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日本にとって植民地とは何であったか

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毎日新聞社「決定版昭和史 別巻1 日本植民地史」1985  p226

日本にとって植民地とは何であったか

初瀬龍平

植民地の獲得


戦前日本の領土には、「内地」と「外地」とがあった。内地とは、本土、沖縄、小笠原、千島のことであり、外地とは、台湾、朝鮮、南樺太、関東州、南洋諸島のことである。日本の植民地としては、日本領土であった上記の外地に加えて、領土ではなかったが、日本のカイライ国家であった満州国が挙げられる。

現在の私たちは、かつて日本の植民地がどこにあり、どのような統治をしていたか、を次第に忘れつつある。テレビで、中国残留孤児という四〇歳台の男女が肉親を探して来日するのをみて、涙する目本人は多い。しかし、そこから、かつての植民地政策を間い直そうというひとは少ない。

明治日本には、みずからが欧米の植民地になる危険があった。しかし、日本は西欧型の近代国家を打ち樹てることによって、その危険を回避しただけでなく、近隣地域をみずからの植民地とした。

台湾は、一八九五(明二十八)年日清戦争の勝利の結果、清国から獲得した
領土である。下関条約によって、台湾、澎湖(ほうこ)列島が日本の領土となった。その面積は、九州の八五パーセント程度の大きさである。住民は、原住の高山系台湾人(いわゆる高砂族)と、大陸からの移住者・漢族系台湾人とであった。人口は、一九三五(昭十)年に、高山族系が一五万人、漢族系が四八四万人であり、日本からの移住者は二七万人であった。なお、下関条約によって、遼東(りょうとう)半島も日本の領土となることになったが、ロシア、フランス、ドイツの三国干渉にあって、遼東半島は放棄還付(かんぶ)せねばならなかった。この遼東半島の重要な一部分が、十年後に関東州として領土となる。

朝鮮は、一九一〇(明四十三)年韓国併合条約によって、形式上も実質上も日本の領土となった。しかしすでに一九〇五年日露戦争の後に、第二次日韓協約によって、朝鮮は外交権を失い、統監府を置かれ、日本の保護国にされた。さらに一九〇七年の第三次日韓協約によって、朝鮮は、軍隊、警察を含む一切の内政権を日本に譲り渡した。この時点で、朝鮮は実質上完全に日本の植民地となっていた。併合条約は、形式上の総仕上げであった。朝鮮の面積は、日本の本州とほぼ同じ大きさである。人口は、一九一〇年で朝鮮人一三一三万人、日本人一七万人、一九四〇(昭十五)年で朝鮮人二三五五万人、日本人七一万人であった。朝鮮の場合、日本への移住者が多かった。在日朝鮮人は、一九二〇年三万人、一九三〇年三〇万人、一九四〇年一一九万人、一九四五年日本敗戦時に二一〇万人であった。なお、一九三九年以降百万人以上が、強制連行されていた。

南樺太は、一九〇五年日露戦争の勝利の結果、ロシアから獲得した領土である。ポーツマス条約によって、北緯五〇度以南の樺太が日本の領土となった。面積は、九州の八六パーセント程度の大きさである。人口は、一九四一(昭十六)年に日本人(アイヌを含む)三九万人、朝鮮人二万人で、オロッコなど少数原住者は総計五〇〇人以下であった。

関東州は、目露戦争の勝利の結果、ロシアから移譲された清国領の租借(そしゃく)地である。ポーツマス条約によって、旅順口、大連を含む遼東半島の尖端部分(関東州)の租借権と、東清鉄道南部線(族順口・長春間、一九○六年から南満州鉄道、いわゆる満鉄)と、同付属地行政権が、ロシアから日本に移譲され、その後の日清満州条約によって清国から承認されている。関東州は奈良県程度の大きさであるが、満州への出入口として重要であった。満鉄は、鉄道であるだけでなく、企業経営(炭鉱、製鉄など)、付属地行政、沿線駐兵権(満州独立守備隊)、領事裁判権によって、バツクアツプされていて、独立国的であった。

この意味で、満鉄付属地を植民地とみることもできよう。関東州の住民は、一九四〇年で、中国人一一八万人、日本人二〇万人であった。

南洋諸島は、第一次世界大戦に際して、日本が一九一四(大三)年に対独参戦をして、赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領し、一九一九年のパリ講和会議で国際連盟下の日本の委任統治領として承認されたものである。南洋諸島は、グアム島(米国領)を除くマリアナ、マーシャル、カロリンの三群島を総称したものである。そこには、マリアナ群島のサイパン、テニアン、マーシャル群島のヤルート、ビキニ、カロリン群島のパラオ、ヤツプ、トラツク、ポナペなどの島々が含まれていた。南洋諸島の総面積は、琉球諸島全域よりやや少なく、一番大きい島でも、淡路島の三分の二程度しかないが、その千四百余の島々は、アメリカ本土大の海域分散している。人口は一九二二(大十一)年で総数五万人で、原住者のカナカ人、チャモロ人が四万八○○○人、日本人三〇〇〇人であったのが、一九三五年には、日本移住者の方が、原住者の数をこえ、一九四三年には日本人(朝鮮人を含む)九万七〇〇〇人、原住者五万三〇〇〇人となっていた。

