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「戸井田報告」=「南京の実相」批判のページ(1)


日本の前途と歴史教育を考える議員の会
平成十九年六月十九日

南京問題小委員会の調査検証の総括


日本の前途と歴史教育を考える議員の会」が2007年6月に記者会見を開き、南京問題小委員会(委員長:戸井田とおる)報告書を発表しました。2008年 8月 11月1日には、その日本語、英語の両方を収録して「南京の実相」という本にしたそうです。しかし、若干の資料を除いて本文は「報告書」のままだと聞いています。

「戸井田報告書」はWEBでPDF公開されていますのでここに転載します。
http://www.toidatoru.com/pdf/nankin.pdf(戸井田徹サイト)

みんなで論点、批判点を出し合いましょう。コメント欄に書き込んでいただいたものは、逐次、本文に書き込んでいき、批判のページを完成させたいと思います。

私がこの「戸井田報告」に注目したのは、産経新聞の誤報に関連してのことです。この誤報には、「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」の活動が連動しています

目次(場所を分かりやすくするために、章の見出しに番号をつけました)

リンク


0 (まえがき)


二〇〇六年から二〇〇七年にかけて、米国を巻き込んで「南京大虐殺」の宣伝映画が複数制作される事が明らかになった。

  • 具体性、客観性を欠いた「宣伝映画」との決めつけ。(Apeman)


これは、過去の日本人の名誉を貶めるだけでなく、現在、未来にわたって、日本人が世界で最も残虐な民族と認識される危機的状況にあると判断せざるを得ない。

  • (引用者注)第2次世界大戦中にナチスが行った戦争犯罪を反省しそれを今でも糾弾し続けているドイツは、今そして、未来にわたって、はたして世界で最も残虐な民族だと認識されるだろうか?

  • これは「日本人」なる民族に固定した「民族性」があるとする本質主義的な民族観に由来する誤った議論である。仮に1937-1938年の南京大虐殺を根拠に日本人が「現在、未来にわたって」残虐であると主張する者がいるなら、その民族観の誤りを批判すればよいのであり、過去の虐殺を否定することは(非本質主義的な民族観をもつ者に対しても)かえって「現在」の日本人の人権意識の低さを印象づけることにしかならない。(Apeman)

二〇〇七年一月三十日、東京財団の招きで来日した張連紅・南京師範大学教授(南京大虐殺研究センター主任)と程兆奇・上海社会科学院歴史研究所研究員は、「南京大虐殺」に関して「三十万から四十万人の虐殺数に疑問を呈し、八十年代の中国の研究は感情的で政治的な色彩を帯びていた」事を認めた。(産経新聞二月一日)。

「南京問題小委員会」は、これらの状況を的確にとらえて、二〇〇七年二月九日、「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」の中に発足した。

  • (引用者注)構成員(平成19年現在)
    会長:中山成彬
    事務局長:西川京子
    南京問題小委員会 委員長:戸井田徹(II)
    慰安婦問題小委員会 委員長:
    沖縄戦検証のための小委員会:萩生田光一
    会員:渡辺喜美(II)、岸田文雄(III)、大野松茂、佐藤勉、今村雅弘、桜井郁三、江渡聡徳、戸井田徹、中山泰秀(III)、山崎正昭
    Wikipediaより

中国政府関係者が、これまで公式見解として来た南京での「虐殺数三十万人」を否定した事は、言論(歴史検証)の自由がない中国の歴史認識問題は、政治そのものと認めたのであり、日本の政治家も日中間の歴史認識問題に関して、客観的一次資料に基づく基本的知識が必要と判断した。

  • これが張連紅・程兆奇両氏の発言を指しているのであれば、「中国政府関係者」というのは稚拙な印象操作に過ぎない。(Apeman)

  • 「客観的」「一次資料」といった概念をどのように用いているか、各論への批判をへたうえで改めて立ち戻る必要があろう。(Apeman)

  • (引用者注)戸井田さんもしくは小委員会の皆さんに、南京事件 初歩の初歩をお読みになるようにお勧めします

1 《中国の「南京虐殺数」の動向》…4


「南京大虐殺」の枕詞「犠牲者三十万人」は二〇〇六年十二月二十六日に発足した「日中歴史共同研究会」以降、中国の有力サイトから〝三十万人"との数字が消えている。

  • 不明な「中国の有力サイト」。(Apeman)

  • (引用者注)最も「有力なサイト=http://www.nj1937.org/」ではその数字は消えていないのだが? それにしても、「象徴的な数字」から「実証的な推定数」を追求する方向へ向うなら、それは良いことだ。

中国の公式見解の変更は、アイリス・チャン氏が「ザ・レイプ・オブ・南京」の中で主張する「二十六万から三十五万人が虐殺された」を否定した事になる。

今後、世界で多数製作される「南京攻略戦」の映画は、「ザ・レイプ・オブ・南京」を参考にしているものが含まれている事で、それらの映画が「政治宣伝映画」と中国が認めた事になる。

  • (引用者注)別にそれらの映画は、「ザ・レイプ・オブ・南京」に従うものでも30万人を強調するものでもない。

  • 日本語として破綻しているうえ、具体性も客観性もない一方的な主張に過ぎない。どの映画が 「ザ・レイプ・オブ・南京」を参考にしたというのか? 「ザ・レイプ・オブ・南京」を参考していない映画には関係のないはなしにすぎない。(Apeman)

過去、「犠牲者三十万」は、一九九七年十二月、東京で開催された「南京大虐殺六十周年国際シンポジウム」で、笠原十九司氏(都留文化大学教授 (引用者注)正しくは都留文科大学 )が、「ラーベは五.六万と言っているが、彼の目の届かない郊外や、彼が去った後の犠牲者を足すと三十万人ぐらいになるはず」との見解を明らかにした。

