15年戦争資料 @wiki

漢族系台湾人高年層の日本語使用-言語生活史調査を通じて-(1)

最終更新:

pipopipo555jp

- view
管理者のみ編集可
Title

漢族系台湾人高年層の日本語使用-言語生活史調査を通じて-(1)


Author(s) 合津, 美穂
Citation
URL http://hdl.handle.net/10091/1845
Right
(信州大学留学生センター紀要第3号 2002年3月)
漢族系台湾人高年層の日本語使用- 言語生活史調査を通じて -
合津美穂


キーワード:漢族系台湾人高年層、発話形態、私的場面、「台湾人」俗日本語、アイデンティティの象徴

要旨

本論では、1998年に実施した言語生活史調査の分析を通じ、日本統治時代に日本語による教育を受けた漢族系台湾人高年層の日本語使用実態を通時的に捉え、漢族系台湾人高年層間における日本語使用の要因を社会言語学的な観点から考察した。その結果、次の3点を指摘し得た。

  1. 公的場面における日本語の使用は台湾の政治・社会状況に応じて変化しているが\私的場面においては、日本統治時代に教育を受けた漢族系台湾人の間で、今なお日常的に日本語を使用し続けている。
  2. 現在、公的場面で使用しているのは比較的標準的な日本語である「「台湾人」標準日本語」、私的場面において中学校・高等女学校時代の同級生や日本語のできる配偶者との間で使用しているのは他言語と日本語が混じった「「台湾人」俗日本語」である。
  3. 中学校・高等女学校時代の同級生との間で「「台湾人」俗日本語」を使用しているのは、日本統治時代の中学校・高等女学校の学生としてのアイデンティティを象徴している日本語が混じった「「台湾人」俗日本語」を使うことによって、仲間意識・連帯意識を確認し、共有し合うことができるためではないかと考えられる。

1.はじめに


台湾では、日本によって統治された1895年から1945年の50年間にわたり、日本の植民地政策の一つとして日本語普及が推進された。日本統治時代が幕を閉じてから50年以上を経た現在でもなお、台湾の高年層の中には、日本語を使用している人々がいる。日本統治時代から現在に至るまで、彼らはどのように日本語を使用してきたのだろうか。また、なぜ、今でも日本語を使用しているのだろうか。

1998年に、原住民族の一つであるアタヤル族と、漢民族の閩南系・客家系の高年層に対し、言語使用意識に関する面接調査を行った簡(1999-2000)は、高年層が使用している日本語の機能を、①異なる言語集団の高年層同士の共通語、②秘密ごとを話し合うときに使う、いわゆる隠語、③計算、の3つにまとめている。論者は、1998年7月から9月にかけて、日本統治時代を経験した漢民族の閩南系・客家系の高年層に対して言語生活史調査を面接方式で行った。その結果、閥南系・客家系間だけでなく系同士、客家系同士といった同じ言語集団に属し、共通言語を有する漢民族高年層間において、日本統治時代だけではなく現在もなお、日常的に日本語を使用し続けていることがわかった。この結果は、簡(1999・2000)で指摘された、「異なる言語集団の高年層同士の共通語」といった機能からだけでは説明できないものである。また、言語使用場面を分析したところ、「隠語」、「計算」といった機能とはまた別の
一25一
要因によると考えられた。

本論では、面接調査で収録した談話資料を分析し、日本統治時代に日本語による教育を受けた漢民族の高年層の人々が、漢族系間においてどのように日本語を使用してきたのかを、通時的に捉えてみたい。その上で、なぜ、現在まで漢族系間において日本語を使用し続けているのか、社会言語学的な観点から考察を加えたい。なお、本論では、話しことばにおける日本語の使用に限って、分析・考察を進める。以下、文献の引用にあたり、漢字の旧字体は新字体に改めた。引用文中の「台湾語」は閩南語、「中国語」は北京語を指す。プライバシーに配慮し、インフォーマントの氏名は仮称とする。

2.台湾の漢民族とその言語



台湾に住む漢民族と彼らが使用している言語について、概観しておきたい。日本統治時代、台湾に居住していた住民は、漢民族、原住民、日本内地からの移住者である日本人、外国人、朝鮮人から構成されていたが、漢民族が人口の大多数を占めていた。図1は、1934年末現在の台湾全島の総人口と住民構成比率である2)。台湾全島の総入口は 5,194,980人、そのうち漢民族が総人口の 90.0%(4,676,259人)を占め、次いで日本人 5.1%(262,964人)、原住民 4.0%(206,029人)、外国人 0.9%(48,412人)、朝鮮人0.0%(1,316人)であった。当時、台湾の漢民族は、中国大陸の福建地方や広東地方からの移住民から成っていたが、なかでも福建地方からの移住民の比率が非常に高かった。1934年末現在では、総人口に占める福建系住民の比率は 75.9%(3,942,139人)、広東系住民14。1%(733,910人)、その他の地方からの移住民0.0%(210人)であった。