近年ベラウ(パラオ)共和国の非核憲法が有名となり、日本のテレビの現地取材も行われている。このときパラオの人々が、上手な日本語で、テレビのインタビューに応答しているのをみて、「あれ!? どうしてこの人たちは日本語を語すのか?」と首をかしげた日本の視聴者も多かったようである。

べルサイユ条約では、日本がドイツの旧山東権益(膠州(こうしゅう)湾租借地と山東鉄道)を引き継ぐことが、承認されたが、中国の民衆はこれに強硬に反対した。結局一九二二年のワシントン会議で、日本はこれを放棄した。もしも中国の強硬な反対がなかったならば、山東半島は遼東半島と同じく、日本の植民地となっていたであろう。

最後に満州であるが、関東軍(本来は関東州租借地及び満鉄沿線の警備軍)が一九三一(昭六)年九月、いわゆる満州事変(満州侵略の謀略)を引き起こして満州を占領すると、清朝の廃帝(宣統帝)・溥儀(プーイー)を引き出し、これを執政として一九三二年三月カイライ国家.満州国を樹立したものである(二年後に帝政)。満州国は名目上は独立国であるが、国防、治安維持は日本軍に委任するなど、実質上は日本人官吏によって完全に支配されていた。その最高権力者は、一九三三年以降、駐満大使及び関東州長官を兼務する関東軍司令官であった。満州の面積は日本本土の三倍以上であった。

人口はそもそも四〇〇〇万人台であったが、そこに多いときには、一〇〇万人以上の日本人が満鉄職員、満州国官吏、軍隊などで移り住んでいた。農業移民一〇〇万戸移住計画があったが、結局農業移民は三三万人程度に終わった。その半数程度が、敗戦の混乱のなかで死んでいる。なお満州には、日本人以上に多くの朝鮮人が移り住んでいた。

日本の植民地の総面積は、外地約三○万平方キロメートル、満州国約二二〇万平方キロメートルであり、これに対し本土の面積は約三八万平方キロメートルであった。日本は、広大な植民帝国であった。

以上に挙げた以外に、一九三一年以後十五年戦争(日中戦争から太平洋戦争へ)の時期に、日本は中国本部の一部や、東南アジア(インドシナ、タイ、マレー、ビルマ、インドネシア、フィリピン)を占領したが、これらの地域の支配は軍政の段階で終わっていた。

植民地の経営


明治日本は、植民地を保有することを夢みていたが、台湾を領有したとき、植民地経営策をもちあわせていなかった。植民地を保有したのは、いわば国際政治上のステータス・シンボルとしてであり、領土の拡大自体が何よりも好ましいと考えていたからである。しかしいったん植民地を領有すれば、これを経営していかねばならない。そのときのモデルは、明治国家に求める他はなかった。財政上の余力をもたない日本は、植民地税収の安定を必要とし、農業地域では、これを地租の増加に求めねばならなかった。そのために、土地調査と、米作など農業振興を強烈に進めねばならなかった。台湾では、これに加えて砂糖業を育成した。植民地の人びとの抵抗、反乱を押え込んで治安を維持するために、本国にならって、警察網を村落の駐在所という型で拡大していった。巡査は、警察業務以外に、土地調査、戸口調査、農業振興、公衆衛生、徴税、社会基盤整備など一般行政業務を受け持ち、それを通じても土地の人びとを監視した。台湾では、保甲(ほこう)制度という隣人監視制度が利用されたが、これにも巡査が関与していた。農業振興と警察国家の台湾モデルは、朝鮮をはじめ他の植民地にも応用されていった。

植民地官制をみると、朝鮮総督府、台湾総督府、関東都督(ととく)府(一九一九年関東庁と関東軍司令部とに分離)、南洋庁、樺太庁(一九四三年内地編入)となっていた。一番権限の強いのが朝鮮総督府、一番弱いのが樺太庁であった。朝鮮総督は、天皇に直隷(ちょくれい)し、陸海軍大将がこれに任命された。一九一九(大八)年の改正で、文官総督が可能となったが、最後まで武官総督が任命された。朝鮮総督には、法律的効力の制令を発する権限があった。朝鮮総督の権限が、日本政府から独立していたのは、日本が朝鮮支配を最も重要であるとみたからである。最後まで武官総督であったのは、治安が確立しなかったからである。台湾総督は、はじめ陸海軍大将、中将であったが、一九一九年に文官総督となり、再び一九三六(昭十一)年以降海軍武官が任命された。台湾総督が文官に替わることができたのは、治安が一応確立したからである。再び武官総督に戻ったとき、海軍武官であったのは、南進基地台湾という情勢の変化があったからである。台湾総督にも、法律相当の律令を発する権限があった。関東都督は、陸軍大、中将であった。都督府は、一九一九年に関東軍司令部と、民政の関東庁に分かれた。

