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「日本人48人の証言」新旧版の比較

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聞き書き「南京事件」

日本人48人の証言

奥付

聞き書 南京事件(1987年8月15日初版、阿羅健一、図書出版社)

「南京事件」日本人48人の証言(2002年1月1日初版第1刷、2005年6月20日第3刷、小学館文庫)
目次

目次

1、上海派遣軍参謀・大西一大尉の証言

2、松井軍司令官付・岡田尚氏の証言

3、上海派遣軍特務部員・岡田酉次少佐の証言

4、束京日々新聞・金沢喜雄カメラマンの証言

5、報知新聞・二村次郎カメラマンの証言

6、大阪毎日新聞・五島広作記者の証言

7、第十軍参謀・吉永朴少佐の証言

8、第十軍参謀・谷田勇大佐の証言

9、第十軍参謀・金子倫介大尉の証言

10、東京日々新聞・鈴木二郎記者の証言

11、東京日々新聞・佐藤振寿カメラマンの証言

12、同盟通信・新井正義記者の証言

13、同盟通信映画部・浅井達三カメラマンの証言

14、東京朝目新聞・足立和雄記者の証言

15、東京朝目新聞上海支局次長・橋本登美三郎氏の証言

16、報知新聞・田口利介記者の証言

17、都新聞・小池秋羊記者の証言

18、読売新聞撮影技師・樋口哲雄氏の証言

19、同盟通信無電技師・細波孝氏の証言

20、砲艦勢多艦長・寺崎隆治少佐の証言

21、福岡日々々新聞・三苫幹之介記者の証言

22、海軍従軍絵画通信員・住谷磐根氏の証言

23、砲艦比良艦長・土井申二中佐の証言

24、外務省情報部特派カメラマン・渡辺義雄氏の証言

25、大阪朝日新聞上海支局員・山本治氏の証言

26、読売新聞・森博カメラマンの証言

27、上海海軍武官府報道担当・重村実大尉の証言

28、同盟通信上海支社長・松本重治氏の証言

29、福島民報・箭内正五郎記者の証言

30、第二連合航空隊参謀・源田実少佐の証言

31、企両院事務官・岡田芳政氏の証言

32、領事官補・岩井英一氏の証言

33、陸軍報道班員・小柳次一氏の証言

34、領事官補・粕谷孝夫氏の証言

35.野砲兵第二十二連隊長・三国直福大佐の証言

補遺
あとがき

目次

推薦のことば櫻井よしこ
文庫化にあたって

【第一章】
ジャーナリストの見た南京

Ⅰ、朝日新聞
(1)大阪朝日新聞・山本治上海支局員--25
(2)東京朝日新聞・足立和雄記者--14
(3)東京朝日新聞・橋本登美三郎上海支局次長--15
Ⅱ、毎日新聞
(4)東京日々新聞・金沢喜雄カメラマン--4
(5)東京日々新聞・佐藤振寿カメラマン--11
(6)大阪毎日新聞・五島広作記者--6
(7)東京日々新聞・鈴木二郎記者--10
Ⅲ、読売新聞
(8)報知新聞・二村次郎カメラマン--5
(9)報知新聞・田口利介記者--16
(10)読売新聞・樋口哲雄撮影技師--18
(11)読売新聞・森博カメラマン--26
Ⅳ、同盟通信
(12)同盟通信・新井正義記者--12
(13)同盟通信映画部・浅井達三カメラマン--13
(14)同盟通信・細波孝無電技師--19

Ⅴ、その他
(15)新愛知新聞・南正義記者--64h
(16)福岡日々新聞・三苫幹之介記者--21
(17)都新聞・小池秋羊記者--17
(18)福島民報・箭内正五郎記者--29

【第二章】
軍人の見た南京
Ⅰ、陸軍
(19)第十軍参謀・吉永朴少佐--7
(20)上海派遣軍特務部員・岡田酉次少佐--3
(21)上海派遣軍参謀・大西一大尉--1
(22)松井軍司令官付・岡田尚氏--2
(23)第十軍参謀・谷田勇大佐--8
(24)第十軍参謀・金子倫介大尉--9
(25)企画院事務官・岡田芳政氏--31
(26)参謀本部庶務課長・諌山春樹大佐--48h
(27)陸軍省軍務局軍事課編制班・大槻章少佐--Xnew
(28)野砲兵第二十二連隊長・三國直福大佐--35
Ⅱ、海軍
(29)砲艦勢多艦長・寺崎隆治少佐--20
(30)砲艦比良艦長・土井申二中佐--23
(31)上海海軍武官府報道担当・重村実大尉--27
(32)第二連合航空隊参謀・源田実少佐--30

【第三章】
画家・写真家の見た南京
(33)海軍従軍絵画通信員・住谷磐根氏--22
(34)外務省情報部特派カメラマン・渡辺義雄氏--24
(35)陸軍報道班員・小柳次一氏--33

【第四章】
外交官の見た南京
(36)領事官補・岩井英一氏--32
(37)領事官補・粕谷孝夫氏--34

補遺
あとがき

補遺

補遺

 生存者のなかで、約半数の方とは会うことができなかった。ほとんどの人が病気であったからである。それでも、多くの方は手紙なり葉書なりで、南京の様子を知らせて下さった。数年間にわたって、度々手紙のやりとりをした方もいる。会えなかった人と、その人たちの見た南京の様子は、次のとおりである。

補遺

 生存者のなかで、約半数の方とは会うことができなかった。ほとんどの人が病気であったからである。それでも、多くの方は手紙なり葉書なりで、南京の様子を知らせて下さった。数年問にわたって、度々手紙のやりとりをした方もいる。会えなかった人と、その人たちの見た南京の様子は、次の通りである。

