15年戦争資料 @wiki

第7章 日本統治時代――天子が代わった

最終更新:

pipopipo555jp

- view
管理者のみ編集可

第7章 日本統治時代――天子が代わった


1894年、甲午の年、清朝と日本の間で戦争が起こった。歴史にいう中日甲午戦争〔日清戦争〕である。それまで二十数年もの間、自強運動に傾注した中国は、この戦争で明治維新後の日本にいとも簡単に打ち破られてしまった。また、日本はひとたび戦って勝利するや否や、列強の仲間入りを果たしたのに対し、清国朝廷にすれぼ、アヘン戦争以来続く主権喪失という国辱の中でも、これはとりわけ重大な挫折であった。敗れた以上、和議を結ばざるを得ず、講和の代価は領土割譲と戦費賠償であった。

台湾、鄭成功がオランダ人の手中から奪い返し、「反清復明」基地としたこの辺境の小島は、1684年に清朝政府の領土に組み入れられた。そして乙未<いつび>の年(1895年)まで、清朝に隷属すること二百余年、漢人主体の多民族・多言語社会となっていた。それが中日の馬関〔下関〕談判で、甲午戦争の戦火から遠く離れたこの海上の孤島は、不幸にも日本への割譲が取り決められた。これが、台湾近代の悲劇の運命の起源であった。

下関条約は1895年4月17日に本州の西端、下関(別名、馬関)で締結された。下関は九州の門司とむかいあっており、当時は九州から東京に行くのに必ず経由する要地であった。ご存知のとおり、清朝政府は李鴻章<りこうしょう>を全権として対日講和に当たらせ、日本側の全権は伊藤博文であった。当時李鴻章は直隷総督で北洋大臣を兼ね、その権勢は一世風靡し、あたかも一国の宰相のごとき存在であった(清朝は制度上宰相を設けていない)。一方の伊藤博文は明治維新の功臣である上に、当時の内閣総理大臣でもあった
093

から、双方会談に臨むに当たってその権勢たるや好敵手であったと言える。長州藩出身の伊藤博文は、下関でもっとも有名な旅館であった春帆楼を会談の地に定めた。100年を経て、「蒼い海が桑の畑となる」喩えのように現在はすっかり様変わりをしているが、春帆楼は相変わらず営業を続けており、下関のきわめて貴重な「史跡旅館」として知られている。ただし当時の建物は第二次世界大戦の際に焼け落ちており、現在の綺麗な黄色の瓦をちりばめた建物は、十数年前に再建されたものである。春帆楼入口の右側には日清講和記念館があり、当時講和会議に使われた椅子や器具が保存され、観覧できるようになっている。

1902年、新しい教育方法の導入を提唱した清朝の呉汝綸<ごじょりん>が訪日し、教育制度を視察したついでに下関に立ち寄り、日本人の求めに応じて「傷心之地」という四文字を残し、当時新聞などで名筆と喧伝された。現代人も呉汝綸がこの字を書き残した時の沈欝な心情が理解できるであろう。1996年6月、筆者も調査研究の訪日の折に下関に立ち寄り、記念館で台湾の旅行団の列が出てくるのを見たことがあるが、彼らは皆、一様に茫然とした表情を浮かべており、まるでどう感じてよいのか、分からないようにも見えた。おそらくこの小さな旅行団だけの問題ではあるまい。思うにこれは、私たちが現在確実に直面している、どのように過去を感じ、どのように過去を見定めるのかという問題なのである。歴史というものに対する感受性の乏しい人は、おそらく後世の人を感動させるような歴史を描き出すことはできないのではなかろうか?

周知のごとく、やがて日本に割譲されたというニュースが伝わると、台湾の官民はこぞってこれに反対して立ち上がり、世論は沸騰した。条約が締結されてからというもの、台湾人の憤激は頂点に達した。台湾の官員や士紳は台湾を保持することを願い、敢えて利権をもって列強の支援を誘い出すことすらも拒まなかったが、すべては無駄であった。台湾の土紳・民衆は、何とかして天地を反転して旧に復すべく、最後の一筋の望みを「公
096

法」に訴え、国際的な同情を取り付けようとし、そこで5月23日に「台湾民主国」の成立を宣言、台湾巡撫唐景崧<とうけいすう>を総統に推挙して、年号を「永清」とし、「藍地黄虎旗」(青地に黄色の虎を象<かたど>った旗)を国旗と定めたのである。「台湾民主国」はアジアで初めての共和国であり※1、唐景崧は台湾民主国総統として全台湾の士紳・民衆に布告を発して言った。「本日を以て正式に決定し、台湾を改めて民主之国とする。国中の一切の新政は、必ずまず議院を開設し、議員を公挙すべきである」。すなわち厳然と近代議会政治を成立させようとする気概が見える。しかし台湾民主国の成立は、もともと便宜的な企てであり、唐景崧は続けてこうも言っている。「台湾は現在は独立国ではあるが、歴代皇帝陛下の旧恩を念頭に刻み、依然として謹んで臣服し、王朝の遥かな藩屏<はんぺい>となるのである。気脈を通ずることは、本土と変わりはない」。唐景崧は黒旗将軍劉永福を「台湾民主国大将軍」に任じ、新たな人事配置を行ったが、清朝が台湾の文武官に本国帰還を命じていたため、留任する者はほんの数人しかいなかった。