さらに一九三四(昭九)年に、関東州は存続していたが、関東庁は廃止され、在満大使館に関東局が設置された。関東軍司令官が、在満大使と、関東州の業務監督を兼務した。関東州の官制には、つねに満州の軍事支配の基地としての性格が濃厚である。樺太庁は、初期の軍政を除いて、軍事的でなかった。南洋庁の場合は、太平洋戦争期に軍事色となり、戦闘場面となってしまったが、その統治は、むしろ日本人の多い移住植民地として安定していた。

日本は、関東州を除いて、同化政策をすすめた。しかし、植民地の人びとは、「日本臣民」どして、ひとしく明治憲法(大日本帝国憲法)の遭用を受けてはいなかった。まず関東州は租借地、南洋諸島は委任統治地域であるからとして、憲法の適用は間題外とされた。

朝鮮、台湾では、皇民化運動、一視同仁(いっしどうじん)、創氏改名(そうしかいめい)、日本語強要などによって、同化政策をすすめながらも、他方では、憲法を全面適用することで、参政権、地方自治権などを朝鮮人、台湾人に与えて、両地の独立運動を助長することを、日本の官民ともにおそれていた。憲法も、参政権も、地方選挙権もとりあげられている植民地の人びとは、「日本臣民」ではなかつた。

裁判所も、樺太を除いては、朝鮮総督府裁判所、台湾総督府裁判所、関東法院、南洋庁法院として別建てであった。一九〇九年十月、当時日本の「保護国」であった朝鮮人の安重根(アンジュングン)が、前韓国統監伊藤博文(いとうひろぷみ)を北満州のハルビン駅構内で狙撃(そげき)、殺害したが、この場合、その身柄は清国における日本の領事裁判権によって、日本の領事館に移され、旅順の関東・地方法院で「帝国刑法」によって死刑判決となった。被告は高等法院に控訴せず、死刑が執行されている。この例にもみられるように、植民地の裁判所は、独立運動、抵抗運動の弾圧機関でもあった。

農業振興に戻ると、台湾では、米作と砂糖業が順調に成長した。朝鮮でも、台湾ほどではないが、米作が一定の伸びを示した。これらの米や砂糖は、日本本土に輸出された。一九三〇年代後半には、本土の砂糖輸入の九割以上が台湾からであり、米の輸入のほとんど全部が朝鮮と台湾からであった。しかし朝鮮人と台湾人の食糧事情は、悪化していった。一人当たり産米消費量(年平均)は、朝鮮人の場合、一九一一~一二年に一〇〇キログラム、一九三七~三八年に七五キログラム詣と減り、台湾の場合でも同じ時期に、一三〇キログラムから一〇〇キログラムに減少している。不足分は、台湾ではいも類、朝鮮では粟・麦などで補った。台湾でも、台湾人用の外米を輸入したし、朝鮮は外米と粟などの雑穀を輸入した。農業振興によって、米の生産が増えたが、現地の人びとの食べる米は減っていた。食糧生産は増えたが、しかし食物は減った。土地所有でも、次第に日本人地主が増えていた。

日中戦争から太平洋戦争にかけて、戦時経済化していくと、植民地収奪、労働力徴用(強制連行、志願兵、徴兵を含む)の仕方が変わるが、これを論じる紙幅の余裕はない。

脱亜入欧の反省へ


日本の植民地は、もともと経済的関心から出発したのでなく、国家的威信とか、軍事戦略上の配慮とかから、獲得されたものである。しかし植民地を領有、経営しはじめると、植民地は必然的に日本の近代化のための後背地として位置づけられ、経済的に露骨な収奪が行われた。それと同時に、日本の植民地領有には、つねに戦略的配慮が隠されており、その点でいっそうの安全を求めて、植民地を限りなく拡大していくモメントが働いていた。

ふりかえってみると、明治日本が西欧の大国をモデルとする近代化の思想を採用したとき、その思想には植民地の思想が含まれていた。「脱亜論(だつあろん)」の代表者・福沢諭吉(ふくざわゆさち)は、植民地論者であった。新一万円札の福沢諭吉は、明治時代の啓蒙(けいもう)思想家として知られ、「天は人の上に人を造(つく)らず、人の下に人を造らず」という言葉は、有名である。しかし、福沢は、この言葉を対外関係に適用しようとはしなかった。

