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JANJAN:大田昌秀・元沖縄県知事が自ら調べた沖縄戦の証言を聞く

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大田昌秀・元沖縄県知事が自ら調べた沖縄戦の証言を聞く

渡辺容子2009/02/20


 元沖縄県知事の大田昌秀さんが昨年夏、東京・杉並で沖縄戦や沖縄の歴史を語ってくれました。あれから時間は大分、経ってしまいましたが、貴重なお話だったので、その概要を紹介します。幸い、本文は大田さんご自身が目を通し、筆を入れてくださいました。


 東京・杉並で「〈戦争体験者100人の声〉の会」が昨年夏、元・沖縄県知事の大田昌秀さんの証言を聞く会を開きました。大田さんは学生時代に高円寺と阿佐谷に住んだことがあり、杉並が大変懐かしいとおっしゃっていました。あれから半年が経ってしまいましたが、大田さんにしか聞けない貴重なお話なので、以下、報告します。内容を大田さんに確認したところ、加筆してくださいました。


写真:出席者の質問に答える大田昌秀氏


《アメリカ公文書館に通い続けて》


 沖縄戦というものは、調べれば調べるほど難しくなってくるものです。沖縄戦の全容を把握するためには、沖縄の住民の証言だけでなく、米軍や旧日本軍などの記録を丹念に集め、バランスよく分析した上で総合的に見ていかなければならないと考えています。そういう考えから、私は20年近くもアメリカのワシントンにある国立公文書館に通い、米軍の資料や戦前の日本軍の資料を集めてきました。この5月も、大江・岩波裁判のために何か良い資料がないかと、調査をしてきました。

 その際、まず、沖縄戦の時、座間味村の慶留間島という人口100名そこそこの島で、53名の住民が「集団自決(強制的集団死)」した件に関連して、捕虜にした住民の話を記録した米軍の資料が見つかりました。そこには、島にいた日本軍の一将校が、住民に「集団自決」を、つまり家族や身近な者同士が互いに殺し合うことを、「order」ではなく「persuade」した、と書いてありました。

 一般的に「命令」は英語で「order」と言いますが、「persuade」は「説得」ですから、「命令」より強制力が弱いように思えます。しかし、家族を殺せと「命令」されても聞かない人もいるでしょうが、米軍が上陸したら女性は犯された上に素っ裸にされ、戦車の前にくくりつけられるとか、さんざんそういうことを言って脅かされ、殺せと「説得」されたわけですから、そういうことを聞かされる住民としては、「persuade」の方がもっと強く感じられたのではないでしょうか。

 また、沖縄では毎年6月23日に慰霊祭を行っています。6月23日というのは沖縄守備軍の牛島満司令官と長勇参謀長が自決した日、つまり旧日本軍の組織的な抵抗が終わった日ということですが、その日付に私は疑問を持っています。アメリカの公文書館で沖縄戦の写真をたくさん見ていますが、そこに写っている牛島・長の墓標に「6月22日」と書かれているからです。そして、今回、2人の死亡期日を調べたところ、6月16日に自決したというもの、21日というもの、22日というもの、23日というものの、計4種類の記録が出てきました。

 そして、量的には22日とする説が圧倒的に多いのです。ちなみに牛島家では、6月22日を命日にしているとのことです。また、沖縄県の慰霊祭も、1960年代初期までは6月22日に行われていました。ですから、私は6月23日ではなく、22日が正しいのではないかと考えています。

 なお、牛島司令官と長参謀長の自決のようすについても、多くの日本の新聞や単行本では、「武士道にのっとって見事に切腹した」と書いてあります。しかも剣道5段の坂口副官が介錯し、両者の首を持って逃げようとした時に米軍の攻撃を受け、首もろとも吹っ飛んだ、ということになっています。しかし、私が入手した両首脳の最後の場面の写真を見ますと、首もちゃんとついていますし、腹を切った形跡もありません。一方で、事前に青酸カリを注射したという記録が見付かっているのです。


《若泉敬とキッシンジャーとの核密約》


 話は飛びますが、沖縄が復帰する前に京都産業大学の若泉敬教授が、佐藤栄作総理の密使として、「吉田」という偽名を使って当時のキッシンジャー米国務長官と核密約を結んだことが明らかになっています。どういう密約かと言いますと、日本には非核3原則がありますが、返還後も沖縄にはいつでも核兵器を持ちこめるようにする、というものです。

