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「戸井田報告」=「南京の実相」批判のページ(2)

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「戸井田報告」=「南京の実相」批判のページ(2)


日本の前途と歴史教育を考える議員の会
平成十九年六月十九日

南京問題小委員会の調査検証の総括


日本の前途と歴史教育を考える議員の会」が2007年6月に記者会見を開き、南京問題小委員会(委員長:戸井田とおる)報告書を発表しました。2008年8月11/01 には、その日本語、英語の両方を収録して「南京の実相」という本にしたそうです。しかし、若干の資料を除いて本文は「報告書」のままだと聞いています。

「戸井田報告書」はWEBでPDF公開されていますのでここに転載します。
http://www.toidatoru.com/pdf/nankin.pdf(戸井田徹サイト)

みんなで論点、批判点を出し合いましょう。コメント欄に書き込んでいただいたものは、逐次、本文に書き込んでいき、批判のページを完成させたいと思います。

私がこの「戸井田報告」に注目したのは、産経新聞の誤報に関連してのことです。この誤報には、「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」の活動が連動しています

  • (引用者注)まずは、戸井田さんもしくは小委員会の皆さんに、南京事件 初歩の初歩をお読みになるようにお勧めします


目次(場所を分かりやすくするために、章の見出しに番号をつけました)


4 《東京裁判で復活した「南京虐殺事件」》…16


一九四六年、東京裁判(偽証罪がない)が開廷しても、政治宣伝としての南京での「虐殺数」は「二万人」だった事は前述した通りである。

  • (引用者注)前述した通り顧維鈞の国際連盟演説は、海外に報道された新聞記事を引用したにすぎません。

ここでは、事後法で裁いた東京裁判の管轄権など国際法上の問題点については触れないが、どのような状況で開廷したのか。それは、GHQ占領下の洗脳政策の責任者民間情報教育局(CIE)局長K・R・ダイク代将(大佐)が、一九四六年三月二十日に第四回極東委員会で報告した日本人に対する指令の趣旨が参考になる。

「指令を発する敏速さは、いわば戦争中の戦略にも譬えられようかと思います。現在なお、いくさなのです。日本では、一種の戦闘状態にあると私は言いたいのです。平時の作戦ではないのです。と申しますのは、戦闘中は相手のバランスを崩そうとします。右のジャブをうまく出し、相手が立ち直る前に左のジャブを出すということです。日本人の教育のため、一つの指令を日本人が十分理解してからさらに他の指令を出すという意志は私どもにはありません。」
(『資料・占領下の放送立法』東京大学出版会、「第四回極東委員会会議議事録」抜粋六十ページ)

占領下の混乱期に何がどうなっているか分からない状況で、矢継ぎ早に一方的情報を出して、日本人が立ち直れないように強力な洗脳政策を実行すると断言していた。東京裁判も一種の戦闘状態で裁かれていたという事になる。

  • 引用部分に洗脳政策などとは一言も書いていない。(scopedog)

また、ダイク代将は、占領下を平時でなく、戦時と規定している事で、正確な意味での終戦は、主権を回復した一九五二年四月二十八日という事になる。

  • 法的に(サンフランシスコ講和条約締結国との間で)戦争が終わったのはたしかにその時をもってしてである、ということができる。そうすれば、東京裁判を平時の刑事裁判と比較するのはあまり意味がなく、むしろ日本軍が戦時中に行なった軍律裁判や軍法会議さらには裁判抜きでの「処刑」と比較すべきである。果たしてどちらが「より酷い」裁判であったか? (Apeman)

極東委員会とは、GHQを管理していた上部機関である。その極東委員会の中国代表は、一九三八年二月二日国際連盟理事会で公式に「虐殺の犠牲者二万人」との「南京虐殺宣伝」をした顧維鈞であった。

  • (引用者注)極東委員会およびその対日理事会はGHQの『上部機関』ではなくて『諮問機関』である。軍事駐留であるマッカーサーの司令部GHQに対する統制力はなかった。有していたのは国際世論に対する影響力にすぎない。