福沢は、一八八五(明十八)年に「脱亜論」と題する小論を書き、そのなかで「今日の謀(はかりごと)を為(な)すに、我国は隣国の開明を待(まち)て共に亜細亜を興すの猶予ある可からず、寧(むし)ろ其伍(そのご)を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も、隣国なるが故にとて特別の会釈(えしゃく)に及ばず、正に西洋人が之に接するの風(ふう)に従て処分す可きのみ」と主張した。それは、近来ヨーロッパ諸国がアジアの諸地域に侵略し、これを植民地としてきているのと同様に、日本も中国、朝鮮を支配するようになれ、という主張である。

福沢は、幕末に都合三回も欧米に洋行しているが、二度めの一八六二(文久二)年にヨーロッパを訪れたときに、その往復路でヨーロッパ諸国のアジア侵略の状況を目撃した。彼は、イギリス人がインド、香港の人びとを傍若無人(ぼうじゃくぶじん)に苦しめているのをみて、次のように決心した。「印度支那の人民が斯(か)く英人に窘(くるし)めらるヽは苦しきことならんが、英人が威権を擅(ほしいまま)にするは又甚(はなは)だ愉快なることならんとて、一方を憐(あわれ)むの傍(かたわ)らに又一方を羨(うらや)み、吾(わ)れも日本人なり、何(いず)れの時か一度は日本の国威を耀(かがや)かして、印度支那の土人等を御すること英人に倣(なら)ふのみならず、其英人をも窘(くるし)めて、東洋の権柄(けんぺい)を我一手に握らん」。この決心は、植民地論者への決心である。

植民地の目標は、意外にも早く実現した。一八九五(明二十八)年、日清戦争の勝利によって、台湾は日本の領土となった。このとき、福沢は、台湾統治の方針について「島民の如きは眼中に置かず」に、「無知蒙味(むちもうまい)の蛮民をば悉(ことごと)く境外に逐(お)ひ払ふて殖産(しよくさん)上一切の権力を日本人の手に握り、其全土を挙げて断然日本化せしむる方針」を主張した。このように、脱亜論者は植民地論者であった。

朝鮮、中国において、福沢の評判は必ずしも芳(かんば)しいものではない。それ以上に評判が悪いのは、旧一千円札の伊藤博文である。一九〇五(明三十八)年、日本が朝鮮を保護国としたとき、伊藤は初代統監として京城に乗り込み、一九一〇年の完全併合に向けてお膳立てをした人物である。朝鮮では、この伊藤を一九〇九年にハルビン駅で殺害した安重根の方が、「義士」なのである。

旧一千円札の伊藤、新一万円札の福沢に代表されるように、近代日本を創った政治家、思相家は、ほとんどのひとが脱亜入欧論者であり、植民地論者であった。植民地にされた方の人びとからみれば、伊藤や福沢を今回も紙幣の肖像画に使っている日本人の良識を疑い、日本人は相も変わらず脱亜論者であり、植民地論者であるとみえるのではなかろうか。講の肖像画が紙幣に選ばれるかについては、暗黙ではあるが、日本国民の合意があるからである。

戦後、日本は、旧植民地との関係を正しく解決していない。朝鮮は、大韓民国とのみ接触し、朝鮮民主主義人民共和国を敵視、無視してきた。中国も、長い間台湾の国民党政府を支持し、中華人民共和国を敵視していた。旧南洋諸島の関係でも、賠償はすっきりとしていないし、日本の核廃棄物を南太平洋に放棄する計画を現地の人びとの反対にもかかわらず、放棄できないでいる。旧植民地の被爆者にも、旧日本軍人・軍属にも補償しようとしない。在日韓国・朝鮮人(七〇万人)を国籍、在留資格、就職、生活保障、人権などの問題で優遇するどころか、むしろ差別をしている。外国人登録の指紋押捺(おうなつ)に在日外国人から強い抗議の声が起こっている。ごく最近にも、長野県が一九八五年度教諭に在日韓国人を採用内定したのに、これに文部省が圧力をかけて内定を取り消させている。

世界的には、植民地時代は終わっている。香港も中国に返ろうとしている。私たちも、注意深く植民地主義の残りかすを消していかねばならない。一九四五(昭二十)年八月六日、南洋諸島のテニアン島から、原爆搭載の米B29爆撃機が、広島に向けて発進した。八月九日、ソ連軍が満州に侵攻したが、このとき関東軍は壊滅した。内地でも外地でも植民地のつけが、日本人の大衆に回ってきたのである。

(神戸大学教授)


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