 若泉敬さんは、1994年に『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』という本を書いていますが、その中で、沖縄を早く復帰させるためには米側の核兵器の持ち込み要求を飲み込むしかない。これを容認することで復帰を早められるなら、沖縄県民にとってもその方がいいだろう、と考えたからだ、と述懐しています。そのような内容の本を、死ぬ前に書いたのです。

 そして、同教授は、沖縄県民と当時知事をしていた私宛に、遺書を遺していました。それが一昨年、公開されたのですが、そこには、核兵器を持ち込んででも沖縄復帰を早めた方がいい、ということで、あの時は密約を交わしたが、その後、政府は基地問題にまじめに取り組まず、依然として沖縄は苦しんでいる。県民に対し、大変、申し訳ないことをした、と自責の念にかられ、結果責任を取り、武士道にのっとって摩文仁の国立墓苑前で自裁する、ということが書いてありました。

 結局、自決はせず、病気で亡くなりましたが、若泉教授は亡くなる前の数年間、身分を隠し、毎年6月にはひそかに沖縄を訪れて、慰霊碑に手を合わせていたとのことです。一方、密約を指示した佐藤総理は「ノーベル平和賞」を貰ったのですからね。皮肉なもんですよ。


《鉄血勤皇隊》


 さて、「集団自決(強制集団死)」に関する議論では、「軍の命令がなかった」ということが問題になっています。しかし、私が10代の時、「鉄血勤皇隊」といういかめしい名称の学徒隊が結成され、私もその中の「千早隊」という情報宣伝隊に配属されました。そして、1丁の銃と120発の銃弾、2個の手りゅう弾を持って戦場に出されました。

 当時、首里城の地下に沖縄守備軍司令部があったのですが、私たちはそこの情報部からニュースを受け取って、各地の壕に潜んでいる住民や将兵に伝える任務を負っていたのです。私のクラスメートは125名いましたが、生き残ったのは40名足らずでした。戦争から生き残った者も、体の中には砲弾の破片が入っている者もいて、戦後、次々と死んでいき、今ではほとんど残っていません。

 ともあれ、自由主義史観研究会や「新しい歴史教科書をつくる会」の人たちが書いたものを読むと、軍隊が民間人に対して直接、命令を下すことは絶対にありえない、と書かれています。しかし、そんなことはありません。たとえば、私たちは「鉄血勤皇隊」に動員された時、半袖半ズボンの服に軍帽を被せられ、巻き脚絆もなく、戦場に出されたのですが、そのときは一片の命令文もありません。守備軍司令部から派遣された駒場という一将校の、口頭による命令で戦場に駆り出されたのです。

 また、各戦闘部隊には日々の情勢や命令などを記録する「陣中日誌」というものがありますが、例外の場合は別として、それには「命令の下達は、口頭をもってすべし」、やむを得ない時には文書によってなせ、と書かれているのが少なくないのです。命令は口頭で下達する、というのが通常のやり方でした。そのため、私は、文書による命令があったかどうかということは、それほど大事とは思っていません。

 しかし、大江・岩波裁判が起こり、去る5月にアメリカに調査に行った時、私が所属した「千早隊」の隊長であった益永薫大尉に、牛島司令官が直接、訓令した墨書の命令文書が見つかりました。牛島司令官のお孫さんが署名を確かめ、サインの仕方から見て、直筆に間違いないと確認してくれました。

 ところで、この裁判で問題になっている慶良間諸島における住民の「集団自決(強制的集団死)」に関連して、沖縄守備軍から、米軍が上陸した時は大事な文書は焼き払えという命令が出され、焼き払ったという記録があります。今後、「集団自決」の命令文も、出てこないとは限りません。私は知事になってすぐにアメリカの公文書館に人を送り、9年にわたって沖縄戦関連の資料を集めさせ、それを県立公文書館に送らせました。そこには現在、多くの貴重な資料が収蔵されているからです。さらなる調査が必要です。


《なぜ沖縄だけが日本から切り離されたのか》


 話は変わりますが、皆さんは沖縄が日本から切り離され、米軍政下に置かれた理由について、「沖縄戦で負けたからだ」とお考えの方が多いと思います。本土の国際政治学者などが書いた論文や本などにも、敗戦の結果、沖縄が日本から分離されたと書いてあります。