補遺

36 上海派遣軍参謀・松田千秋大佐

 松田氏は第三艦隊の参謀のまま上海派遣軍の参謀を兼ね陸海軍の作戦連絡にあたっていた。南京の入城式には馬に乗って参加し、二月末まで南京にいた。
南京から戻った後、松田氏は戦艦大和の艦長などをつとめた。現在は九十歳を越えているが、元気である。
 しかし、松田氏から話を聞くことはできなかった。松田氏は、敗戦の不快を忘れるため戦後は仕事に専念し、開戦後のことについては問われるままに答えているが、大東亜戦争以前のことはほとんど記憶に残っていないので、話すものはない、とのことであったからである。

37 上海派遣軍報道班長・米花宇太吉少佐

 上海にあった陸軍武官室は上海派遣軍の上陸後、特務部となり、上海派遣軍の指揮下に入った。米花少佐は特務部の報道班で従軍記者の指導にあたっており、南京には陥落後度々行っている。火野葦平の『麦と兵隊』にも出て来る人である。
 昭和五十九年インタビューを申し込んだが、病院通いをしており、五十年前のことで記憶がうすらいでいる、ということでお目にかかることはできなかった。

38 上海派遣軍写頁班長・一色達夫氏

 一色氏は満鉄の総裁室弘報課から上海事務所に出向を命じられ、そこでさらに陸軍武官室出向になった。上海派遣軍の上陸と共に上海派遣軍写真班長となり、南京攻略戦にも従軍した。その時、南京攻略戦から入場までの写真などの記録を作っている。
 しかし、入院中のため、会って詳しい話を聞くことはできなかった。

39 南京特務機関・小島友宇氏

 小島氏は満鉄から上海の軍に出向しており、南京陥落後、南京に入り、南京特務機関員として民衆情報.宣撫工作に従事した。昭和十三年二月、特務機関の中に南京宣撫班ができると、そこの班員になった。
 現在、入退院を繰り返し、脳出血の後遺症もあるという家族の方の話で、直接話を聞くことはできなかった。

40 南京特務機関・馬淵誠剛氏

 馬淵氏は満鉄から軍に出向し、十二月十三日南京に入った。そのまま南京に残り、建設・経済工作を中心に特務機関の仕事をした。
 インタピューを申込むと、気が進みませんのでお断りします、ご了承下さい、ということであった。

 

補遺

41 中支那方面軍参謀・吉川猛少佐

 中支那方面軍には六人の参謀がいたが、一番若かった吉川氏だけが存命中である。インタビューを申込んだ時、入退院を繰り返しており、会って話を聞くことはできなかった。しかし、質問に対しては手紙でていねいに答えて下さった。病気で中断することもあったが、三年ほどの間に八度の手紙のやりとりがあり、そのなかで次の様に答えてくれた。
「一犬瞳を吠ゆれば万犬実を何とやら、一度世に宣伝せられし事はこれを反論し世に正しく了解を得ることは難事中の難、第一印象の刻みは人間感情の心の奥に深く食い入るものです。
 昭和十二年十二月に中支那方面軍司令部を蘇州に推進した時、庶務参謀の小生と後方主任の二宮参謀が松井大将に呼びつけられ、屍体の始末が悪い、日本軍のだけ整理し敵軍のは放置とは何事ぞと小っぴどく叱られた事があります。松丼閣下はそういう御方でした」

(38)中支那方面軍参謀・吉川猛少佐

 中支那方面軍には六人の参謀がいたが、一番若かった吉川猛氏だけが存命中である。インタビューを申込んだ時、入退院を繰り返しており、会って話を聞くことはできなかった。しかし、質問に対しては手紙で丁寧に答えて下さった。病気で中断することもあったが、三年ほどの問に八度の手紙のやりとりがあり、そのなかで次のように答えてくれた。
 「一犬嘘を吠ゆれば万犬実を何とやら、一度世に宣伝せられし事はこれを反論し世に正しく、了解を得ることは難事中の難、第一印象の刻みは人間感情の心の奥に深く食い入るものです。
 昭和十二年十二月に中支那方面軍を蘇州に推進した時、庶務参謀の小生と後方主任の二宮参謀が松井大将に呼びつけられ、屍体の始末が悪い、日本軍のだけ整理し敵軍のは放置とは何事ぞとこっぴどく叱られた事があります。松井閣下はそういうお方でした。」

補遺

42 第十軍参謀・寺田雅雄中佐

 寺田中佐は第十軍で作戦主任参謀をつとめ、のちノモンハン事件時の関東軍作戦課長として知られている。
 インタビューを申込んだ時、九十歳を越えており、お目にかかることはできなかったが、手紙で何度か答えて下さった。主な内容は次のとおりである。
 「上海方面の作戦が膠着してどうにも進展しないため、大本営が第十軍の杭州湾上陸を企画した。
 第十軍は上海方面のようになっては大変だつたので作戦本位であつた。第十軍は上陸するとまっしぐらに前進するというやり方をとったため、最初から後方からの補給を受けることは不可能だとわかつていた。
 これがため、糧は現地に求めることにした。事実、第十軍の作戦が猛烈果敢であったことからこそ、上海方面の敵軍が一挙に撤退したのです。
 軍紀に関していわれているとすれば糧を現地に求めたため、悪いといわれたのではないでしようか。第十軍の軍紀がそれほど悪かったとは思わない。
 当時、南京事件を聞いたことはありません」
 寺田氏は福井県小浜市にお住いで、福井に行つた時、思いきつて電話をした。会えるものならお会いしたいと思ったからである。しかしやはり病臥中で会うことはできなかった。

(39)第十軍参謀・寺田雅雄中佐

 寺田雅雄中佐は第十軍で作戦主任参謀をつとめ、のちノモンハン事件時の関東軍作戦課長として知られている。
 インタビューを中込んだ時、九十歳を超えており、お目にかかることはできなかったが、手紙で何度か答えて下さった。主な内容は次のとおりである。
 「上海方面の作戦が膠着してどうにも進展しないため、大本営が第十軍の杭州湾上陸を企画した。第十軍は上海方面のようになっては大変だったので作戦本位であった。第十軍は上陸するとまっしぐらに前進するというやり方をとったため、最初から後方からの補給を受けることは不可能だとわかっていた。
 これがため、糧は現地に求めることにした。事実、第十軍の作戦が猛烈果敢であったことからこそ、上海方面の敵軍が一挙に撤退したのです。
 軍紀に関して言われているとすれば糧を現地に求めたため、悪いといわれたのではないでしょうか。第十軍の軍紀がそれほど悪かったとは思わない。
 当時、南京事件を聞いたことはありません」
 寺田氏は福井県小浜市にお住いで、福井に行った時、思い切って電話した。会えるものならお会いしたいと思ったからである。しかしやはり病臥中で会うことはできなかった。

