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海上挺進隊出撃後の島民は?

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「海上挺進隊出撃後の島民は?」


昭和20年3月20日頃、赤松隊の兵器軍曹が渡嘉敷の少年たちに手榴弾2づつ配って、1個は敵兵に投げ1個で自決せよといったという富山真順証言は、いまだに軍命令否定論者の執拗な攻撃対象であるようです。

「狼魔人日記」2009-04-20 06:59:29 は、「ハーバービューホテルの決闘!太田元知事vs上原正稔」という何かしら愉快そうなエピソード紹介のついでに、大阪地裁、大阪高裁、2度の裁判で木っ端微塵となった「原告側口頭弁論」を蒸し返しています。もしかすると、こう何度も孫引かれる御当人である上原正稔氏には大迷惑かもしれませんね。きっとクシャミが止まらないことでしょう。

「沖縄集団自決冤罪訴訟」の原告側の準備書面に出てくる上原氏に関連するくだりを抜粋すると次の通りである。
さて、今回新たに提出した重要な証拠のなかに、沖縄出身の作家上原正稔氏が記述した『沖縄戦ショウダウン』があります。上原氏は、琉球新報に「沖縄戦ショウダウン」を連載中、当時の集団自決の生き残りである金城武徳氏らを調査した結果、渡嘉敷村民の自決について、「国のために死ぬのだ。だれも疑問はなかった。村長が立ち上がり音頭をとり、『天皇陛下万歳』と皆、両手を上げて斉唱した」ことを確認しています。

(2)続いて、被告らが依拠する富山証言の信用性を弾劾しています。被告らは富山証言をもとに米軍が上陸する直前の昭和20年3月20日、手榴弾を村民に配ったといいます。富山証言は第3次家永訴訟において、沖縄国際大学の安仁屋政昭氏が公に持ち出したものでありますが、日本軍の第32軍も渡嘉敷島の第3戦隊である赤松部隊も米軍が慶良間諸島を最初に攻撃することはないと考えていました。だから地上戦も予定していませんでした。安仁屋氏もそのことを明確に認めています。3月25日8時海上に敵機動部隊船影を確認するまで米軍の渡嘉敷島への上陸を全く予想していなかった赤松部隊が3月20日に米軍の上陸した場合の戦闘に備えて村の少年や役場職員に手榴弾を配布することはありえません。富山証言はデッチアゲそのものです。

(略)

引用はこれ位にしておきましょう。


「富山証言はデッチアゲそのものです。」
と下卑た言葉を、果たして上原正稔氏自身が言ったかどうかは知りません。しかし、原告弁護団徳永信一氏や「狼魔人」氏にかかれば、故人を貶めるこのような下卑た言葉になってしまうのでしょう。

狼魔人氏の本文を読みたい方はこちら
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/14c3d8ab3beadbaf5f30165ab26d5190

以下は、この文章に私がつけたレスです。


上原氏と秦氏 (ni0615)
2009-04-20 07:36:59
狼魔人さん
おはようございます
日本軍の第32軍も渡嘉敷島の第3戦隊である赤松部隊も米軍が慶良間諸島を最初に攻撃することはないと考えていました。だから地上戦も予定していませんでした。安仁屋氏もそのことを明確に認めています。
これは上原正稔氏が言ってたことなのですか? 秦郁彦氏がしりきに強調するから、「軍事史研究家」のクセに頓珍漢なことをいうものだな、と常々思っていたのです。

昭和20年3月20日前後といえば「敵上陸間近」。島民動員による舟艇庫の建設もようやく終わったときだと赤松手記は書いていますね。とき来たらば「海上挺進隊」は出撃するのです、それも間近なのです。

出撃すれば、留守となった「海上挺進隊」基地が敵米軍に攻撃されるのは必然です。島民は戦うか自決するか、2つに一つなのです。

仮に、「本島上陸の前に敵の慶良間上陸はないだろう」と軍当局や赤松らが思っていたとしても、舟艇出撃後のために島民に手榴弾を配るのは当然です。「もうお前たちの庇護は出来ないよ! これを渡しとくから出撃のあとは任せるぞ!」というメッセージでもあったでしょう。

だから地上戦も予定していませんでした。
確かに、誰も出撃しないで地上戦を行うことは誰も予定していませんでした。それは事実でしょう。ですが、どうしてそれが、手榴弾を配らなかったことになるのでしょうか?

「挺進隊出撃後は米軍に逆らわず降伏せよ」と軍が住民に命令していたという事実があれば、条件付で納得することも出来ますが。

上原正稔氏も秦郁彦氏も、狼魔人さんが伝えてくださるとおりなら、とんだ詐話師ということになります。


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