 しかし、アメリカの国防総省や国務省などの公開された機密文書を調べてみますと、それは事実と違います。米軍が沖縄を日本から切り離すことを考えたのは、1941年に太平洋戦争が始まって半年もたたないうちのことです。ちなみに、1943年の「カイロ宣言」には、日本が「暴力及び貪欲によって略取したすべての地域」から、日本の主権は排除される、という趣旨のことが書かれています。

 もっとも、日本側には、沖縄は暴力で取った地域ではない、と言っている人が多いのですが、米・英・中などの政府高官や研究者は、そうは思っていません。明治政府は、明治12年の沖縄の廃藩置県のさい、400名の軍隊と160名の警官を送り込んで、軍事力に物を言わせていわゆる「琉球処分」を断行したのです。

 その前には1609年の薩摩の琉球侵略がありました。その時も、3,000名の軍隊で攻めてきたわけですから、欧米の学者や中国の学者などが沖縄を、日本が「暴力及び貪欲で略取した」と見るのも無理からぬことなのです。

 また、皆さんは、「沖縄だけが切り離されたのも当然だ」とお思いかもしれません。しかし、戦争に負けたのは沖縄だけではありません。なぜ鹿児島や宮崎、その他の府県が切り離されずに沖縄だけが切り離されたのか、沖縄からすると、いかにもおかしいと思われます。しかも、アメリカは、北緯30度以南の南西諸島における日本の主権を丸ごと排除し、占領下に置くと宣言したのです。そのさい、鹿児島県管轄下の奄美群島も、沖縄と一緒に切り離しました。

 ちなみに、琉球王国時代は奄美も琉球の一部でしたが、そのために、北緯30度以南の南西諸島(奄美も含め)は純粋の日本領土ではない、と見ていたのです。それは当時の日本軍も同様で、そのことは、北緯30度以北を天皇の在します「皇土」と称し、そこの防衛に当たる軍隊を「本土防衛軍」と称していた事実からも判明します。

 そして、アメリカ政府の公文書を調べますと、沖縄を日本とは別の領域だと判断し、切り離すことにした理由の一つとして、廃藩置県に先立つ明治10年頃、日本が沖縄を強制的に併合したことに対し、中国の外務省が抗議したことが主要因になっていたことがわかります。

 その抗議の内容は、「日本が沖縄を強制的に併合すると、次は台湾を取り、朝鮮も取って中国に侵略するだろう」と予言するものでした。後に、その予言通りになってしまったために、つまり、沖縄が日本の中国・アジア侵略の踏み台になったために、日本が再び沖縄を踏み台にしてアジア侵略をなすことを未然に防止するため、一種の担保措置として沖縄を日本から切り離し、日米の共同管理下に置くと共に非軍事化して、将来は国際機関に委ねて25年ごとに監視させ、日本のアジア侵略を恒久的に防ごうと考えたわけです。

 では、ここで問題になっている沖縄の廃藩置県とは、一体、どんなものだったかというと、本土の他府県で行われた廃藩置県とは、基本的な目的が違っていました。スタンフォード大学のジョージ・H・カーの『沖縄―一島嶼民族の歴史』(『Okinawa : The History of An Island People』)という本には、本土の廃藩置県は同一民族・同一言語・同一文化を前提として近代的な「国民国家」を形成するために行われたが、沖縄の場合、そうではなく、あくまで軍事戦略的なもの、つまり日本の南門に軍隊を置く土地を得るためのものだったというのです。つまり、南西諸島の人々を、日本人と同一民族とは見ていなかったというわけです。

 ともあれ、廃藩置県の交渉の過程で、明治政府は、日本との一体化を図るため、いろんなことを沖縄に指示しました。その中には、中国との進貢貿易関係を断ち切れというのもありました。沖縄は、1372年から中国と密接な交流があり、同93年からは中国に留学生を送ったりしていたので、琉球王府はこの指示を断りました。が、政府は軍事力をバックに反対の声を押し切りました。もう一つ、沖縄が最後まで反対して抵抗したことは、沖縄に日本の軍隊を置くことでした。しかし、政府は、どこに軍隊を置くかは政府が勝手に決めることだと、強引に反対を押さえ付けて軍隊を置きました。それが沖縄戦の不幸を招く一つの遠因にもなったのです。