補遺

43 第十軍参謀・仙頭俊三大尉

 第十軍には国崎支隊(第五師団歩兵第九旅団基幹)がいた。国崎支隊は蕪湖付近で揚子江を渡り浦口付近に進出して南京付近の敵の退路を遮断することになった。第十軍の作戦参謀であった仙頭氏は国崎支隊と行動を共にした。
 仙頭氏は病気のためお目にかかることはできなかったが、手紙での問い合わせには答えて下さり、また、当時のメモもみせてくれた。当時の様子は次の様に書いて下さった。
12月12日、浦口(揚子江をはさんで下関の対岸)に進出した時、浦口には味方の十五榴が盛んに落下していました。
 揚子江両岸に浮遊した敵の死体は目撃したところ数百でしょうか、中流にはあまり死体は認めませんでした。下関の岸壁が鮮血に染っていたのを目撃し、かつ死体は手足をしばられていたようでした。
 虐殺ということは当時は全く知りませんでした。軍紀に関して国崎支隊に関する限り悪かったことはありませんL

(40)第十軍参謀・仙頭俊三大尉

 第十軍には国崎支隊(第五師団歩兵第九旅団基幹)がいた。国崎支隊は蕪湖付近で揚子江を渡り浦口付近に進出して南京付近の敵の退路を遮断することになった。第十軍の作戦参謀であった仙頭氏は国崎支隊と行動を共にした。
 仙頭俊三氏は、病気のためお目にかかることはできなかったが、手紙での問い合わせには答えて下さり、また、当時のメモも見せてくれた。当時の様子は次のように書いて下さった。
 「十二月十二日、浦口(揚子江をはさんで下関の対岸)に進出した時、浦口には味方の十五榴(十五サンチ榴弾砲)が盛んに落下していました。揚子江両岸に浮遊した敵の死体は目撃したところ数百でしょうか、中流にはあまり死体は認めませんでした。下関の岸壁が鮮血に染っていたのを目撃し、かつ死体は手足をしばられていたようでした。
 虐殺ということは当時は全く知りませんでした。軍紀に関して国崎支隊に関する限り悪かったことはありません」

補遺

44 第十軍参謀・山崎正男少佐

 山崎氏は第十軍の作戦参謀であったが、インタビューを申込むと、南京事件というものは当時聞いたことがないので答えようもないということであった。山崎氏も健康を害ねているようであった。

45 第十軍参謀・清水武男大尉

 清水氏は第十軍で情報担当参謀をつとめていた方であるが、病気療養中という家族の方の返事で話を聞くことはできなかった。

 

補遺

46 侍従武官・後藤光蔵中佐

 後藤中佐は待従武官として第十軍の前線まで行き、南京にも入った。最後の近衛師団長としても知られている方である。
 体が丈夫でないというのでインタピューは出来なかったが、南京に入った時の様子を、
「南京は人一人いない街となっており、小生はその一軒に泊ったのですが、何事もありませんでした」と書いて下さった。
 昭和六十一年十二月に亡くなっている。

(41)侍従武官・後藤光蔵中佐

 後藤光蔵中佐は侍従武官として第十軍の前線まで行き、南京にも入った。最後の近衛師団長としても知られている方である。 体が丈夫でないというのでインタビューはできなかったが、南京に入った時の様子を、 「南京は人一人いない街となっており、小生はその一軒に泊ったのですが、何事もありませんでした」と書いて下さった。
 昭和六十一年十二月に亡くなっている。

補遺

47 上海憲兵隊・岡村適三大尉

 岡村氏は上海事変当時から上海にいて、陥落直後の南京に入った。
 老人性虚血症ということで話をうかがうことはできなかったが、質問に対し、次の様に書いて下さった。
「当時南京事件については聞きませんでした。
 上海派遣軍憲兵隊長・横田昌隆中佐、第十軍憲兵隊長・上砂勝七少佐、副隊長・藤野鶯丈大尉などから、日本軍の軍紀について特別聞いたことはありません。
 日本軍が威張っているということは聞きました」
 憲兵だけに日本軍の軍紀についてよく知っていたと思われるので、是非お目にかかってもっと詳しく聞きたいと思って、何度かの手紙のやりとりの後電話で申込むと、それならと了承して下さった。
 約束の日、福岡空港から電話をすると、家族の方が電話にでられて、朝言ったことを昼忘れる有様ですからお話は無理です、とのこと。仕方なく空港から引揚げた。

(42)上海憲兵隊・岡村適三大尉

 岡村適三氏は上海事変当時から上海にいて、陥落直後の南京に入った。
 老人性虚血症ということで話をうかがうことはできなかったが、質問に対し、次のように書いて下さった。
 「当時南京事件については聞きませんでした。
 上海派遣軍憲兵隊長・横田昌隆中佐、第十軍憲兵隊長・上砂勝七少佐、副隊長・藤野鷲丈大尉などから、日本軍の軍紀について特別聞いたことはありません。
 日本軍が威張っているということは聞きました」
 憲兵だけに日本軍の軍紀についてよく知っていたと思われるので、是非お目にかかってもっと詳しく聞きたいと思って、何度かの手紙のやりとりの後電話で申込むと、それならと了承して下さった。
 約束の日、福岡空港から電話をすると、家族の方が電話に出られて、朝言ったことを昼忘れる有様ですからお話は無理です、とのこと。仕方なく空港から引揚げた。