一九四八年十一月の東京裁判の判決は、「南京虐殺」の犠牲者数に関して二通りの判決が出ている。それは、南京攻略戦の総司令官松井石根大将個人の「十万人」と南京攻略戦の「二十万人」以上の異なった判決が出ていたのである。いずれにしても、南京での「虐殺数」は唐突に一桁増えたのである。

  • 裁判のための調査や立証活動によって情報が収集された。その一つが「戸井田報告」でも言及している埋葬記録である。38年1月2月の顧維鈞演説と違うからという理由で東京裁判を否定するのはまったくのナンセンス。(Apeman)

それは、「南京事件」後四ヶ月間に十一万二千二百六十六人の遺体を処理したという崇善堂の埋葬記録を検察側が加算した結果の犠牲者数である。

  • いうまでもないが崇善堂の埋葬記録だけでは、2万と20万の差は埋まらない。 (Apeman)

「南京事件」後四ヶ月間、崇善堂が活動していなかった事は、昭和六十年八月十日付産経新聞が報道した阿羅健一氏のスクープ記事で証明されている。(資料11)


この事実だけで、松井大将個人の判決から崇善堂の「約十一万二千人」を引くと犠牲者数は、約マイナス一万二千人になってしまう。

  • なぜ「20万人」から引かない?(Apeman)

また、活動記録のあった紅卍字会の埋葬記録の中にも不自然な記述がある。それは、東京裁判に提出された埋葬記録一覧表によると、一ヶ所だけ「埋葬箇所と備考」が空白の日があり、ほとんどが三桁にもかかわらず、最大の埋葬数六四六六名となっている事だ。(資料12)その月日は、十二月二十八日となっているが、その日、南京は「曇り午後小雪を交へた雨夜雪になる」だったのです。



南京攻略戦に上海派遣軍参謀として従軍して、その後一九三八年二月から中支那派遣軍南京特務機関長になって一年間南京に居た大西一大尉が、一番詳細に南京の事を知る立場にあった。

  • またしても無根拠な「一番」。岡村寧次が調査させた「宮崎周一参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、抗州特務機関長萩原中佐等」よりも、大西一大尉が「一番」よく知りえたとする根拠は? (Apeman)

その大西氏は、強姦を一度見たと証言しているが、日本軍による暴行、略奪は「見た事がない。私は特務機関長として、その後一年間南京にいた。この間、南京はもちろん、蕪湖、太平、江寧、句容、鎮江、金壇、丹陽、揚州、除県を二回ずつ廻ったが虐殺を見た事も聞いたこともない」と証言している。また、四万三〇七一人を埋葬したという紅卍字会について「中国兵の死体は中国人が埋葬しました。埋葬するのに日本軍に連絡するように頼んだ事がある」とか「紅卍字会が中心にやっていた」と述べている。しかし、約十一万人を埋葬したという〝崇善堂"については「当時、全然名前を聞いた事はなかったし、知らなかった。それが戦後、東京裁判で、すごい活動をしたと言っている。当時は全然知らない。」と証言している。(『「南京事件」日本人48人の証言』)大西大尉の証言は、前述した阿羅健一氏のスクープ記事を裏付けている。

  • (引用者注)大西大尉は上海派遣軍2課の情報参謀で、やっちまえという虐殺命令を出したとして知られる長勇参謀の下にいた。


朝日新聞などは、『「南京事件」日本人48人の証言』で証言した自社の記者を含め前著証言者の誰にも取材しないで、自らかかわった日本人洗脳番組「真相箱」の南京の内容を正当化できる中国人の証言を中心に報道している。

  • 「真相箱」では「実に婦女子二万名が惨殺された」とされていたと、この「総括」自身が述べていたのではないか? 朝日新聞は「犠牲者2万人」説を正当化しようとしている、とでもいうのか?
    およそ犯罪報道において被害者側の主張に耳を傾けることは当然である。(Apeman)

中華民国軍政部長何應欽の軍事報告書(『何上将抗戦期間軍事報告』上冊文星書店(台湾)中華民国五一年六月)の南京攻略戦(上海から南京)での戦死者数(陣亡)は、三三〇〇〇名となっている。(資料13)


