15年戦争資料 @wiki

rabe9月22日

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pipopipo555jp

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九月二十二日


爆撃終了を告げる長いサイレンが鳴ったあと、車で市内をまわってみる。日本軍がまっさきにねらったのは中国国民党の支部だ。ここには中央放送局のセンターとスタジオがあるからだ。

本日をもって私の戦争日記の始まりとする。

十九、二十日と続いたすさまじい爆撃の間、私は自分で作った防空壕に中国人たちと一緒に潜んでいた。爆弾が落ちても大丈夫というわけではないが、榴散(りゅうさん)弾の炎や散弾からは守られる。庭には縦横六×三メートルの大きさの帆が広げてある。これにみなでハーケンクロイツの旗を描いたのだ(写真5)。

政府が考え出した合図は実によくできている。空襲のおよそ二十分から三十分前、けたたましい警報が鳴る。ついで幾分短い警報。これで通りから通行人が排除される。交通もすべて停止。歩行者は通りの脇に作られた防空壕にもぐりこむ、という寸法だ。


建物の後ろ、市の外壁のローム層に、中国国民党をねらった最後の爆弾のあとが見える。

そばの防空壕に直撃弾が落ち、八人死んだ。なかから顔を出してあたりを見まわしていた婦人の頭は吹き飛ばされ、どこにも見あたらない。ただひとり、十歳くらいの少女だけが奇跡的に無事だった。その子は、人々の集まっている所へ行っては、「どうして助かったのか、自分でもわからない。とってもこわかった」とくりかえしていた。広場は兵士によって封鎖された。ちょうど最後の棺の前で紙銭(紙幣を模して作ったもの。棺の前で燃やして死者を弔った)が燃やされたところだった。


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