補遺

48 参謀本部庶務課長・諌山春樹大佐

 諌山氏は、十二月二十六日、人事及び幕僚業務などに関し、各軍及び師団司令部と連絡のため阿南惟幾人事局長と共に上海に向い、南京には元旦の夕方に入った。杭州にも行っている。この時、額田担人事課高級課員、稲田正純軍事課高級課員、荒尾興功作戦課員が同行した。
 インタビューを申し込んだ時、諌山氏は九十一歳で、お目にかかることはできなかった。しかし、手紙での質問には答えて下さった。諌山氏は当時から温厚な方として知られているが、三年間にわたり七度も手紙を下さった。直接関係のある部分は次のとおりである。
「参謀本部で受ける報告は、毎日の電報などを含めて庶務課が受付け、これを主務課に渡す分と関係課の分とを同時にガリ版ですり、配布します。当時、私は総ての情報を受ける窓口にいて、昭和十四年春まで庶務課長をしていましたが、事件について何も聞きません。緘口令などということも絶対ありません。
 南京に出張した時、事件について誰も質問をいたしませんでした。南京では市内など各所を視察しましたが一人の女の死体を見た位でした。
 然るに塚田中支那方面軍参謀長が、具体的でなく、また虐殺事件を思わせる様な文句でもなく、暴行に就いて松井軍司令官が非常に心配しておられる旨を申されたが、それでも私はショックをうけた事でもなく、漠然たる気持で過ぎていました。その後も深く探究しておりません。
 私は終戦後約十年間巣鴨拘置所にいて何も知らず、南京虐殺事件に関心を持ったのはその後の事で、最近の様におもわれます。問題が拡大してからは無責任だったと思っています。
 南京事件については何もわからず、役に立たず慙愧に堪えません」

本編(26)に昇格

補遺

49 中部防衛軍参謀・宮本清一中佐

 宮本氏は中部防衛軍参謀として、関西各府県の防空課長などと十二月下旬に、南京に行った方であるが、インタビューを申込んだ時、九十歳でお目にかかることは出来なかった。
 昭和六十一年に亡くなっている。

50 南京領事館・福田篤泰領事官補

 福田氏は十二月十三日、外務省関係者としては最初に南京に入った人である。その後、南京にあった国際安全委員会との窓口をつとめたり、政治工作にもあたった。特務機関長の大西氏と共に、中国側の実情をもっともよく知る立場にいた人と思われる。それだけに、南京について、これまで何度か証言している。
 インタビューを申込んだ時、病気静養中で、元気になれば、ということであるが、まだ会うことは出来てない。

51 外務省情報部・後藤光太郎氏

 後藤氏は外務省撮影団の一人として入場式直前の南京に行った。
 お目にかかることは出来ず、昭和六十年に亡くなっている。

52 内務省内務事務官・池野清躬氏

 池野氏は内務省で内務行政にあたっており、民間防空研究のため十二月に南京に行った。戦後、自衛隊に移り、東部方面総監などをつとめた方である。
 病気のため話をうかがうことは出来ず、その後、昭和六十一年に亡くなっている。

 

補遺

53 同盟通信・堀川武夫記者

 第十六師団に従軍した堀川氏は戦後、広島の大学で教鞭をとった。
 病気で寝ているということでお目にかかることはできなかったが、「お問い合わせの件格別確かなことは見聞しておりません」とのことである。

(43)同盟通信・堀川武夫記者

 第十六師団に従軍した堀川武夫氏は戦後、広鳥の大学で教鞭をとった。
 病気で寝ているということでお目にかかることはできなかったが、「お問い合わせの件格別確かなことは見聞しておりません」とのことである。

補遺

54 同盟通信・前田雄二記者

 中山門から十三日入城した前田氏は五十九年に亡くなっている。

55 同盟通信・不動健治写真部長

 不動氏は十三日、南京に入城した。お目にかかろうとしていた矢先、昭和六十年に八十七歳で亡くなり、話をうかがうことはできなかった。

56 同盟通信・加藤松記者

陥落直後の南京に入城した加藤氏は心筋梗塞で入院中のため、お目にかかることは出来なかった。

57 同盟通信・祓川親茂カメラマン

 祓川氏は陥落直後、中山門から南京に入った。
 祓川氏のお話によれぱ、鎮江で浅井カメラマンと一緒になってからほとんど一緒で、浅井氏の証言以上何もないということである。

58 同盟通信・高崎修カメラマン

 高崎氏は陥落後、中山門から入城した。
 お元気でいらっしゃるが、南京事件のことについては、残念ながら申し上げる資料はございませんのでご諒承下さい、との返事であった。

59 同盟通信・菊地久太郎無電技師

 菊地氏は陥落直後の南京に人ったが、昔のことで何も覚えていないということである。

 

補遺

60 朝目新聞・藤本亀記者

 十三日、光華門から南京に入った。
 戦後、山陽新聞取締役、山陽放送社長などをつとめた人である。体がよくないということで会うことは出来なかったが、「従軍の間、特別に何の事件も見たり聞いたりはしませんでしたことをお知らせいたします」という返事であった。

(44) 朝日新聞・藤本亀記者 

藤本亀氏は十三日、光華門から南京城内に入った。
 戦後、山陽新聞取締役、山陽放送社長などをつとめた人である。体がよくないということで会うことはできなかったが、「従軍の間、特別に何の事件も見たり聞いたりはしませんでしたことをお知らせいたします」という返事であった。

補遺

61 朝目新聞・田畑雅カメラマン

 入院中ということで話は聞けなかった。

 

補遺

62 東京日々新聞・浅海一男記者

 浅海氏は十二月十三日、中山門から南京に入城した。
 昭和六十年始めインタビューを申込むと、記憶が不鮮明なのでとお断わりになった。その際、「この世紀の大虐殺事実を否定し、軍国主義への合唱、伴奏となるようなことのないよう切望します」という返事であった。

(45)東京日々新聞・浅海一男記者

 浅海一男氏は十二月十三日、中山門から南京に入城した。
 昭和六十年初めインタビューを申込むと、記憶が不鮮明なのでとお断わりになった。その際、「この世紀の大虐殺事実を否定し、軍国主義への合唱、伴奏となるようなことのないよう切望します」という返事であった。

