15年戦争資料 @wiki

rabe1月9日

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pipopipo555jp

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一月九日

午前十時。自治委員会のメンバー、王承添(通称ジミー)との談合。数日前、国際委員会の活動を日本軍が力ずくでやめさせようとしていたと聞かされる。結局これは実行には移されなかったが、我々は今後難民に米を売ってはならないことになった。もし、自治委員会が販売を引き受けるというのなら、異存はない。

ローゼン家とヒュルター家、それから大使館にいってみた。どこも問題はないが、電気も水もとまっている。

十一時にクレーガーとハッツが本部に来て、たまたま目にするはめになった「小規模の」死刑について報告した。日本人将校一人に兵士が二人、山西路にある池のなかに中国人(民間人)を追いこんだ。その男が腰まで水につかったとき、兵士のひとりが近くにあった砂嚢のかげにごろりと寝ころび、男が水中に沈むまで発砲し続けたというのだ。

ローゼンとヒュルター、シャルフェンベルクの三人がイギリス砲艦クリケットで到着した。イギリス大使館の役人三人とプリドー=ブリュン領事、フレーザー大佐、空軍武官のウォルサー氏もいっしょだった。だがウォルサー氏は、事前に報告しなかったといいがかりをつけられて、上陸させてもらえなかった。

午後二時、クレーガー、ハッツ、私の三人で、ドイツ大使館にいった。三時に、日本大使館の田中、福田両氏といっしょにローゼンたち三人がやってきた。我々はクレーガーがどこからか接収してきたシャンパンで歓迎の意を表した。ローゼンは、盗まれた車の代わりに、豪華なビュイック一台と、ドイツ大使館用の公用車を一台、日本から借り受けた。ぜったいに返すものかと息巻いている。それからみなでシャルフェンベルクの家に行ってみた。家中ひっかきまわされ、目も当てられない状態だ(写真23)。大切にしていた品のなかでも彼がとくに残念がったのは、シルクハットとネクタイだった。なにしろ四十本もあったのだ。今度また休暇で日本へ行ったら、みなでぬかりなく目を光らせ、シャルフェンベルクの高級ネクタイをしている奴をとっつかまえてやろうということになった。

それを除けば、シャルフェンベルグは冷静だった。怒り狂うのではないかと思っていたのだが、そんなことはなかった。三十七年間中国にいる間に、めったなことでは動じない人間になっていたのだ。

夜八時。ドイツ大使館の三人とクレーガーを夕食に招いた。ワインもある。クレーガーが以前、シャルフェンベルクの家から失敬してきたものだ。そしてジャーディン海運社の船客のその後の様子、それからビー号とパナイ号のことを話してもらった。

ヒュルターが、ドイツ外務省にあてたローゼンの報告書を読み上げた。「ここ南京に残っている二十二人の外国人は、ローマの闘技場でライオンに食われた原始キリスト教徒に劣らず勇敢でした。けれども、ライオンは、どうやら欧米人より中国人の肉がお好みのようです」日本軍をどう思うか、と聞くと、ローゼンは返事の代わりにトルコのことわざをひいた。昔おじいさんがコンスタンティノープルの公使館に勤めていたことがあるのだ。「橋の上で雄やぎといるかぎり、君はやぎに『おじさん』とよびかけなければならない」。つまり、長いものにはまかれろということか。

いよいよ食事を始めようとすると、近所の家から火の手があがった。外交官が来ていようと、放火を命じられた日本兵にはすこしも気にならないようだ。



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