台湾の漢民族は、閩南語と客家語のいずれを母語とするかによっ閩南系並びに客家系とに二分される。主として福建系の移住民は閩南語、広東系の移住民は客家語を母語としていた。閩南語と客家語は、ともに中国語諸方言の一支であるが、相互に通じ合うことができないほど隔たっている。閩南系と客家系とでは、言語だけでなく、信仰、結婚や葬式の習俗、住居、衣服など、日常生活形の様々な面における伝統的風俗習慣にかなりの違いがある。また、19世紀中頃まで、出身地が異なる移住民の間で、土地などの資源をめぐって利害争いが頻発していた。そのため、先に移住した閩南系住民が沿岸地帯の平地部に、客家系住民は中央山脈に接した山麓地帯にと、地域的に分かれて集住する傾向が生じた。20世紀に入って、台湾島内のインフラ整備と産業振興が進むにつれ、次第に都市部にも客家系住民が居住するようになった。客家系住民が少ない都市部では、多数派の言語である閩南語が使えないと、日常生活上、不便も多く、客家語の他に閩南語を習得・使用している客家系住民もいた。

現在、台湾に居住している住民は、漢民族と原住民に大きく分けることができる。漢民族のうち、1945年8月15日の太平洋戦争終了後、国民党とともに中国大陸から台湾に移住してきた人々は外省人と呼ばれ、それ以前から台湾に住んでいた人々は本省人と呼ばれている。外省人の中国大陸での出身地は様々であり、外省人の言語は、北京官話を主体にして、大陸各省・各地方の方言も使用されているという。

現在の台湾の住民構成比率は、閩南系住民が総人口の 73.3%を占め、次いで外省人が 13%、客家系住
一26一
民 12%、原住民 1.7%である3)。日本統治時代だけでなく、現在でも閩南語を母語とする住民の比率が圧倒的に高いことがわかる。以下、本論で使用する「漢族系台湾人」は、本省人の閩南系・客家系住民を指す。

3.調査の概要


3-1.調査の方法


図2 調査地点と住民構成比率(1935年末現在)

日本統治時代に日本人が多く居住していた都市部と日本人が少なかった農村部では、言語状況が異なっていたと考えられる。そこで、主要都市の台北市と高雄市、地方都市の屏東市、台中州大甲郡清水街、台中州語勢郡東勢街、農村部の台北州羅東郡三星庄を調査地点に選んだ(以上、日本統治時代の地名)。調査地点及び1935年末現在の各地点における住民構成比率については図2、人口については表1を参照されたい。結婚等で言語形成期を過ごした地域を離れた方もいたため、面接調査は台北市、高雄市、宜蘭県羅東鎮、及び東京都内で実施した。調査日と調査地点は以下のとおりである。

A・B氏:1998年9月10日、台北市内(話者宅)
C氏  :1998年9月15日、高雄市内(C氏の妹宅)
D・G氏:1998年9月14・16日、高雄市内(話者宅)
E氏:1998年7月10・28日、8月5日、東京都内(E氏の職場)
F氏:1998年9月13日、台北市内(F氏の友人宅)
H氏:1998年9月7日、宜蘭県羅東鎮(話者宅)
I・J氏:1998年9月9日、宜蘭県羅東鎮(話者宅)

漢族系 原住民 日本人 外国人 朝鮮人 総 計
台北市 187,967 8 82,130 17,443 298 287,846
高雄市 64,085 6 20,227 2,432 98 86,848
屏東市 37,145 22 5,459 1,290 81 43,997
清水街 33,190 0 499 75 10 33,774
東勢街 22,008 0 480 28 9 22,525
三星庄 14,43Q 232 326 44 0 15,032
表1 調査地点の住民構成と人口(1935年末現在)