この軍事報告書には、南京攻略戦においての南京陥落前後から、それ以降のことを詳細に記載してあるが、南京に関した日本軍の「戦時国際法違反」としての「虐殺」は、一行も報告されていない。それは、大西一特務機関長の証言を裏付けている。また、一年目の死傷者数三十六万人は中国全土のものである。つまり北京や天津も含んでいた。

そして、南京陥落前の一九三七年十二月七日まで南京にいた蒋介石は、国民党の軍紀の乱れを
「抗戦の果てに東南の豊かな地域が敗残兵の略奪場と化してしまった。戦争前には思いもよらなかった事態だ。(中略)敗れたときの計画を先に立てるべきだった。撤兵時の略奪強姦など軍紀逸脱のすさまじさにつき、世の軍事家が予防を考えるよう望むのみだ」
と蒋介石の日記(十一月三十日の月間総括欄)に記載されていた事を二〇〇七年五月二十五日産経新聞が報道した。この国民党軍が南京城内に雪崩込んでいたのである。

  • (引用者注)松井石根司令官も、日本軍の軍紀の乱れを嘆き、陣中日記に記していたはずである。そういうことは、覆い隠そうというのか?

    昭和十三年二月六日 松井大将の日記から
    「 支那人民の我軍に対する恐怖心去らす寒気と家なき為め帰来の遅るる事固とより其主因となるも我軍に対する反抗と云ふよりも恐怖不安の念の去らるる事其重要なる原因なるへしと察せらる 即各地守備隊に付其心持を聞くに到底予の精神は軍隊に徹底しあらさるは勿論本事件に付根本の理解と覚悟なきに因るもの多く一面軍紀風紀の弛緩か完全に恢復せす各幹部亦兎角に情実に流れ又は姑息に陥り軍自らをして地方宣撫に当らしむることの寧ろ有害無益なるを感し浩歎の至なり」

    こういう重要部分を改竄・脱落させて平然としているのは、戸井田氏や中山氏が師と仰ぐ故田中正明氏のプロパガンダ方法論でもある。

世界紅卍字会南京分会長陳漢森は、比良艦長、土井中佐へ礼状を出している。そこには「…閣下は民衆が飢えている状況を察され、小麦粉と食用油を賜り、大勢の民衆の命をお助けになりました。且つ自らご指導に当たられました。(略)近隣である日中両国の親善を祈願したいと存じております。(以下略)」と述べている。(資料14)

  • (引用者注)比良艦長土井中佐は、南京城外揚子江岸下関区の東端にあった「宝塔橋難民区」に正月のプレゼントをしたようです。統治者である日本軍が食料物資を供給するのは当然の施政です。しかし被占領民としてはそれを当然のこととして礼を失することはできません。必ず「感謝状」をさし上げ、プレゼントのチャンスを増やそうと努力したでしょう。なお、その「宝塔橋難民区」でも日本軍の暴行から免れることはできなかったことも知っておく必要があります。

ところが、紅卍字会の陳会長が感謝状で述べた事と、まったく逆の証言を紅卍字会の許伝音副会長は、東京裁判で陳述している。

  • (引用者注)被占領民としての立場と、それを脱して法廷に立つ立場とが変わるのは当然でしょう。

南京攻略戦以前から敗戦まで陸軍将兵は、ポケットサイズの「陸軍刑法、陸軍懲罰令」を常時携行し、その第八十六條には「…婦女子ヲ強姦シタルトキハ無期又ハ七年以上ノ懲役ニ處ス」、また、第八十八條には「…死ニ致シタルトキハ死刑又ハ無期懲役ニ處ス」と第九章掠奪ノ罪で戦争犯罪に対して厳命されていた。(資料15)