補遺

63 大阪毎日新聞・西野源記者

 西野氏は名古屋総局から従軍し、第九師団と共に光華門方面から南京に入城した。
「お問合わせの件一残念ながら聞いたことがありません。戦場では幾多の流説があるのが当然のことです」とのことである。

(46)大阪毎日新聞・西野源記者

 西野源氏は名古屋総局から従軍し、第九師団と共に光華門方面から南京に入城した。
 「お問合わせの件、残念ながら聞いたことがありません。戦場では幾多の流説があるのが当然のことです」とのことである。

補遺

64 国民新聞・南正義記者

 南氏は現在、名古屋にある東海ラジオの社長をつとめている。お目にかかった方のうち、何人かはまだ働いているが、南氏のように第一線で働いている方は他にいない。現在、南京で日中友好の催しなどを行っている。
 南氏から貴重な話をたくさん聞かせていただいたが、ここに書くわけにいかない。現在の仕事にさしさわりがあるからである。南氏は当時の資料を持っているので、できれば自方でも書きたいとのことである。

本編(15)に昇格

補遺

65 西本願寺・大谷光照法主

大谷法主は十一月に上海の皇軍慰問に向い、やがて南京に行き、十二月十七日の入場式に参列した。
翌十八日、城内の飛行場で行われた慰霊祭は法主のもとに行われた。
南京の様子については、
「完全山領の翌日の十四日夕刻、南京に着き、城内に宿営しつつ四日間滞在し、城内にも数回入りましたが、もちろん虐殺を見ておりませんし、噂も聞きませんでした。もうその時は戦闘は全く終息していて一市内は平静で一市民の盗もほとんど見かけず、虐殺の起るような環境ではありませんでした。日本軍は城内城外に適宜宿営し、のんびり休養をとっていました」ということである。

(47)西本願寺・大谷光照法主

 大谷光照法主は十一月に上海の皇軍慰問に向い、やがて南京に行き、十二月十七日の入城式に参列した。翌十八日、城内の飛行場で行なわれた慰霊祭は法主のもとに行なわれた。
 南京の様子については、
 「完全占領の翌日の十四日夕刻、南京に着き、城内に宿営しつつ四日問滞在し、城内にも
数回入りましたが、もちろん虐殺を見ておりませんし、噂も聞きませんでした。もうその時は戦闘は全く終息していて、市内は平静で、市民の姿もほとんど見かけず、虐殺の起こるような環境ではありませんでした。日本軍は城内城外に適宜宿営し、のんびり休養をとっていました」
 ということである。

補遺

66 運輸通信長官部野戦高等郵便長・遠藤毅氏

遠藤氏は逓信省の郵務局規画課長で野戦高等郵便長を兼任していた。十二月二十七日、上海、南京方面の郵便部隊視察のため中国に渡り、十二月三十日、三十一日に南京に行っている。
現在、遠藤氏は八十六歳であるが、西ドイツにある日本大使館の嘱託をしており、まだ帰国していない。そのため話を聞くことは出来なかった。

 

補遺

67 従軍作家・石川達三氏

 石川氏は昭和十年『蒼眠』で第一回芥川賞を受賞、昭和十二年、陥落直後の南京に中央公論社から特派された。十二月二十一日東京をたって、上海、蘇州、南京をまわり、一月下旬に東京に戻った。この時、主に第十六師団の兵士に会い、これをもとに『生きてゐる兵隊』を書き、二月十八日発売の『中央公論』に発表した。ところが『中央公論』は即日、新聞紙法により発売禁止になり、石川氏は起訴され、九月に禁鋼四カ月、執行猶予三年の判決がおりた。
 戦後になり、『生きてゐる兵隊』は南京事件を扱った小説といわれるようになった。
 昭和五十九年十月、インタビューを申込んだが、会うことは出来なかった。理由は後でわかったが、それから三カ月後の昭和六十年一月に石川氏は肺炎のため亡くなった。インタビューを申込んだ時は胃潰瘍が良くなりつつあったが、会えるような状況ではなかったのである。しかし、そのおり、次の様な返事をいただいた。

「私が南京に入ったのは入城式から二週間後です。
 大殺戮の痕跡は一片も見ておりません。
 何万の死体の処理はとても二、三週間では終わらないと思います。あの話は私は今も信じてはおりません」

(48)従軍作家・石川達三氏

 石川達三氏は昭和十年『蒼眠』で第一回芥川賞を受賞、昭和十二年、陥落直後の南京に中央公論社から特派された。十二月二十一日東京を発って、上海、蘇州、南京をまわり、一月下旬に東京に戻った。この時、主に第十六師団の兵士に会い、これをもとに『生きてゐる兵隊』を書き、二月十八日発売の『中央公論』に発表した。ところが『中央公論』は即日、新聞紙法により発売禁止になり、石川氏は起訴され、九月に禁鋼四カ月、執行猶予三年の判決がおりた。
 戦後になり、『生きてゐる兵隊』は南京事件を扱った小説と言われるようになった。
 昭和五十九年十月、インタビューを申込んだが、会うことはできなかった。理由は後でわかったが、それから三カ月後の昭和六十年一月に石川氏は肺炎のため亡くなった。インタビューを申込んだ時は胃潰瘍が良くなりつつあったが、会えるような状況ではなかったのである。しかし、そのおり、次のような返事をいただいた。
 「私が南京に入ったのは入城式から二週間後です。大殺戮の痕跡は一片も見ておりません。
 何万の死体の処理はとても二、三週間では終わらないと思います。あの話は私は今も信じてはおりません」