インフォーマントは知人を介して求めた。A氏とB氏、 C氏とE氏、 D氏とG氏、I氏とJ氏は夫婦である。A氏とB氏の調査にはご家族とH氏及びH氏のお孫さん(以下、 X氏とする)、 C氏の調査にはE氏、D氏とG氏の調査の一部にE氏、 F氏の調査にはF氏の友人のご家族とX氏、 H氏の調査にはX氏、I・J氏の調査にはH氏とX氏が同席した。調査内容は日本統治時代から現在に至るインフォーマントの言語生活についてである。但し、光復後の台湾の政治・社会事情を配慮し、日本統治時代の言語生活を中心に調査表を作成した。光復後の言語生活については、習得言語、家族構成(家族の習得言語を含む)、居住歴、学歴、職歴、日本への渡航歴、日本・日本人との交友関係といった、属性に関わる事項のみ調査項目としてたてるにとどめ、調査中の談話の流れや、インフォーマントの反応に応じて臨機応変に質問を行うという方法をとった。調査においては、インフォーマントの方々の調査に対する深いご理解とご協力により、話者によって調査内容に偏りがあるといった限界はあるが、光復後の言語生活についても予想以上に多くの情報を得ることができた。

日本統治時代に日本語を習得したインフォーマントは、調査時においても高い日本語力を保持していたため、調査は全員日本語で行った。全ての方から承諾が得られ、調査の内容をテープに録音した。本論では録音資料を文字化した談話資料を用いる。

3-2.インフォーマントについて


言語形成期を台北市で過ごしたのはA氏とB氏、高雄市はC氏、屏東市はD氏とE氏、台中州大甲郡清水街はF氏、台中州東勢郡東軍勢街はG氏、台北州羅東郡三星庄はH・I・J氏である。表2は、1925年末現在の各地点における漢族系住民の構成と人口である 5)。A・B・C・H・I・J氏が住んでいた台北市・高雄市・台北州羅東郡三星庄は、閩南系住民が大多数を占めていた。F氏の出身地である台中州大甲郡清水街には、閩南系台湾人しか住んでいなかった。D・E氏が住んでいた屏東市(屏東街)は、他の地点に比べて客家系住民が比較的多かった。台中州東勢郡東勢街は客家系住民の多い地域で、G氏は東勢街郊外にある客家系台湾人の部落に住んでいた。

閩南系 客家系 その他 合 計
台北市 137,000 900 0 137,900
高雄市 32,900 100 1,500 34,500
屏東市 21,600 1,700 500 23, 800
清水街 26, 300 0 0 26, 300
東勢街 10,400 8,700 600 19,700
三星庄 8,000 700 1,400 10,100
表2 調査地点における漢族系住民の構成と人口(1925年末現在)

男性はA・D・E・H・I氏の5名、女性はB・C・F・G・J氏の5名である。

調査時点の年齢は、60世代がC・E・F氏、70歳代がA・B・D・G・H・I・J氏。最年長者はH氏で76歳、最年少者はC氏で68歳である。1945年の光復時、H氏は23歳、 C氏は15歳だった。

母語が閩南語であるのはF・H・I・」氏、客家語はA・B・D・E・G氏。C氏は客家系台湾人だが、日本語が堪能な両親に日本語で育てられたため、日本語が第一言語だった。客家語は、日本統治時代は少しできる程度で、光復後に習得した。

現在、閩南系のF・H・I・J氏は閩南語・日本語・北京語を、客家系のA・B・C・D・E・G氏は客家語・閩南語・日本語・北京語を使用することができる。客家系のインフォーマントは、閩南語も習得している。A・B氏は台北市、 D・E氏は屏東市という閩南系住民が多く住む地域に居住していたため、公学校入学後、閩南系の友人との間で閩南語を習得した。C・G氏は、光復後に屏東市に転居してから閩南語を習得した。日本語は、全員が日本統治時代に習得し、使用していた。北京語は、全員、光復後に習得している。

学歴について。C氏以外のインフォーマントは、主として漢族系の子弟が通った公学校、 C氏は主として日本人子弟が通った小学校を卒業している 6)。B氏は公学校卒業後、台北市内のタイピスト養成所に通った。中学校には男性インフォーマント全員が進学している。H氏とI氏は日本内地の中学校に1年問留学した後、台湾島内の中学校に編入した。A・D・H・I氏は台湾島内の中学校を卒業後、日本内地の大学進学を目指して渡航した経験がある。高等女学校に進学したのはC・F・G・J氏である。G氏は台湾島内の公学校を卒業後、日本内地の高等女学校に進学した。A・D・G・H・I・J氏は日本統治時代に、C・E・F氏は光復後に、中学校・高等女学校を卒業している。