また、松井大将は、南京攻略を前にして、国際法学者齋藤良衛博士を招いて助言を受け、「南京攻略要項(引用者注)ママ:正しくは南京城攻略要領」を指令していた。その内容は、七項目からなり、「不法行為等絶対ニ無カラシムルヲ要ス」とか「中立地帯(安全区)ニハ必要ノ外立入ヲ禁シ所要ノ地点ニ歩哨ヲ配置ス」「外国権益ノ位置等ヲ徹底セシメ絶対ニ過誤ナキヲ期シ」「略奪行為ヲナシ又不注意ト雖モ火ヲ失スルモノハ厳罰ニ処ス」などと不法行為の厳禁を松井大将自らも厳命していた。


  • (引用者注)厳命したけど守られなかったことは、「戦史研究所:杭州占領に伴う秩序維持と配宿等に関する丁集団(第十軍)の命令」http://homepage1.nifty.com/SENSHI/data/145.htmには
    「一、掠奪婦女暴行、放火事ノ巌禁ニ關シテハ縷次訓示セラレタル所ナルモ本次南京攻略ノ實績ニ徴スルニ婦女暴行ノミニテモ百餘件ニ上ル忌ムヘキ亊態ヲ發生セルラ以テ重複ヲモ顧ミズ注意スル所アラントス」
    とある

さらに松井大将は、南京城攻撃を前にして、上海派遣軍と第十軍の末端兵士に対しても訓戒を次のように述べている。
「南京ハ中国ノ首都テアル之カ攻略ハ世界的事件テアル故ニ慎重ニ研究シテ日本ノ名誉ヲ一層発揮シ中国民衆ノ信頼ヲ増ス様ニセヨ特ニ敵軍ト雖モ抗戦意志ヲ失ヒタル者及一般官民ニ対シテハ寛容慈悲ノ態度ヲ取リ之ヲ宣撫愛護セヨ」と発令していた。

  • 訓戒したことと、それが守られたかどうか、さらに守られなかった場合にどう対処したかは、それぞれ別の話である。飯沼上海派遣軍参謀長の日記から、朝香宮上海派遣軍司令官が、松井大将の統制入城などの指令を愉快に思っていなかったことがわかる。(Apeman)

この松井大将が現在、中国側の主張によるとホロコーストに比肩する「南京大虐殺」の責任者としてA級(注・A・B・Cは罪の大小でなく訴因の項目)戦犯で処刑された事になっている。しかし、東京裁判の松井大将に対する訴因を詳細に分析すると、「南京大虐殺」がなかった事を東京裁判が証明している。それは、A項(A級)戦犯として処刑された七名の中で、松井大将以外の六名は、事後法の「平和に対する罪」(A項)の訴因三十六項目の中で、二.六が有罪になっている。ところが、松井大将は「平和に対する罪」の訴因三十六項目すべて無罪であった。

  • 「平和に対する罪」は戦争の計画や謀議に参画したことに関するものだから、南京事件のような戦争犯罪には関係がない。軍政畑で要職についていたわけではない松井が「平和に対する罪」で有罪にならなかったのは不自然ではない。(Apeman)

そして、松井大将は、「通例の戦争犯罪」の訴因五十五項(俘虜及び一般人に対する条約遵守の責任無視による戦争法規違反)の一つだけが有罪で処刑されたのである。(資料16)

仮に中国側が主張するホロコーストに匹敵する「南京大虐殺」が国家による組織的「ホロコースト」であれば、人道上看過できない犯罪として松井大将は「平和に対する罪」と「人道に対する罪」がすべて無罪にはなりえない。

  • (引用者注)この一説は「仮に」で始まることで分かるように、中国側の主張を確認して述べているのではなくて、筆者の適当な想像の上にたって述べているに過ぎない。中国側が、ホロコーストという言葉と「南京大虐殺」とをどう結びつけているかは、明らかではない。おそらくこれは、 アイリス・チャン著『ザ・レイプ・オブ・南京』のサブ・タイトルが『The forgotten Holocaust of World War II(第2次世界大戦の忘れられたホロコースト)』とあることからの連想なのだろう。

  • 日独それぞれの国家犯罪・戦争犯罪の「象徴」として南京大虐殺がホロコーストに「匹敵」するということと、犯罪の性格として両者が類似しているかどうかは自ずから別問題である。ホロコーストは自国民(ユダヤ系ドイツ人、身体障害者など)に対する犯罪を含んでいるという点で南京事件とは性格が異なり、南京事件を裁くには「人道に対する罪」は不可欠ではなかった。(Apeman)

  • (引用者注)戦時国際法違反で有罪になったことが、戦時国際法違反の市民および捕虜「虐殺」の無罪証明になる?