補遺  

連絡を取っている途中に亡くなったり、病気のため返事をいただけなかった人たちは、次の人たちである。

上海派遣軍参謀・松田千秋大佐
上海派遣軍報道班長・米花宇太吉少佐
上海派遣軍写真班長・一色達夫氏
南京特務機関・小島友宇氏
南京特務機関・馬淵誠剛氏
第十軍参謀・山崎正男少佐
第十軍参謀・清水武男大尉
中部防衛軍参謀・宮本清一中佐
南京領事館・福田篤泰領事館補
外務省情報部・後藤光太郎氏
内務省内務事務官・池野清躬氏
同盟通信・前田雄二記者
同盟通信・不動健治写真部長
同盟通信・加藤松記者
同盟通信・祓川親茂カメラマン
同盟通信・高崎修カメラマン
同盟通信・菊地久太郎無電技師
朝日新聞・田畑雅カメラマン
運輸通信長官部野戦高等郵便長・遠藤毅氏

後書き 

前書き

あとがき

 南京事件の証拠、証言と称されるものには、数多くの虚偽のものが含まれている、といわれている。東京裁判の法廷に出されたものから始って、一流新聞といわれるマスコミの報道の中にも数多くある。それが南京事件の真相をいっそうわかりにくいものにしている。われわれはいったいどの証拠や証言を信用すれぱよいのか困ってしまう。
 そんなことを考えていた時、南京事件があったとされた昭和十二年十二月と昭和十三年一月に南京にいた人に聞けば本当のことがわかるのではなかろうかと考えた。信用できないものが氾濫している今、同じ日本人がこうだというのなら、それを信ずるしかあるまい。
 南京が陥落した時、南京にはまず軍が入った。軍のなかには兵士から将校までたくさんの人がいたが、そのうち指揮官クラスなら鳥瞰的に南京を見、様々な情報が入ってきたはずである。指揮官クラス以外では、憲兵隊、特務機関の人たちが、仕事の性質上、南京についてよく知っていたと思われる。
 この時、南京に入ったのは兵士がもっとも多かった。現在でも数千人の生存者がいると思われる。しかし、兵士の証言は、すべてを集めることは不可能だし、その一部だけにすると恣意的になりがちだ。そのため、残念ながらそれらは最初からカットした。
 軍とほぼ同じく報道関係者も入った。記者の他、カメラマン、無電技師などで、同盟、朝日、毎日などはそれぞれ五十名以上に及んでいる。この時各府県の地方新聞社も郷土部隊をだしているところは記者をおくった。そして、雑誌記者、評論家、従軍画家なども入った。
 また、部隊と共に従軍僧が入り、外交官も入った。しばらくすると、防空などの研究のため役人、大学教授などが南京に入った。
 大ざっぱに考えてもこの時、軍の参謀、師団の参謀長など軍関係者だけで百五十人、報道関係者三百人、外交関係者二十人など五百人ほどのしかるべき人がいたと思われる。
 この人たちから直接南京の様子を聞けば、当時の本当の南京の様子が浮び上がってくるのではなかろうかと思った。
 もちろん、南京にいた人すべてが南京のすみからすみまで見ているわけではない。また、五十年前のことであるから、忘れてしまっていたり、間違って記憶していることもあろう。さらには、日本人の恥になるような事件だから、立場上、否定的にならざるを得ないような心情の人もいるかもしれない。しかし、様々な証言が積み重ねられることによって、穴がうめられ、間違いは訂正されていくであろう。
 五百人ほどと見当をつけて捜していくと、六十七人の方と何らかの形で連絡がとれた。他の方は、数人の生死不明の方を除き亡くなっていた。六十七人のうち、三十五人に直接会って話を聞くことができた。残り三十二人は、ほとんどの方が病気だったため、会うことができなかった。
 話は、ほとんどが昭和五十九年から昭和六十一年はじめにかけて聞いた。
 三十五人の中には一度だけ会った人もいれば、十回ほど会った人もいる。ほとんどの方には三回会っている。話を聞くのに二度、まとめた原稿に誤りがないかどうか見てもらうのに一度である。
 原稿は正確を期すため発表前に確認してもらったが、発言の「 」の部分はもちろん、地の文も発言のニュアンスをかえるといけないのでチェックしてもらった。

 半分ほどの方が間違いはないということであったが、半分の方からは注文があった。このうち半分は字句の修正、一部の聞き誤りなどの訂正であったが、残り半分近くは全面的に書き直しを要望された。そのため指示にしたがって書き直した。
 三十五人のうち、話をうかがった直後亡くなった土井申二氏、病気のため原稿を見てもらうことの出来なかった岡田芳政氏、目が悪いので原稿はいっさい任せるとおっしゃった小柳次一氏をのぞいてすべて目を通してもらっている。証言なさっていることは、私を通して微妙に変ったということはないはずである。
 話をうかがった方は平均すると八十歳過ぎである。どなたも粉飾した発言をしたり、何かを隠すようなこともなく、ありのままを語ってくれたものと思っている。五十年の歳月がそうさせたのであろう。何度か会って話を聞いた印象はそうである。また、それぞれの方は、他の人がどの様な証言をなさっているのかほとんど知らない。白分の体験だけをたんたんと話してくれたものである。
 ところで、虐殺、大虐殺の言葉の定義についてであるが、本来ならインタビューにあたって、まずこれらの定義からはっきりさせなくてはならないのかもしれない。東京裁判では暴虐事件という言葉が使われ、ずっとあとになってから大虐殺という言葉が使われだした。現在は南京事件、南京大虐殺などが使われている。私個人としては、たとえ数百人あるいは数十人の規模でも、虐殺なら大虐殺だという気
がするが、証言者は特別意識しないで南京事件、南京大虐殺という言葉を使っていた。この定義から入っていくと話は長くなるので、これらの言葉はそのままに使った。実際の南京の様子はどうだったかがインタビューのポイントであるから、それはそれで、それぞれの方の印象に任せたということである。
 昭和五十九年から昭和六十年にかけて、旧陸軍将校団体の機関誌『借行』が、「証言による『南京戦史』」を連載した。私のインタビューの時期はちょうどこの時期にあたる。しばしばインタビューの中に「証言による『南京戦史』」のことがでて来るのはそのためである。「証言による『南京戦史』」は参戦者の証言が中心になっているが、そこでは、虐殺の規模については異論があるが、それに類するような事例があったことは否定できない、というような結論になっていた。あれから二年、期せずして一冊の本として近く刊行されるということである。
 このインタビューはそのつど『正論』その他の雑誌に発表したが、今回一冊の本にまとめるにあたり、今まで発表しなかったものもあわせて収めた。
 この証言をつなぎあわせて、当時の南京をつくってみる。それがもっとも自然に近い南京なのではあるまいか。そこに自ずと南京事件の真相というものが浮ぴ上がってくるはずである。

