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台湾統治五十年の歴史

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毎日新聞社「決定版昭和史 別巻1 日本植民地史」1985 p198

台湾統治五十年の歴史

衛藤俊彦

統治の理念


明治以来、日本が台湾に係わりを持ったのは、明治六、七年の征台の役からであり、わが沖縄県の漁民が台湾の海岸に漂着したのを原住民から殺害
れたという理由で、西郷従(つぐ)道を総帥とするわが陸・海軍の部隊が討伐に向かった。その時、この部隊にいた佐久間左馬太中尉(後の台湾総督)が、台南州石門の断崖絶壁を抜刀してよじ登って原住民集落に攻め入った話は「佐久間抜刀隊」として永く物語として残っている。

次が明治二十七、八年のいわゆる日清戦争で、その結果、日本が下関条約
により清国から割譲を受け、日本の台湾支配、台湾統治が始まる。北白川宮能久親王(よしひさしんのう)(後に台湾神社の守護神として祀られた)の苦心のことなどは多く語られているところである。樺山資紀(かばやますけのり)海軍大将を初代総督とする台湾総督府の成立、その統治の跡をたどってみよう。

一部でいわれた「北守南進論」は武張った語感を与えるが、台湾の為政者たちが考えていたのはもっと経済的、文化的なものであった。

樺山が台湾総督に就任したのは明治二十八年五月十日だが、台湾の始政記念日は六月十七日となっており、台湾神社創建の十月二十八日も祭日と定められたので、両日とも在住の日本人にとっては忘れることのできない日である。さて、その後、台湾の統治がいかにして形を整えてきたかは、歴代総督の行跡とも関違があるので、ここでは歴代総督の主なる施策を列挙してみよう。ただ、ここで特記しておきたいことは、台湾統治の根本精神は明治天皇のお考えであると伝えられる「一視同仁(いつしどうじん)」である。それが時代の状況に応じて恩威並行(おんいへいこう)主義になったり、さらに戦争中においては「内台融和(ないたいゆうわ)」の名の下に内台人の共婚が奨励されたり、台湾人家庭の祖先の廟を取り除かされたり、改姓名(台湾の姓を内地風に改める)が強要されたりした。これらはもう戦争も末期の、日本人全体が興奮気味の時であったから、これをもって日本の統治全体の精神と解することはできない。ただ、台湾の人びとの中にはこれをもって汚辱と感じ、暗い汚辱の時代と感じている人も少なくないことを否めない。

皇民化運動


ここにおいて、昭和十二年ころから台湾島内に台頭して来た皇民化運動について述べておく必要があろう。これは前述の一視同仁政策が逆手にとられて進められて行ったようなもので、真に皮肉な推移であった。台湾統治はその初期において武官総督、中期においては文官総督であったが、初期の武官総督の時代には、例えば児玉総督における後藤新平長官の如く、有能な長官がいて、総督も民政に関しては之に任せきりのような形で、多くの治績があげられてきた。

ところが昭和十二年の小林総督に始まる後期の武官総督の時代に入ると、日本全体、つまり中央政府・軍部の風潮の影響も多分にあって、初期のそれとはいささか趣を異にしてきた。それでも、十七代小林、十八代長谷川は共に海軍出身であったが、一応「予備役」の海軍大将であった。これは現役軍人では台湾島内の人心に与える影響もよくあるまいとみた中央政府、海軍の思慮によるものであった。十九代に安藤が現役の陸軍大将として総督の地位についた。以上の推移に併行して、台湾人の皇民化違動は急速に進められ、昭和十五年には改姓名、寺廟の撤去、原地語の使用禁止など、台湾の人びとの快しとしない政策が次つぎに強行され、十七年には陸軍志願兵、特別志願兵の制が敷かれ、十九年九月二十四日には徴兵令が施行され、遂に行き着く所まで行き着いたのである。もっとも、これに先立って、例えば「魁隊」といったような軍国日本の先物買にでた台湾人も、ごく少数ではあったがあるにはあった。これとても、彼らの内心はどんなものであっただろうか。それは測り知ることはできない。

十五年、長谷川総督の時代に結成の運びとなった皇民奉公会は、同じ年に内地で結成された大政翼賛会(第二次近衛内閣)と同類のものであったが、総督が総裁となり、中央本部長が長官、その他の理事、参事は官・民から簡抜(かんばつ)され、総督府の行政組織がそのまま援用された部分も少なくなかった。もちろん、これは地方にも及んだのである。大部分が台湾の人びとを対象としたものであるだけに、問題は複雑であった。

台湾人に対する皇民化運動の進展につれて、総督府の施策としては、これ
と併行して「公民権」の付与拡大に可能な隈りの努力をした。勅選貴族院議員なども、そうした雰囲気の中から生まれたのである。