※1 研究者によっては、榎本武揚などの「蝦夷共和国」をアジア初の共和国とする見解も存在する。
097


講和条約で台湾を得た日本であったが、実際に台湾全島を「領有」する過程は決して順調ではなく、前後およそ5ヶ月ほどを費やした。1895年5月24日、台湾総督兼軍司令官の海軍大将樺山資紀<かばやますけのり>は、広島宇品港から総督府の文武官員を率いて「横浜号」に乗り込み、南下して台湾及び周辺島嶼を接収した。台湾領有という目的を達成するために、近衛師団を派遣、5月29日に澳底<おうてい>から台湾に上陸した。増援部隊として混成第4旅団もまた7月に次々と台湾にやってきた。この他、比志島混成支隊は、3月24日、まだ談判中にすでに澎湖島を占拠していた。

武力によって台湾を領有しようとした日本は、至るところで台湾人民の頑強な抵抗に出会った。過去の戒厳令下の時代、日本植民地時代の歴史は、早期の武装抗日運動のみに偏重していたが、近年来の台湾史研究の重厚な発展によって、さまざまな主題を人々がすべて研究するようになり、官製「抗日史観」はもはや流行ではなくなった。現在では私たちも知っているように、領台〔台湾占領〕当初、進んで日本に協力した人もあれば、さらに「日本の明治の君を御主人とします」という旗を掲げて出迎えた人たちもいた。台湾人が一致団結して日本軍に対抗したわけではないことは、明らかである。しかしながら、台湾内部の民族集団<エスニックグループ>(族群)や宗教の「分類」がどうであれ、あるいは何人かの士紳・商人階級が日本軍に協力したとはいえ、台湾の各地に、民衆が奮起して日本軍に抵抗したのは事実である。多くの死傷者を出し、流された血は川をなした、このことを否定し、消し去ることは決してできない。また今日の私たちが、これに続く日本の植民地統治をどのように評価するとしても、先人たちがこぞって立ち上がり外敵侵入に抵抗した事実をなおざりにすることはできない。

外敵に抵抗することは民族精神の根源となるものである。台湾割譲のニュースを伝え聞いた時、台湾民衆は自分たちの郷土を守るという素朴な思いから、古臭い武器を片手に近代的な軍隊に立ち向かった。仮に「その愚かさは救いがたかった」としても、一つの民族が追い求める独立自主の精神がそこにはあったのだ。言い換えれぼ、開城して敵を迎え入れた人は、もしそれによって社会から認められ、さらには羨望されることがあったと
099

しても、そのような民族は未来の危機を前にした時、きっと戦わずして降伏してしまいかねないのである。6月3日、日本軍は基隆を攻略、4日には唐景崧は慌てふためいて中国大陸へと帰ってしまった。6日、鹿港出身の辜顕栄<こけんえい>という無名の人物が日本軍と交渉し、台北の市民は皆、日本軍の到来を待ち望んでいると伝え、自ら案内役を買って出た。続いて李春生などの紳商と外国人居住者の委託を受けた外国人たちもやってきて、日本軍の入城を歓迎したのである。こうして6月7日には近衛師団が台北の城門に至り、戦わずして台北市内に進駐した。6月17日、樺山資紀がもとの巡撫衙門<がもん>の前の広場で「始政式」を行い、ここに台湾は正式に「天子(天命を受けた支配者)が代わった」こ
100

ととなった。この後、半世紀にわたって、6月17日はもっとも重要な祝日「始政記念日」となり、毎年、荘重盛大な祝賀行事が行われることとなった。

これに先立って、1895年の5月に、台湾の士紳と民衆は「台湾布告」を発表し「人々が皆戦死して台湾を失うことがあろうとも、手を拱換<こまね>いて台湾を譲り渡すことは決してしない」という誓いを立てた。指導者であった丘逢甲・林朝棟・林維源らの士紳が相次いで台湾を捨てて去ってしまったにもかかわらず、何人かの地方官や将校と無数の庶民たちは、逆に、死すとも投降せず、「台湾と存亡を共に」し、この孤島のために、賞賛すべき、そして涙せずにはおられない勇敢な戦いを歴史に刻んだのである。日本軍は台北から南進した時に、道々で抗日軍の勇敢な抵抗に出会い、双方は大嵙崁(大渓)、三角湧(三峡)、新竹、苗栗、彰化、斗六、嘉義など各地で激戦を繰り返した。なかでも八卦山の役では抗日軍は寡勢で大軍に立ち向かい、戦況は苛烈を極め、全台義勇軍統領・呉湯興、黒旗軍統領・呉彭年などは皆この戦で戦死したが、日本軍の方でも兵馬の疲労著しく、しばし
101