昭和六十二年七月
                            阿羅健一

文庫化にあたって

 昭和十二年七月七日、北京郊外の蘆溝橋近辺で夜聞演習を行っていた日本軍に突然弾が飛んできた。中国軍によるものだと考えた日本軍はただちに中国軍と話し合いを行った。
 話し合いが行われたけれど、その一方で小競り合いは続き、そうしているうち、争いはしだいに大きくなり、二十七日には、三個師団が北京方面に派遣されることになった。
 そのころの中国で、最も多くの日本人がいたのは上海である。北京の争いが続くうち、その上海が騒がしくなってきた。上海には日本の工場があり、それら工場と日本人を海軍陸戦隊が守っていた。日がたつにつれ、上海が険悪になってきた。
 八月九日、海軍陸戦隊の大山勇夫中尉が射殺された。十三日には、海軍陸戦隊と中国軍が衝突した。中国の兵力は海軍陸戦隊の何倍もあり、在留日本人の生命が危険になってく
る。すでに七月二十九日、北京郊外の通州で、二百二十三人の在留邦人が虐殺されるという、いわゆる通州事件が起こっていた。
 そのため、上海派遣軍が編成されて上海に向うことになった。司令官には、中国通として知られていた松井石根大将が親補された。
 中国軍は、数年もかけて陣地をつくっており、ドイツ式の装備をし、ドイツ軍から訓練を受けた精強な部隊が待ち受けていた。上海派遭軍は八月二十三日から上陸を始めたが、激しい戦いとなった。攻めるのは日本軍だったが、一月たっても、二月たっても、上海を制圧することはできなかった。日ごとに日本軍の戦死者が増えていった。
 中国軍の背後を突くため、十一月五日、新しく編成された第十軍が杭州湾に上陸した。背後から攻められた中国軍は崩れ、潰走を始めた。
 上陸したての第十軍は、この際、潰走する敵を追って首都南京まで攻めのぼり、そこで和平を考えるべきだという意見を持っていた。それを意見具申するとともに、潰走する敵を追撃しはじめた。やがて、上海を制圧した上海派遣軍からも同様な意見が出された。
 十二月一日、南京攻略の命令が参謀本部からくだった。上海派遣軍と第十軍を統一指揮するため中支那方面軍がもうけられ、松井大将が司令官に任命された。南京を目指す日本軍は七、八万人に達した。
 当初、南京攻略は一月半ばと予想されていたけれど、日本軍の追撃は速く、十二月十日には鯖江の第三十六連隊が光華門に突入、十二月十二日の昼には大分の第四十七連隊がはしごをかけて城壁にのぼりはじめた。
 この日の夜、中国軍には撤退命令が出された。
 しかし、ほとんどが正面から突破することを命ぜられたため、多くの将兵は軍服を脱ぎ捨て、城内にある難民区(安全区)に逃げこんだ。
 十二月十三日、城内に進んだ日本軍は中国軍を掃討していった。掃討戦は十六日まで続き、十七日には松井大将を先頭として入城式が行われ、翌日は慰霊祭が行われた。
 慰霊祭が終わると、第十軍は杭州湾に向い、南京には上海派遣軍が残った。松井大将も十二月二十二日には上海に戻った。以後、上海派遣軍の中の第十六師団が一月下旬まで南京を警備する。
 上海の戦いから南京攻略戦が終わるまでの犠牲者については、日本軍の最高司令官であった松井大将の日記に、日本軍の戦病死者の総数は二万四千に達したとあり、一方、国民
党軍軍政部長である何応欽上将の軍事報告には、この間の中国軍の戦死者は三万三千とある。
 日本軍の戦死者のほとんどは上海戦によるもので、予想もしない膨大な数字となった。このときから八年間、日本軍は大陸で戦うことになるけれど、劈頭に最大の犠牲者を出すこととなった。