以上のように軍靴の音のけたたましい中で、終戦と同時に台湾総督府は終焉を告げた。終戦直後の善後措置については、当時鉱工局長で一切の処理にあたった森田俊介の『内台五十年』(昭和五十四年刊行)に詳しく書かれている。森田は引揚げ後は幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)内閣で幣原が引揚援護庁の総裁を兼務していた時に、その官房長を務めた人であるから、当時の台湾及び中央との諸々の措置については最も詳しい人である。

ただここで、台湾にいた日本人の最も心を痛めている問題は台湾人元日本軍人、軍属の補償問題で、終戦後四十年を経過した今日でもなお解決していないのは、日本民族の台湾統治における大きな忘れものであろう。

歴代総督の事績

( )内は長官名

●第一代 樺山資紀 (水野遵(じゅん))

明治28年5月10日~同29年6月2日、鹿児島県出身。施政方針愛育、撫育、一視同仁、恩威並行、台湾総督府仮条例・同条例(軍政)、同民政の順次制定、武力平定、租税減免の諭告(ゆよく)、地方官官制の制定、委任立法制度の確立、明治二十九年三月三十日法律第六十三号をもって台湾に施行すべき法令に関する件を公布し四月一目より施行した――律令、台湾総督府評議会の創始、司法制度の確立、地方法院・覆審(ふくしん)法院・高等法院の三級審制、警察制度、理蕃政策、医院の設置、阿片制度の創定、教育制度、芝山巌学堂(しざんがんがくどう)で国語伝習開始、郵便電信制度の施行、定期命令航路開始、度量衡改正、財政金融制度、旧税制の改正、大阪中立銀行進出。

●第二代 桂太郎 (水野遵)

明治29年6月2日~同29年10月14日、山口県出身。台湾総督府臨時法院条令公布施行、政治犯は臨時法院、台湾地租規則公布施行、旧慣により徴収。

●第三代 乃木希典(まれすけ) (曽根静夫)

明治29年10月14日5同31年2月26日、山口県出身。台湾総督府特別会計の創設、三段警備法の採用、一等地として山間は憲兵・軍隊、二等地として中間は憲兵・警察、三等地としては村落・都邑は警察、護郷兵の養成、台湾阿片令の公布施行、漸禁(ざんきん)制度の断行と阿片専売実施、台湾総督府官制公布施行(これにより総督府は陸海軍の大将または中将より親任されることとなった)、新高山命名。

●第四代 児玉源太郎 (後藤新平)

明治31年2月26日~同39年4月11日、山口県出身。警察官・司獄官養成機関の設置、高等法院を廃止し覆審法院および地方法院の二級審制となす。保甲制度の実施、土地水利事業の遂行、地籍の調査、大小租権の整理、基隆(キールン)および高雄の築港工事起工、道路鉄道の建設、府立病院十個所設置、総督府医学校の設立、台湾銀行創立、財政二十年計画と財政の独立、予定より早く三十八年度に財政は独立した。罹災救助基金規則の公布施行、祭祀公業の設定、纏足(てんそく)の廃止、糖業政策の確立、台湾神社の創建、阿片政策の確立、漸禁主義の下に特許制度実施、衛生施設、専売制度の施行(阿片、樟脳、塩、煙草)、匪徒の鎮定と理蕃事業、戸口調査(わが国国勢調査の先駆をなす)。

●第五代 佐久間左馬太 (祝辰巳(いわいたつみ))

明治39年4月11日~大正5年5月1日、宮城(原籍山口)県出身。理蕃事業五カ年およびその前後、農会の設立、内地人農業移民事業の開始、台北市など主な市街地水道の設置、縦貫鉄道全通、博物館の開設、中央研究所設置、化学部、衛生学部、阿里山の森林伐採および跡地造林事業の開始、図書館の設立、松山寮養所設置(肺結核)

●第六代 安東貞美(あんどうさだよし) (内田嘉吉(かきち))

大正5年5月1日~同7年6月6日、長野県出身。同匪事件の解決、西来庵(さいらいあん)事件、新庄事件を最後として全く解決、台湾勧業共進会の開催、宗教調査、南支に対する施設、宜蘭(ぎらん)線と屏東(へいとう)
線の工事起工、商品陳列館の開設、厦門(アモイ)博愛会医院の開設、第一回対岸領事会議開催。

●第七代 明石元二郎 (下村宏)