この事実は、東京裁判において、「南京大虐殺」が虚構であった事を証明している事になる。

  • ならない。単に極東軍事法廷が松井石根を「人道に対する罪」「平和に対する罪」では有罪にしなかった、ということを示すだけである。(Apeman)

  • 直前に「訴因五十五項(俘虜及び一般人に対する条約遵守の責任無視による戦争法規違反)の一つだけが有罪で処刑されたのである」と書いてある以上、「南京大虐殺」が虚構どころか事実であった証明にしかならないはずだが・・・捕虜や一般人に対する条約遵守の責任を果たしていないわけだし。(scopedog)


5 《『偕行南京戦史』とは何か》…23


南京戦史は一九八〇年代の朝日新聞などの「南京大虐殺」大キャンペーンに対して、南京攻略戦に従軍した将兵が中心になって編集したと一般的に認知されているが、その実体は違う。その編集委員の中に戦場を知らない者が入っていた。

  • これは板倉由明サンのことか(笑) (Apeman)


その実態は『ゼンボウ』平成三年九月号で同編集委員、鵜飼敏定氏が「南京事件を旧陸軍の罪業の一つと位置づけて旧軍の罪業を暴き、虐殺の数字を検証して日本軍は南京で何万あるいは何千人を虐殺したかを明らかにする事と南京戦史を書く目的とする委員と戦史を書く事によって戦争の本質と戦場の実相を明らかにして南京事件とは何かを問おうとする委員とに分かれたため、総括者が両者の極端を捨てて、ほど良いところをとる所謂折中方針によって編集を指導した。参戦した委員と戦争を知らない委員との史観は相反した。」と述べている。

  • (引用者注)偕行社の『証言による南京戦史』は、そもそもが虐殺シロ説を確固たるものにしたいという趣旨で、南京戦に参加した会員からの証言を集め、戦史を確立しようとしたものであった。編者は畝本正己氏で機関紙「偕行」編集部も執筆中の討議に加わった。しかし会員からの証言の中には虐殺クロの証言が少なからずあり、それを否定することは出来なかった。その結果編者および編集部は、日本軍の不法行為を認め、その犠牲者数(畝本3~6千、板倉8千~1.3万)をあげて中国人民に謝罪した。 上記鵜飼氏の議論はそれが気に入らないという言いがかりであろう。

    偕行編集部「会員諸賢に」、および「証言による南京戦史―その総括的総括」参照。番外編には、鵜飼氏の編集部宛て批判文も掲載されており、偕行編集部がそれらに答えている。<会員投稿に答える>偕行編集部参照。

このような、戦後のイデオロギーが混入した状況で編集された『偕行南京戦史』は、正式な戦史でない事が明らかで、参考資料の一つ以上のものではない。

  • 戦後の民間団体である偕行社が編纂する戦史は、もともと「正式な戦史」であるはずがない。当然のことだが、「正式な戦史」でないからといって内容が不正確であるともいえない。「正式な特別職」である国会議員が書いたものだからといって内容が正確であるともいえない、ということと同じです。

二〇〇七年三月の「南京問題小委員会」に講師として参加された青山学院大学名誉教授で国際法が専門の佐藤和男博士は、『偕行南京戦史』に記載されている捕虜の処断を検証した。

(1) 第九師団歩兵連隊による安全区掃討作戦において摘出した便衣兵六六七〇名の処断。
(2) 第十六師団歩兵第三三連隊の太平門、下関、獅子山付近で捉えた捕虜三〇九六人の処断。
(3) 第十六師団歩兵第三〇旅団が南京西部地区警備中に捕らえた敗残兵数千人の処断。
(4) 第百十四師団歩兵第六六連隊第一大隊が雨花門外で捕らえた捕虜一六五七人の処断。
(5) 山田支隊が幕府山付近で捕らえた捕虜数千人の処断。