 昭和十二年十二月、南京が陥落したとき、そこで何が起こったのか。
 まれにみる残虐な事件がひき起こされたと日本人が知ったのは、それから九年もして、東京裁判が開かれたときであった。
 日本軍が南京に入った十二月十三日から一月下旬まで、暴行、略奪、強姦、放火が南京で繰り返されたと東京裁判で判決された。虐殺数は十万人とも二十万人とも言われた。それらを止めるため適切な手段を講じなかったとして最高司令官の松井石根大将が絞首刑になった。また、その当時外務大臣だった広田弘毅の同じ責任を問われ、ほかの理由とあわせて絞首刑となった。
 しかし、そう知らされたとき、日本は占領下に置かれていて、さらにだれもが食べることに精一杯という時であった。
 何十万人という大虐殺が本当におこったのか。あるいは、どの戦場にもあるような光景があっただけなのか、本当はどうだったのか。そのとき南京にいた同胞にたずねられるものなら、ぜひともたずねたい、そこに本当の答えがある。日本人ならそう思い至るのではなかろうか。
 そのとき、どのような日本人が南京にいたかといえば、いうまでもなく日本軍である。日本軍といっても、南京のあちらこちらを見て歩き、南京の様子を知っていたのは、兵隊や下士官ではなく、上級将校であろう。
 軍隊だけが南京にいたのではない。南京陥落を報道するため二百人を超す記者たちが南京に入った。占領したあとの行政や治安のため、外交官も入った。彼らも軍の上級将校と同じように、南京全体のことを知っていただろう。
 そういった人たちが語る南京なら信用できるのではないのか。
 そう思ってあたってみると、六十七人が存命中で連絡がとれた。昭和五十九年から六十一年にかけてのことである。
 といっても、そのときでも昭和十二年からほぼ半世紀がたっており、その六十七人のうち三十五人から話が聞け、残りの三十二人のうち十一人からは手紙で返事をもらったけれど、残りからは、主に病気という理由で、話を聞くことはできなかった。
 さらに、話の聞けた人たちにしても、全員がくまなく南京を見て、南京で何が起こっていたか知っていたわけでなかった。ある場所のことは詳しいけれど、全く行ったことのない場所もある。
 しかし、彼らの証言をつなぎあわせれば、ジグソーパズルを組み立てるように、南京の様子が浮かび上がってくる。
 その三十五人の中には一度だけ会った人もいれば、十回ほど会った人もいる。ほとんどの方には三回会っている。話を聞くのに二度、まとめた原稿に誤りがないかどうか見てもらうのに一度である。
 原稿は正確を期すために発表前に確認してもらったが、発言の「 」の部分はもちろん、地の文も発言のニュアンスをかえるといけないのでチェックしてもらった。
 半分ほどの方が問違いはないということであったが、半分の方からは注文があった。このうち半分は字句の修正、一部の聞き誤りなどの訂正であったが、残り半分近くは全面的に書き直しを要望された。そのため指示に従って書き直した。
 こうして、一冊の本にまとめたものが、昭和六十二年に『聞き書南京事件』として図書出版社から発行された。
 それから十五年がたち、絶版となっていた『聞き書南京事件』が、題名を改め、櫻井よしこ氏による文章もいただき、小学館文庫から発売されることになった。
 昭和六十二年に発行されたものは、四六判で三百頁もあった。そのうえ今回は、公表をしばらくひかえてくれるようにと要請のあった南正義氏の証言と、発行の直後に話の聞けた諌山春樹氏、大槻章氏の証言も掲載したい。
 しかし、これらすべてを文庫に収めると、だいぶ厚いものになる。そのため、証言者の経歴など、南京と直接関係のない部分は省くことにした。
 どうやら文庫として収まることになった。四十八人の証言を収めることができた。
 ここに集まったものは、ほとんどが明治生れの日本人の証言である。われわれ日本人は、われわれの父や祖父たちの述べていることから、昭和十二年十二月に南京で何が起こったのか、何が起こらなかったのか、判断できるであろう。彼らの言葉のなかに、真実があるのではなかろうか。


あとがき

 南京を歩きまわってあちこち見ていた日本人の証言から、どんなことが浮かびあがつてくるであろう。
 南京でいわゆる「三十万人の大虐殺」を見たという人は、四十八人の中にひとりもいない。それがひとつ。それから九年たち、南京での暴虐が東京裁判で言われたとき、ほとんどの人にとっては、それがまったくの寝耳に水だった。
 つぎに、四十八人の証言から、市民や婦女子に対する虐殺などなかったことがわかる。とくに婦女子に対する暴虐は、誰も見ていないし、聞いてもいない。
 南京にはいたるところに死体があり、道路が血でおおわれていた、としばしば語られるけれど、そのような南京は、四十八人の証言のなかにまったくない。東京裁判で語られたような悲惨なことは架空の出来事のようだ。
 一般市民に対してはそうであるけれど、しかし軍隊に対してはやや違うようだ。
 中国兵を処断している場面を何人かが見ている。中国兵を揚子江まで連れていって刺殺しているし、城内でも刺殺している。南京に向かう途中でも、そのような場面を見ている人がいる。揚子江岸にはのちのちまで処断された死体がたくさんあった。
 これらから推察すると、南京事件といわれているものは、中国兵に対する処断だったのであろう。
 といって、だからそれが虐殺として責められるべきことかといえば、必ずしもそうではない。大騒ぎすることではない、それが戦争だ、戦場だ、と大多数の証言者は見なしている。
 大多数ということは、そうでない人もいた。なかには、処断の場面を見て残酷だと感じ、行き過ぎだと見なす人がいた。しかし、そういう人でも、とくに話題にすることはなかったから、特別なこととは見なしていなかった。
 四十八人の証言者のなかには軍人がいた。彼らの証言をみると、中国兵をとくに虐待しようとしていた人はいなかった。中島今朝吾師団長、長勇参謀のように、中国兵にきびしく当たるような言動の人もいたけれど、軍からそのような命令が出たわけではない。反対
に、最高司令官である松井石根大将は中国兵には人道的に対応するように命じている。
 中国軍は、証言にもあるように、降伏を拒否していた。日本軍と最後まで戦うつもりだったし、追い詰められても、降伏は認められていなかったから、捕虜になるという考えや気持ちもなかった。最後の段階になって中国兵は軍服を脱ぎ、市民の中に紛れこんだ。中国軍には戦時国際法が念頭になかった。
 一方、中国兵を処断した日本兵は、そのことを隠すこともしないし、なかには、ジャーナリストらにわざわざ処断の場面を見せようとするものもいた。中国兵の処断は戦闘の続きだ、と日本兵はみなしていたからである。のちに虐殺だと言われるとは思いもしなかっただろう。
 それでは、中国兵の処断は戦時国際法からどのようにみなされるのだろうか。
 現在の研究からみると、意見は分かれる。
 ひとつは、司令官が逃亡し、中国兵が軍服を脱いで武器を隠し持ち市民に紛れこんだ段階で捕虜として遇されることはなくなった、日本が非難されるいわれはない、とみなす意見である。
 その反対に、最後まで中国兵を人道的に遇すべきだし、処断は戦時国際法違反だ、という見方がある。
 また、処断するにしても、軍律会議などを経るべきだった、そうすれば非難されることはなかっただろうという見方もある。
 ともあれ、南京事件と言われるものの実態は、中国兵の処断である。戦場であったから、悲惨な場面はいくらもあった。逃げようとする中国兵のなかには城壁から落ちて死んだものもいた。しかし、それは戦場ならどこにでもある光景である。四十八人の証言はそういったことを教えてくれる。

2001年11月21日
                阿羅健一

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