大正7年6月6日~同8年10月24日、福岡県出身。台湾電力株式会杜の創立と日月潭(にちげつたん)水力電気事業計画、台湾教育令公布施行、地方法院・覆審法院・高等法院の三級審制を復活、華南銀行の設立、台北高等商業学校設立、広東、福州博愛会医院設立、南洋倉庫株式会社設立、縦貫鉄道中部海岸線開通。

●第八代 田健治郎(でんけんじろう) (賀来佐賀太郎(かくさがたろう))

大正8年10月29日~同12年9月2日、兵庫県出身。施政方針一視同仁、同化政策、共学制の実施、嘉南大〓(たいしゅう)工事起工、地方自治制度の確立、第一回国勢調査の実施、共婚制(戸籍令の制度を待たずに不完全な手続で認めた)、笞刑の廃止、中央研究所に既設の各種試験所を統合、高等学校設立(尋常科四年、高等科三年)、民事法令の施行とその制例、酒専売の実施、業佃会(ぎょうでんかい)の設立(地主小作人の協調団体)、皇太子殿下の台湾行啓。
※〓=「土」ヘンに「川」

●第九代 内田嘉吉 (賀来佐賀太郎)

大正12年9月6日~同13年9月1日、東京都出身。鉄道の建設改良、メートル法の公布施行、自由港設置の調査。

●第十代 伊沢多喜男 (後藤文夫)

大正13年9月1日~同15年7月16日、長野県出身。行政並びに財政の整理実施、台湾美術展覧会開催、台湾青果株式会社の設立、蓬來米(ほうらいまい)の奨励、東部鉄道全通。

●第十一代 上山満之進 (後藤文夫)

大正15年7月16日~昭和3年6月16日、山口県出身。台湾銀行の救済、台北帝大の設立開学、建功(たけいさお)神杜の創建。

●第十二代 川村竹治 (河原田稼吉(かきち))

昭和3年6月16日~同4年7月30日、秋田県出身。桃園大〓(たいしゅう)の新設 宜蘭濁水渓の治水工事起工。

●第十三代 石塚英蔵 (人見次郎)

昭和4年7月30日~同6年1月16日、福島県出身。嘉南大〓(たいしゅう)工事の完成、霧杜事件、軍警分離計画、議会解散予算不成立、癩病院(楽生院)の設立、台南高等工業学校設立。

●第十四代 太田政弘 (高橋守雄、木下信)

昭和6年1月16日~同7年3月2日、山形県出身。台北放送局設置、蘇澳花蓮港(すおうかれんこう)間道路改修事業完成、花蓮港築港工事起工、新理蕃政策の決定、大台北市区計画決定。

●第十五代 南弘 (平塚広義)

昭和7年3月2日~同7年5月27日、富山県出身。糖業試験場の設置。

●第十六代 中川健蔵 (平塚広義)

昭和7年5月27日~同11年9月2日、新潟県出身。共婚法の実施、日月潭水力発電工事の完成 地方自治制度の改正、国租地方税の根本的税制整理調査完了、台湾地租規則公布施行、台湾始政四十年記念博覧会、内台定期航空輸送の開始、台北飛行場の建設、台湾拓殖株式会社法公布施行。

●第十七代 小林纃造(さいぞう)(森岡二朗)

昭和11年9月2日~同15年11月27日、広島県出身。台湾拓殖株式会社設立、台湾商工会議所令公布施行、内台時差撤廃、新高港築港工事開始(十九年八月中止)、基隆ドツク建造、改姓名の奨励、義務教育を十八年度施行決定、国立公園の指定(大屯、次高太魯閣(つぎたかたろこ)、新高阿里山の三カ所)、熱帯医学研究所設立、農業試験場設立、新竹州台中州震災。

●第十八代 長谷川清 (斎藤樹(いつき))

昭和15年11月27日~同19年12月30日、福井県出身。皇民奉公会の結成、小学校、公学校の区別を廃して国民学校とする。台北帝大に予科を設置・工学部を新設・理農学部を理学部と農学部とする。台湾経済審議会を設置、大甲渓(だいこうけい)発電所の建設推進、産業金庫の新設。長谷川は庶民的で開放的な性格であったから人に接するのに分け隔てがなく内台人から親しまれた。

●第十九代 安藤利吉 (成田一郎)

昭和19年12月30日~同20年10月25日、宮城県出身。徴兵検査の実施および徴集、台湾護国勤労団令の公布施行、皇民奉公会、国民義勇隊の結成、終戦処理および日本人引き揚げの完遂。