以上、右列記した事例について佐藤博士は、いずれも戦時国際法違反でないと断定し、現在、南京問題研究者が素人判断で捕虜の処断を「虐殺」とする研究に対して苦言を呈していた.(資料17)

佐藤博士が問題ないと断定した右(1).(5)の事例は、中国側も当時、戦時国際法違反があったと国際連盟に提訴していない。

  • 捕虜の処刑が問題ないという法的論拠がまるでない。
    あと、ここでいう「当時」とはいつなのか?戦争中であれば、(1)~(5)の事例のいずれも中国側が正確に知りえるはずもなく、提訴以前の問題。「当時」が戦後を指すのなら、ちゃんと容疑事実として挙がっているので事実に反する。(scopedog)

  • 「根拠不明」というscopedogさんの指摘への補足として。裁判と歴史記述とでは評価基準が違っているのは当然である。歴史記述が取り上げるものは、法的に立件されたもの、といった狭い範囲に限られない。(Apeman)


6 《「南京大虐殺」の政治宣伝とは何か》…25


一九三八年二月の国際連盟での顧維釣中国代表の演説「二万人の虐殺と数千人の暴行」が政治宣伝の最初であれば、文書による中国国民党政府の政治宣伝は、マンチェスター・ガーディアン記者ティンパーリーによる『戦争とは何か=中国における日本軍の暴虐』が原点になる。

郭沫若『抗日戦回顧録』によると、国民政府政治部は陳誠を部長に、周恩来を副部長とし、その下に四つの庁を置いて抗日宣伝、情報収集等を行っていた。『戦争とは何か』は、一九三八年七月、中国語に訳され、郭沫若が序文を書き抗日宣伝の教材として頒布された。

ティンパーリーが中国国民党中央宣伝部の顧問だったことは、鈴木明氏が突き止めた。そして、前掲書が国民党の宣伝本だった事は、北村稔立命館大学教授が中国国民党中央宣伝部国際宣伝処長曾虚白の『自伝』に「我々は手始めに、金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いて貰い、印刷して発行する事に決定した・・・・二つの書物は、売れ行きの良い書物となり、宣伝の目的を達した」と記載されている事を明らかにしている。

  • 井上久士教授の反論「つまり国際宣伝処が金を渡して本を書かせたのではなく、ティンパリーが「正義感に燃え」て編集した原稿を国際宣伝処は買い取ったのである。」(※)を完全に無視している。反論を無視する主張に学術的な価値はない。 (Apeman)

  • (引用者注)(※)『現代歴史学と南京事件』(柏書房)所収の井上久士「南京大虐殺と中国国民党国際宣伝処」のこと。ゆうさんの「小さな資料集『南京事件 初歩の初歩』の後尾に収録されている。

日本での「南京大虐殺」の政治宣伝は、東京裁判を原点とするが、活字による「政治宣伝」は、一九七一年の朝日新聞の連載「中国の旅」からであろう。それは、写真集としての中国の旅『中国の日本軍』(本多勝一著・一九七二年)の巻頭に郭沫若(中日友好協会名誉会長)の推薦文が掲載されている事が物語っている。(資料18)

また、『中国の日本軍』の解説は、中国帰還者連絡会会長の藤田茂氏が寄稿している。藤田茂氏は、一九六五年周恩来首相に招待されて、中帰連会員とともに人民大会堂を訪れている。

  • ここの文は意図が不明(というよりあまりにも下劣な印象操作で醜悪極まる)。
    中国を訪れた人間が解説を寄稿したら、その本は信用できなくなるのか? 周恩来に招待されたら一体なんだというのか?
    藤田茂は元第59師団長で中国側に戦犯として捕らえられ釈放された中では高位の将官であるので、中国との行き来があってもおかしくない。

