引いたが、本島人米商の勢力は今日尚強く残つて居る。蓋し従来台湾米は品質上内地移出の途狭く、島内取引を主としたるが故であらう。恰かも外国輸出を主としたる茶について外国商館の勢力残存せるが如くである。従つて近年台湾に於ける蓬來米(内地種米)の生産が普及したる結果台湾米の内地移出が激増し、同時に台湾への外米輸移入が増加するに及び、即ち米が飛躍的に対本国貿易品化するに及びて、内地商人の之に対する進出著しく、殊に昭和二年瑞泰、泉和組等最有力島商の破綻に乗じて米取引の覇権はやうやく三井其他邦商の手に移らんとするやに見える。

○海運
右の外、海運についても既に一言したる如く対岸及香港航路は英商ダグラス会社の独占であつたのを、明治三十二年総督府が大阪商船会社に補功金を与へて命令航路を開かしめたる結果、ダグラスは圧迫せられて明治三十八年頃完全に台湾より撤退した〔3〕。
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○小括
以上叙述せる如く台湾の貿易及海運は我領台当時に於ては外国資本家の掌握する処であつたが、明治四十年頃迄に殆んど駆逐せられて其商権は日本資本家に帰した。この商権移動の原因は次の如くであると思はれる。
  1. 我が商人が外商島商に比して競争上有力なる資本力を有したること。たとへば赤糖買付戦に於ける三井、増田屋等。
  2. 我資本は産業資本として台湾に企業を設立したること。従つて我商業資本は之と結合せるが故に、単純なる商業資本として活動せる外商に比し資本的に有カであつた。例へば我資本家による新式製糖会社の勃興は其製品たる分蜜糖販売権を関係内地商人に与へた。即ち台湾製糖株式会社は其の一手販売権を三井物産に、明治製糖株式会祉は始め増田屋に、大正九年増田屋没落後は三菱商事に、塩水港製糖株式会社は鈴木商店及安部幸商店に、何れも同一資本又は資金系統に基き特約したるが如き等。
  3. 我資本は又銀行資本として台湾内に樹立せられしこと。従つて外商が唯一の武器とせし資金前貸が自己の資カ若くは厦門の香上銀行支店等に負へるに対し、我商人は台湾銀行の密接なる援助を受けて之を凌駕するを得た。
  4. 国家の専売制度実施が日本商人に輸出入商権を移転せしめたること。樟脳、阿片、煙草など。
  5. 国家が直接に且つ差別的に日本資本を保護したること。たとへば航路補助金。
  6. 関税制度の内地への統一により内地台湾間の関税は消滅し、台湾と支那香港間の関税は明治三十二年以来引上げられしにより、主たる貿易路は対岸より転じて内地に向かいしこと。
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以上要するに台湾より外国資本を駆逐し得たるは我資本それ自身の勢力と国家の直接間接の援助によりたることが明瞭である。

○注
(1)「媽振館とは元来英語のマーチャントに胚胎せる名称にして従来茶業者間に於ける主なる金融機関たり其業態を按ずるに純粋の茶商にあらず又仲買商にもあらず即ち茶商にして他の茶商と洋行との中間に立ち製茶の委託販売を営むと同時に製茶を抵当として資金の融通を為すものとす。」(台湾銀行『台湾銀行二十年誌』九頁)。
(2)杉野嘉助著『台湾商工十年史』一二三頁。
(3)我領有以前の台湾産業については伊能嘉矩著『台湾文化志』中巻六一一頁以下、下巻一~五七頁等参照。



第二項 資本形態の発展

歴史的に資本の最初の形態は商業資本、しかも外国貿易資本である。而して台湾の如き前資本主義的植民地社会の資本主義化は固有の資本によりて行はるヽを得ず、専ら外国の商業資本によりて促がされたのである。而して領台前後にあつてはこの外国資本も単純なる商業資本として台湾の四周に接触したるに止まり、社会内部の生産関係そのものヽ資本主義化、即ち産業資本家的企業の設立には及ばなかつた。そは商業資本による前資本主義社会掠奪の形態たるに止まつて居た。然るに我領台後鞏固なる近代的政府が樹立せられ、土匪討伐による治安設定、土地及林野調査、権度及貨幣の統一等投資の安全を保障する基礎的事業が成功するや、資本の活動形態は発展して内部進入、企業設立、生産関係そのものの資本主義化となつた。要するに単純なる商業資本より産業資本への発展である。

産業資本は縷々商業資本家によりて供給せられる。蓋し植民地貿易にありては商業資本家は輸出の目的物たる植民地重要物産の大量生産を喚起し、又その輸入商品の大量的販賂を創造するために、自ら植民地
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