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日本語版への序文

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日本語版への序文


拙著『台湾歴史図説』(原題)の日本語版が日本で出版されるにあたって、わたしは昔のある出来事を思い出し、歴史の不思議さについて深い感慨を抱いている。

それは、二十数年前アメリカのイェール人学の博士課程に在籍していた時のことだった。わたしは日本からの留学生と知り合い、ある日おしゃべりをしていた。ふとわたしは自分の父母が日本語を話せること、そしてそれは台湾がかつて日本の植民地統治を受けたからであることを話した。その友人はとても驚き、そんなことは今まで知らなかったと応えた。そして申し訳なさそうに、「だったら、ご両親はきっと日本のことが嫌いでしょうね」と言った。そしてわたしに向かって丁重なお詫びの言葉を述べた。その時わたしはどうしたらよいかわからなかった。なぜなら、一方で、父母の世代に代わってその謝罪を受け入れ許すことは、子どもの世代のわたしにはできなかったし、他方で、父母の日本に対する感情は非常にアンビヴァレソト(両面的)なもので、「好き」とか「嫌い」といった単純なものではないことを知っていたからである。そしてその時、どう返事をしていいのかわからなかったこと以上に、わたしを驚かせたのは、日本の若者が、台湾がかつて日本の植民地であったことを知らなかったことである!

しかし、考えてみれば、その当時、日本の留学生と同じ年齢の合湾の若者は、「台湾はかつて50年間日本に統治されていた」ということを知ってはいても、その文字面以上のこと、つまりその「中身」について全く何も知らず、あの日本の友人となんら変わるところがなかったのである。結局、わたしたちはお互いに、戦前の歴史について「無知」だったのだ。

わたし自身、台湾の歴史を理解するために、随分遠回りをしなけれぱならなかった。わたしが1981年に台湾を離れてアメリカに留学したのは、日本統治期の台湾の歴史を研究するには、「戒厳令」統治下の台湾を離れなければならないと当時考えていたからだった。台湾の歴史を研究するためには、台湾を離れなければならない――非常に奇妙な考えではないだろうか? 戦後

台湾の歴史的状況を知らない日本の読者に、もしもわたしが「戦後50年間も台湾人は台湾の歴史を学ぶことができなかった」と言ったら、きっと困惑することであろう。さらにわたしが「台湾人が台湾の歴史を学ぶことができなかった歴史は100年にもおよぶ」と言ったなら、さらに困惑することだろう。そして、実のところ、台湾人のこの不思議な歴史的状況は、日本との関係に由来するのだ、などと言えぼ事情はさらに複雑なものになり、「謎」が深まるぼかりである。わたしの本は、もしかしたら読者のこうした「謎」にいくらか答えるものになるかもしれない。

中国語版『台湾歴史図説』が扱ったのは、先史時代から1945年8月15日までであった。2003年に韓国語版が新丘文化出版社より出版されたが、その際、訳者から台湾の戦後史を書き加えることを勧められた。しかし、多忙のため加筆することができず、大変残念に思った。そのため、日本語版の出版社である平凡社の編集者から台湾の戦後史を書き加えることを求められた時、これ以上このままにはできないと思い、時間を割いて「戦後篇」を書き加えた。

台湾の戦後史を書くことは容易ではない。まず資料と研究がきわめて不足している。『台湾歴史図説』を書き始めた1995年初め当時は、38年も続いた戒厳令(1949.5.20~1987.7.15)から解放されて7年半が経ったばかりであった。戦後の台湾で最も重要な事件である二・二八事件や30年の長きにわたった「白色テロ」時代について、ようやく公の場で議論したり研究できるようになったばかりであった。「台湾人日本兵」の団体も、そのころ公に活動を始め、社会的な発言をするようになった。こうした事情が、当時拙著の記述を1945年までで止めておかざるをえなかった主な理由である。10年後の今日、この方面の資料が大量に公開され、水準の高い研究も出てきた。

しかしながら現在台湾社会はまさに甚だしい分裂状態にある。この分裂の多くは、民族集団エスニックグループ(族群)によって、歴史経験、記憶、そして認識について大きな隔たりがあることに由来するものである。そのため、どのようにその歴史を書くかは、大きな挑戦なのである。台湾社会の分裂は、あらゆる問題にわたり、そして深刻である。大きくは国家のアイデンティティをめぐる問題から、小さなものは公的人物の言動に対する論評に至るまで、そのどれも両極化し鋭く対立しているが、その背景には深い歴史的な根源があり、歴史をさかのぽって理解しなけれぼならない。

新しく増補した「戦後篇」で、わたしは台湾の戦後史をいくつかの主題を逮んで叙述したが、それは現代の台湾社会の重要な問題を日本の読者に理解していただくためであった。

わたしは日本の読者と一つの見方を分かお合いたい。今日、東アジア世界は国と国との交流、人と人との交流がかつてよりも密接になり、もはや人びとはヨーロッパやアメリカにばかり目を向けたりはしない。しかし東アジア諸国の相互認識は、観光と大衆文化のレベルにとどまったままで、歴史の深みに欠けているように思われる。現在問題になるいくつかの事件は、東アジア各国の戦前の歴史的経験が、今も依然として作用していることを教えてくれる。西洋の哲学者ハイデッガーは、過去は決して後方にあるのではなく、われわれの前を歩んでいるのだと言っている(『存在と時間」第2篇第5章)。台湾人として、また二十数年歴史研究に従事してきて、わたしはこの言葉の深い意味をとてもよく理解できる。わたしの浅薄な日本史の知識からも、今日の日本は依然として六十数年前の歴史の影響を受けていることを常に感じるが、人びとはそのことをあまり意識していないのかもしれない。「終戦」は未だ本当には終結していないかのように見える。自分が、理解できない力に左右されながら、それを自覚することがないとすれば、そのことは、個人、社会あるいは国家において、むしろ大変危険なことではないだろうか。21世紀の初めは、戦争を経験した世代が、その経験を深く考え、語り伝えることのできる最後の機会であり、戦後の各世代が過去を正しく理解し、正負の遺産を直視することによって、冷静さと公正さを保ちながらも、積極的に東アジアの平和と共生の道を求めることのできる新しい時代である。

拙著(「戦後篇」を除く)は本来、この100年もの間、台湾の歴史を知らなかった台湾人のために書いたものである。しかし、その拙著がもしも、日本の読者が台湾と台湾の歴史における日本との葛藤の過去を理解する一助となるならば、訳者と編集者の苦労も報われるだろう。そして著者であるわたしにとって、それは喜びであると同時に、日本と台湾との間に「知」の交流を実現することのようにも思えるのである。

周 婉窈(しゅう・えんよう/Chou Wan-yao)
2006年、年の瀬に、台湾大学文学院第二研究室にて


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