職歴について。教員だったのはD・H・I・J氏。D氏は、光復後、初等中学の教員になり、定年退
一28一
職するまで勤めた。H・J氏は、日本統治時代から定年退職するまで教員を続けた。 I氏は、光復後8年間、国民学校で教えた後、企業へ転職した。日本企業に勤務した経験を持つのはB・G氏。B氏はタイピスト養成所を修了後、台北市内の日本企業にタイピストとして勤務し、光復後、日本人が引き揚げてからも、1949年までその会社で働いていた。G氏は高等女学校卒業後も、日本に残り、終戦まで日本企業に勤務していた。A氏は光復後、台北市内の建築会社に就職した。 C氏は光復後に高等女学校を卒業し、高雄市内の銀行に5年間勤めた。E氏は光復後に中学校を卒業した後、家業を継いだ。 F氏は家長の方針により就職しなかった。現在、E・H氏以外は無職である。 E氏は台北市内の企業の顧問を、H氏は羅東鎮内で果樹の苗を育成している。

家長の職業は、茶商(A氏)、製造業(B氏)、公務員(C氏)、実業家(D氏)、大地主(E氏)、製造・貿易業(F氏)、造林業(G氏)、地主・精米所会計役(H氏)、米問屋(I氏)、地主(J氏)であった。家長は全員、仕事上、日本人と接触する機会があった。日本統治時代に日本に渡航した経験があるのは、B・C・D・E・F・G氏の家長。G氏の家長は日本内地の農林学校を卒業している。

全員のインフォーマントに、日本語能力を持つ家族がいる。両親共に日本語が堪能だったのは、B・C氏。B・C氏の母親は結婚前、公学校の教員だった。 D・G氏の母親は日本語ができなかったが、父親は日本語ができた。日本統治時代に学校教育を受け、日本語能力を持つ兄弟・配偶者がいるのは、 H氏を除いた全員である。日本語ができる子弟を持つのはC・E氏とD・G氏の家庭。日本語ができる孫を持つのは、C・E氏、 D・G氏とH氏である。 C・E氏の子弟と孫、 D・G氏の子弟、 H氏の孫は、台湾ないし日本の教育機関等で日本語を学習しているが、D・G氏の孫は、日本から取り寄せた小学校の国語の教科書を使って、D氏から学んだそうである。

日本統治時代、国語常用家庭 7)だったのはB氏とC氏の家庭。改姓名をし、日本名を持っていたのはC氏とI氏である。
                                 表3 インフォーマントの一覧(1998年9月現在)
A B C D E
出身地 台北市 台北市 高雄市 屏東市 屏東市
性別
生年月日 1923年1月21日 1927年2月6日 1930年3月19日 1923年3月1日 1929年2月24日
母語 客家語 客家語 日本語 客家語 客家語
習得言語
(習得順)
閩南語 閩南語 客家語 閩南語 閩南語
日本語 日本語 閩南語 日本語 日本語
北京語 北京語 北京語 北京語 北京語
学 歴 中学校卒業 公学校卒業 高等女学校卒業 中学校卒業 中学校卒業
職 歴 建設会社勤務 日本企業勤務 銀行員 初等中学教員 家業手い・企業顧問
家長の職業 茶商 製造業 公務員 実業家 大地 主
口本語能力を持つ家族 兄弟・配偶者(B) 両親・兄弟・配偶者(A) 両親・兄弟・配偶者(E)・子・孫  父・兄弟・配偶者(G)・子・孫 兄弟・配偶者(E)・子・孫
備  考   国語常用家庭 国語常用家庭・改姓名    

F G H I J
出身地 台中州大甲郡清水街 台中州東勢郡東勢街 台北州羅東郡三屋庄 台中州羅東郡三屋庄 台北州羅東郡三屋庄
性別
生年月日 193G年2月10日 1923年11月19日 1922年6月8日 1922年11月22日 1924年5月30日
母語 閩南語 客家語 閩南語 閩南語 閩南語
習得言語
(習得順)
日本語 日本語 日本語 日本語 日本語
北京語 閩南語 北京語 北京語 北京語
北京語
学歴 高等女学校卒業 高等女学校卒業 中学校卒業 中学校卒業 高等女学校卒業
職歴 なし 日本企業勤務 国民学校教員 国民学校教員
磁器会社勤務
国民学校教員
家長の職業 製造・貿易業 造林業 地主、精米所会計役 米問屋 地主
日本語能力
を持つ家族
兄弟・配偶者 父・兄弟・配偶者(D)・子・孫 兄弟・配偶者(J) 兄弟・配偶者(I)
備考 改姓名

29
目安箱バナー