    もし、このような関係を以て藤田氏が中国側のスパイであるかのように印象付けたいのであるなら人として最低である上に、安倍晋三の祖父・岸信介がアメリカのスパイであることも疑うべきだろう。 (scopedog)



7 《「南京大虐殺」の捏造写真について》…26


本来、報道写真は「誰が」「いつ」「どこで」撮影したものか明らかに出来ない写真などは無価値である。ところが、「誰が」「いつ」「どこで」撮ったものかわからない写真が「南京大虐殺」の証拠写真として一人歩きしているのが現状である。また、そのような写真を一つ一つ検証する事は、中国側の策略に踊らされている事になる。

  • (引用者注)大虐殺は写真によって証明されているのではなく、日本軍兵士の証言や日本軍の陣中日誌などによって実証される。写真は「一つ一つ検証」いくなかで、その写真が撮影された時の状況がわかってくる。「誰が」「いつ」「どこで」撮影したものか、その要件がそろわない無名の兵士が撮影したものでも、状況検証によって立派な史実資料になりうる。

日本側の立場としては、そのような写真をまとめて報道写真として無価値であると声を大にして訴えれば済むことである。


8 《「南京大虐殺」の政治宣伝にたいして》…27


「南京大虐殺」の政治宣伝は、一九三八年の国際連盟理事会において、顧維釣中国代表が「二万人の虐殺と数千の女性に対する暴行」があったとする政治宣伝が原点であると判断した。南京問題小委員会は、顧中国代表が国際連盟の「行動を要求」したにもかかわらず国際連盟は、決議案に「日本非難決議」として採択しなかった事を最重要と判断する。

  • すでに述べたように、中国代表の演説は決議案が作成された後に行なわれている。(Apeman)

また、東京裁判において、南京攻略戦総司令官松井石根大将の判決で、「平和に対する罪」「人道に対する罪」の訴因すべてが無罪だった事を重視するものである。

以上、人道に反する「南京大虐殺」は、国際連盟、東京裁判においても否定されていたものと判断する。

尚、南京攻略戦での犠牲者数に関しては、当時、世界最大の取材班を送り込んでいた朝日新聞約八十名、毎日新聞約七十名の両社とも、二〇〇七年二月「南京大虐殺」の犠牲者数は「特定しておりません」と公式見解を出している(資料19)。

南京攻略戦を一番詳細に取材していた両新聞社ですら、特定できない犠牲者数を国会議員が特定する事など不可能である。

  • (引用者注)両新聞社は、昭和12年の上海―南京の戦争の時には、軍のお先棒を担いで翼戦報道に邁進していた。両新聞社が、戦争の被害者に目を向けるようになったのは戦後になってからのことである。昭和12年のころから戦争被害に目を向けていたら、軍の意向に逆らってでも犠牲者数の調査をしていたかもしれないという意見もあるが、昭和12年には既にジャーナリズムの灯は殆ど消えていた。


国家間で平和条約を締結後の歴史認識問題は、歴史の専門家の研究に委ねられる事と判断する。

  • ならば黙っていてはどうか? そして「歴史の専門家」の研究成果を尊重してはどうか? Apeman)

同小委員会は、一次資料を中心にした検証の結果、南京攻略戦が通常の戦場以上でも以下でもないとの判断をするに至った。

  • 小委員会は、偕行社が明らかにした捕虜殺害を「いずれも戦時国際法違反でない」としているが、捕虜殺害そのものは否定していない。合法・違法は敢えて問わないとして、短期間にこれほど(六六七〇+三〇九六+数千+一六五七+数千)の数の捕虜を殺害した事例が、第二次世界大戦の全戦線を通じてどれだけあるというのか?(Apeman)


9 《報道機関への要望》…29


南京攻略戦を取材した世界のメディアは、自社が報道した当時の記事と他社が報道した記事の真偽を再度検証して真相を明らかにして頂きたい。


10 《中国への要望》…29


一.中国の温家宝首相が二〇〇七年四月に来日して国会で演説したように、「日中友好」は重要な事である。そこで、日中友好親善を推進する為にも、中国側歴史研究者も間違いを認めた「南京屠殺記念館」に表示してある犠牲者数三十万人を直ちに外して頂きたい。