南進を停止せざるを得なかった。また大甫林(大林)の役では義勇軍が日本軍に大勝、失地を回復し、「日清開戦以来未曾有の出来事」となり、人心を大いに鼓舞したのであった。紙幅の関係もあり、ここでは先人による抗日の経過を詳しく書くことができない。簡単に言うと、中部の抗日は台湾府知府黎景嵩<れいけいすう>の率いる新楚軍と義勇軍が戦い、南部抗日では劉永福の黒旗軍が主力で義勇軍が脇を固めた。日本軍の近代的な最新兵器をもってしても、4ヶ月もの期間を費やしてようやく台北から台南まで到達することができた。ここに台湾人民の抵抗が激烈であったことを、皆さんも思いめぐらすことができるであろう。

近衛師団はこのような頑強な抵抗に遭遇したほか、台湾のいわゆる「瘴<しょう>病」(風土病)に苦しみ、戦力は大いに減少した。しかし10月になると、援軍が続々と到着し、混成第4旅団が10月10日には布袋口に、続いて第2師団が10月11日に枋寮<ほうりよう>に上陸した。そこで日本軍による南北中3方向からの挟み撃ちが開始され、10月中旬には3方面の軍が台南城を包囲攻撃する態勢が出来上がった。19日深夜、南部抗日の精神的支柱であった劉永福の率いた部隊は、軍服を脱ぎ捨てて変装し、台湾を離れ、翌日には厦門<アモイ>に到着した。21日、英国の宣教師バークレイと宋忠堅が、台南の紳商の委託を受けて日本軍を出迎え、日本軍は「平和裡」に台南市内に入城し、台湾全島の占領が完成した。

ここまでの過程を簡単に要約すると、台北と台南2城が戦わずに開城したのを除き、各地(後山=山岳地帯と東部を除く)ではすべて日本軍の侵入に激しく抵抗し、無数の死傷者を出している。日本軍を案内して無血入城させたことについて、以前から人民をさらなる塗炭の苦しみから免れさせたという言い方があった。結果論としては、このような言い方も正しいかもしれない。しかし開城して敵を迎え入れるこの行為は、果たして外敵との抗争に苦しむ人民のためを思っての大慈悲心によるものであったのか、それともあるいは自分の財産や生命に思いがあったのか、あるいは極言すれば、いちかばちかの大博打であったのか。文献を見わたしても語るものは少なく、憶測は敢えて避げておこう。ただ、無血入城を推進した彼らが、
102

勲章をつけた辜顕栄
辜顕栄の邸(現鹿港民俗文物館)

後に日本側から膨大な贈り物を受け、久しく密接な「協力」関係を続けていったことから見れば、少なくとも慈悲という宗教的な動機からではなかったことはほぼ確かであろう。台湾の統治者が替わる時に、無数の兵士が決然と立って敵に立ち向かい、生命を失ったことは、後の人びとから忘れ去られてしまった。これに対して、日本軍を台北城に導き入れた辜顕栄は、逆に一躍台湾の名家の仲間入りを果たし、その一生を栄華のうちに終え、現在その遺産は何代も後の子孫にまで及んでいる。辜一族は現在でも台湾の有数の名家に数えられていることは御覧のとおりであって、歴史を知る者はただただその皮肉に感嘆するほかない。

一個の民族が存続を求めるならば、必ずその強靭な独立自主の意志が不可欠である。世界の多くの国家が、外敵に低抗した人びとを今でも民族英雄として称<たた>えているのに対して、進んで敵に協力した人々を唾棄<だき>するのはそのためである。さもなくば、国家が存亡の危機に直面した時、ひたすら投降するしか道はなくなってしまう。権勢におもねることを蔑<さげす>み、気概と節義を尊ぶこと、これは民族の偉大さ、その風紀の貴賎に関わるものである。何人<なんぴと>たりとも、台湾が外敵の侵攻を受けた時に、人びとが我れ先に開城して歓迎する情況を見たくはないであろう。台湾社会の気風の衰落は、たやすく過去を忘れ、道に外れたやり方で富貴を得た人たちを羨ましがる傾向と関係しているのではないだろうか。
103



目安箱バナー