軍部は大きな力、発言権を持っていた。歴代軍司令官の名をあげると、中央軍部においても如何に台湾を重視していたかがわかる。

一代=明石元二郎、二代=柴五郎、三代=福田雅太郎、四代=鈴木壮六、五代=菅野尚一、六代=田中国重、七代=菱刈隆、八代=渡辺錠太郎、九代=真崎甚三郎、十代=阿部信行、十一代=松井石根、十二代=寺内寿一、十三代=柳川平助、十四代=畑俊六、十五代=古荘幹郎(ふるしょうもとお)、十六代=児玉友雄、十七代=牛島実常、十八代=本間雅晴、十九代=安藤利吉。

これらの名前を眺めただけで、五・一五や二・二六など、わが国の歴史を変えた事件の周辺に点在する人の名前を想起するであろう。

"南支南洋"への志


考えてみれば台湾にもいろいろな時代があった。一六二四年にはオランダが南台湾を占領していた。日本人浜田弥兵衛が活躍した時代もあった。一六五八年には目本人の田川氏を母とする明朝の遺臣鄭成功が台湾に入ってこれを占領した。成功は台南に入ってその翌年には病で死んだが、その遺子たちが数十年にわたって台湾を治めている。台南に今も残るゼーランジャ城などは、この時代を思い起こさせてくれる。台湾北部もスペインにうかがわれたこともあり、フランスも志があった。基隆海岸のクルベー浜などはクルベー提督の名から取ったもので意味のあるものである。それかあらぬか台湾の山地を歩いてキリスト教の立派な教会が建てられていることなど、ちょっと意外な感を催すものである。

台湾銀行の果たした役割


さて、いよいよ華南南洋に対する経済政策、経済発展の模様であるが、これにはまず台湾銀行の存在が大きな役割を演じたことをあげなければならない。台湾銀行は明治三十二年六月十二日免許、同年八月四日登記、九月二十六同に営業を開始している。紙幣の発行権を持つ特殊銀行で、南支南洋のみならず広く欧米各地にも支店を持つ、わが国有数の為替銀行であった。

歴代頭取は添田寿一(そえだじゅいち)、柳生一義、桜井鉄太郎、中川小十郎、森広蔵、島田茂、保田次郎、水津(すいつ)弥吉、上山英三の九代で終わっているが、その間、第一次大戦の好況時代には時の中国政府に供与したいわゆる「台銀借款」、さらには鈴木商店の没落に起因する在外店の閉鎖事件、ただしこの時、島内店は上山満之進総督が総督の権限を行使して断固として閉鎖させず、そのために島内の治安はいささかも動揺することがなかったという思い出話もある。

台湾には台銀のほかに三つの銀行があり、台湾商工銀行、台湾貯蓄銀行、彰化銀行などがあったが、これらは終戦後地歩を築き、台銀系は株式会社日貿信、三行系が協和商工信用株式会社となり、それぞれ台湾時代とは別の法人として活躍している。

さらに台銀が華南南洋方面において果たした役割も大きい。台銀の別動隊として発足した華南銀行には、台銀から名倉喜作、有田勉三郎、竹藤峰治の諸氏が入っているが、総理は林本源(りんほんげん)の林熊徴(りんゆうちょう)であった。また華南南洋の各地で動脈的な役割を果たすべく、大正九年に資本金五〇〇万円で設立された南洋倉庫株式会社には、社長に台中霧峰(たいちゅうむほう)の名望家で、各方面からの尊敬を受けていた林献堂(りんけんどう)が就任している。

台湾が誇る中央研究所


日清講和談判の時の清国全権の李鴻章が、台湾は毒蛇とマラリアと蕃害(はんがい)の巣窟で、そこに住んでいる人間は「化外の民」であるといった話は有名であるが、高地系住民対策については恩威並行(おんいへいこう)、撫育(ぶいく)政策で、これを平地並みのレベルにもってくることに歴代の理蕃当局者は懸命の努力をした。

マラリア、ペストなどの防圧は総督府政治の重要な大眼目であった。そのため総督府は内地から優秀な医学者、医官を招聘して、多くの予算も投入してその早期の完成を目指した。その点、明治三十一年から三十八年までかなり長い間長官を務めた後藤新平は自らも医者であり、内務省の衛生局長をも務めた人物であったから、視野広く人材を集めることができた。台北帝大最後の医学部長で小田内科で有名な小田俊郎著『台湾医学五十年』は好個の資料である。筆者の接したこの時代の医学者としては台北医専教授で横川吸虫(きゅうちゅう)で世界的に有名な寄生虫学者の横川定、当時はまだ中央研究所におられ、後に台北帝大教授になられた森下薫、富士貞吉、毒蛇研究の山口謹爾(きんじ)らがある。

中央研究所は、日本時代の台湾が誇り得る大きな存在である。これは後藤新平の構想に基づくもので、実際に設立されたのは、後藤が満鉄総裁となるため台湾を離任した後にできたものである。

(元台湾日日新報論説委員)



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