一.各戦争記念館及び「南京屠殺記念館」に展示してある写真のほとんどが「誰が」「いつ」「どこで」撮影した写真かを明らかにしていない。このような写真は、国際的に報道写真として無価値である。また、戦時中、日本人が撮影した写真の解説を変えて展示している写真もある。
以上、報道写真の原理原則を満たしていない、日本に関係した写真は、中国が速やかに撤去することで、二十一世紀の真の日中友好親善が推進できるものと判断した。

  • 個別の検証を行なわずして撤去を要求することが「友好親善」に役立つとは、ずいぶんと虫のいいはなしである。(Apeman)

平成十九年六月十九日

「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」
会長中山成彬
事務局長西川京子
南京問題小委員会
委員長戸井田とおる

結局この戸井田報告は、昭和62年発行の田中正明著「南京事件の総括 虐殺否定15の論拠」の焼き直しであり、すでに公開されていた外務省史料を、『新発見!』『新発見!』と騒ぎ立てて新たな味付けに使った、モノのようです。
田中正明氏の論点はここにありますが、無用なmusicにはご注意ください。


11 資料一覧


(資料1)笠原十九司氏、一九九八年十二月二十三日号の「SAPIO」

  • (引用者注)笠原十九司氏の1998年12月23日号「SAPIO」論文は、「ホドロフスキの記録帳」さん書き起こしていますhttp://d.hatena.ne.jp/Jodorowsky/20080216#1203164119。それを読めば、この報告書の引用が典型的な『トリミング末法』であることが分かります(笑)。

(資料2)第百会期国際連盟理事会(一九三八年一月二十六日~二月二日)の議事録


(資料3)二〇〇七年二月二十一日衆議院内閣委員会で取り上げられ、戸井田とおる衆議院議員の質問


(資料4)昭和十三年二月十八日付 外務省機密文書「第百会期国際連盟理事会の議事録に於ける日支問題討議の経緯」

  • (引用者注)「機密文書」を「発見」したと勿体ぶっているが、これは既にアジア歴史資料センターで公開済みの資料だ。レファレンスコード B04013944900

(資料5)一九三七年十二月十七日付朝日新聞での南京戦従軍記者九名による紙上座談会

(資料6)朝日新聞上海支局次長 橋本登美三郎の証言「『南京事件』日本人48人の証言」(阿羅健一著)

(資料7)ニューヨーク・タイムズ、ロンドン・タイムズなどの一九三七年十二月~一九三八年一月まで二ヶ月間の報道

(資料8具体不明)NHKが「真相箱」を翻訳して放送した?

(資料9具体不明)アリソン事件関連?

(資料10)『ドイツ外交官の見た南京事件』一四三頁

(資料11)昭和六十年八月十日付産経新聞、阿羅健一氏の崇善堂に関する記事

  • (引用者注)南京事件FAQ「崇善堂が埋葬活動をしていたことは事実」参照。「1938年2月6日付けで南京市自治委員会に宛てた手紙で「査するに弊堂が埋葬隊長を成立させてから今まで一ヶ月近くたち」とあるので1月から作業をはじめていることがわかる。」

(資料12)紅卍字会の埋葬記録?


(資料13)中華民国軍政部長 何應欽の軍事報告書(『何上将抗戦期間軍事報告』上冊 文星書店(台湾)中華民国五一年六月)


(資料14)世界紅卍字会南京分会長 陳漢森の、比良艦長、土井中佐への礼状。


(資料15)「陸軍刑法、陸軍懲罰令」

(資料16具体不明)松井石根に対する東京裁判判決?

(資料17具体不明)佐藤和男博士の『偕行南京戦史』への苦言

(資料18)『中国の日本軍』(本多勝一著・一九七二年)の巻頭に郭沫若(中日友好協会名誉会長)の推薦文

(資料19)朝日新聞、毎日新聞の、二〇〇七年二月「南京大虐殺」の犠牲者数は「特定しておりません」との公式見解?




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