 その時、なぜ沖縄の人たちは、軍隊を置くことに強く反対したのでしょうか。沖縄では、15世紀の終わりから16世紀の初めにかけて、尚真王という王様がすべての人に対して武器の携帯を禁止しました。その後、薩摩がさらに武器の携帯を厳しく禁止した結果、沖縄は文字通り非武の島となりました。そして500年以上も、武器のない「守礼之邦」として海外にまで知られたのです。人々は、争いごとを暴力によってではなく、話し合いで解決してきましたし、素手で身を守る空手が沖縄で発達したのも、そのためだというわけです。だから軍隊を置けば、逆に危険を招く結果になる、と反対したのです。

 しかし、明治政府は脅しをかけ、熊本の第6師団の分遣隊を常駐させました。それも農民の肥沃な土地を強引に取り上げ、兵舎や演習場などを設置して、軍事基地を作ったのです。これが沖縄の軍事基地化の始まりでした。

 戦後沖縄の最大の解決困難な問題は、土地問題です。沖縄の7割から8割は農家ですが、農家から土地を取り上げたら、農民は食べていけません。1953年ごろまで、沖縄住民の米軍に対する態度はとても友好的でした。というのは、沖縄戦の渦中で、米兵に命を助けられた人がたくさんいただけでなく、敗戦後の一時期、衣食住のすべてを米軍が無償で給与していたからです。ところが、1950年に朝鮮戦争が起こると、米軍は基地を拡充強化するために、強制的に農民の土地を取り上げました。

 そのため、食べて行けなくなった農民を、アメリカ政府は、日本政府と話し合い、南米のボリビアに500名規模の集団で移民させる始末でした。こうした米軍の、銃剣を突きつけての土地の強制収用が、住民の米軍に対する好意や友好的態度を一変させ、急激に悪化させました。


《沖縄の深刻な基地問題》


 次に申し上げたいことがあります。本土では、しばしば、しかも少なからぬ者が、沖縄に米軍基地がなければ沖縄の経済は破綻すると言っています。それは事実に反しており、彼らは誤解していると言わねばなりません。たしかに1960年代前半頃までは、基地収入は、沖縄が外部から得る収入の約60%を占めていました。ところが、今では、観光産業から得られる収入が大幅に増えていて、基地収入は、外部から得る収入のわずか5%ほどに激減しているのです。しかも基地を民間が利用すれば、雇用も確実に10倍は増え、所得も場所によっては100倍から200倍も増えるメリットがあるのです。

 このことは、現在、「新都心」と呼ばれている那覇市の事例からも明らかです。にもかかわらず、戦後60余年経った現在でも、沖縄本島の20%が軍事基地(在日米軍専用施設の75%)に取られているだけでなく、沖縄の空域の40%、那覇港をはじめ29か所の水域が米軍の管理下にあるわけです。だから沖縄の人たちは、自分の土地も使えないし海も使えない、自分の空も自由に使えない状態に置かれています。

 私がハワイ大学にいた時、徴兵を逃れてハワイに移住して平和運動をやっていた沖縄出身の高齢の一移民が、未来の沖縄は、自衛隊と米軍の共同管理のもとにおかれるだろうと予言していました。遺憾ながら、今まさに、その通りに近い状態になっています。

 私は参議院議員を6年間務めましたが、日本の民主化は未だし、と痛感しています。議会制民主主義は多数決の原理で成り立っていますから、少数会派が何を言ってもダメで、議会の在り方にほとほと失望しました。沖縄から国会議員は、衆・参合わせて11名出ていますが、半数は政府寄りです。各委員会を取り仕切る理事会で、少数会派はオブザーバー理事とされ、ろくに発言もできません。ちなみに、各種委員会で何を議論するかを決める場合に、その前に開かれる理事懇談会では全会一致制度をとっています。

 ですから、たとえばイラクへの自衛隊の派兵を中止し、即座に撤退させる陳情が、一般市民から多数の署名を添えて出されても、一度、理事懇談会で否決されると、正式の委員会にすらかけられずに潰されるのが常でした。

 このように、すべては多数決で決められるので、沖縄の基地問題は、それがいかに深刻でも、多数を占める本土出身議員が真に自らの問題として解決に努めないかぎり、皮肉にも民主主義の名において、永久に解決できない構造となっています。この点、ぜひとも皆様お一人ひとりの御一考をお願いしたいと思います。


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