すると中国側専門家孫宅巍氏は、「三十万人は南京城内だけの数字である。地域や時期を勝手に広げてもらっては困る」と異議をとなえていた。


  • (引用者注)シンポジウムでの実際のやり取りは、

    藤原 もうひとつ問題を提起したい。笠原先生は近郊農村を含めた範囲についての報告だったが、孫先生の「南京大虐殺の規模について」という報告のなかで、範囲はどのようにとっておられるのか伺いたい。これがはっきりすると日本側との間で整合性ができると思うので。

    孫 私は南京のまわりの県を含めるという笠原先生の意見に賛同する。しかし犠牲者数については問題がある。私たちが言っている三〇万というのは周りの六県その他地域を入れていない。これはあらたな課題として考えていきたい。

    『南京事件をどうみるか』p146より/南京事件FAQ「事件範囲を広げた日本の学者が怒られたというのはデマ」

その一年後、日本の代表的「南京大虐殺」派の研究者である笠原十九司氏は、一九九八年十二月二十三日号の「SAPIO」(資料1)に掲載された論文の中で、前出の孫宅巍氏の見解を否定する「南京城内では、数千、万単位の死体が横たわるような虐殺はおこなわれていない」と断言している。

  • これも前出南京事件FAQ「事件範囲を広げた日本の学者が怒られたというのはデマ」参照。
    (単なる推測ですが、中国語の「城」には「都市」という意味がありますので、ひょっとすると孫宅巍氏が「南京市」の意味で「南京城」と発言したのを当日の通訳、ないし秦氏本人が誤解したという可能性はないでしょうか? この点、必要ならば笠原先生に問い合わせのお便りを出してもよいのですが、そうするまでもなくよく事情をご存知の方はおられますでしょうか。)(Apeman)

  • (引用者注)行政区としての「南京市」は、城壁の外の郊外も含みます。下関(シャーカン)、雨花台はもちろん、幕府山事件の現場もみな「南京市内」です。孫宅巍氏がいってる範囲は、そうした城壁の外も含めた「南京市」で、そこでの犠牲者が30万といってるのだと思います。笠原氏はさらにその外側の6県を含めることを主張しています。参照:ゆうさん「小さな資料集」二十万都市で三十万虐殺?中国側が示す主な虐殺地点も、多くは城外ですが南京市内で周囲6県ではありません。「城内」という言葉を持ち込んで混乱させているのは秦郁彦氏だと思います。

  • (引用者注)笠原十九司氏の1998年12月23日号「SAPIO」論文は、「ホドロフスキの記録帳」さんが書き起こしていますhttp://d.hatena.ne.jp/Jodorowsky/20080216#1203164119。それを読めば、この報告書の引用がお決りの『トリミング手品』であることが分かります(笑)。
    ▼戸井田報告書による引用:
    「南京城内では、数千、万単位の死体が横たわるような虐殺はおこなわれていない」
    ▼笠原氏の原文:  
    「南京城内では、数千、万単位の死体が横たわるような虐殺はおこなわれていない。 集団虐殺のほとんどが城外、郊外、長江岸でおこなわれたのである。
    戸井田小委員会は文章の後半をカットして、城内での大量虐殺を消すついでに城外の大量虐殺をも消してしまったのです。

現在、我が国では「南京大虐殺」派といえども、中国側の主張する南京で「三十万人の大虐殺」を認める研究者はほとんどいなくなっている。


2 《国際連盟議事録の資料としての価値》…5


検証するにあたって、「南京大虐殺」があったとする一九三七年十二月十三日から翌三八年二月までの公文書を重要な一次資料と判断して、第百会期国際連盟理事会(一九三八年一月二十六日.二月二日)の議事録を入手した。(資料2)

  • 「重要な」の恣意的な判断。この期間のものが「重要」といいながら、同時期の旧日本軍側の資料を無視している。(Apeman)



その中で、顧維鈞中国代表は「南京で二万人の虐殺と数千の女性への暴行」があったと演説し、国際連盟の「行動を要求」をしても、国際連盟は、一九三七年十月六日の南京・広東に対する「日本軍の空爆を非難する案」のように採択しなかった。

  • (引用者注)「ただ、新聞を読み上げただけのことじゃないか!」とは的確すぎるStiffmuscleさんの指摘

  • 今も昔も、国際社会は重大な人権侵害が事実であると認めれば必ずそれに対してふさわしい対応をする、というような単純な世界ではない。(Apeman)

  • 38年2月1日付けの「中国政府の提訴に基づく決議案」では、37年10月6日の決議を「想起し」、その決議に「最大限の注意を喚起」し、「極東紛争の公正な解決に寄与するため、今後のあらゆる手段の可能性を検討するいかなる機会も逸さないことを確信する」としており、中国側の提訴が完全に無視されたわけではない。(『ドイツ外交官の見た南京事件』、136頁) (Apeman)

この事実は、東京裁判での二十万人や中国側が昨年まで主張していた公式見解三十万人と桁が違う。

  • 一般論としても大規模な出来事の全貌が明らかになるのには時間がかかるのであって、まして事件直後にきちんとした調査が行われなかった南京事件の場合、38年2月段階での主張と戦後の主張を比べて「桁が違う」と言うことにほとんど意味はない。(Apeman)

また、その国際連盟議事録の「二万人の虐殺」は、蒋介石軍からの報告ではなく、米国人ベイツ教授やフィッチ牧師の伝聞を記事にしたニューヨーク・タイムズなどの新聞報道に基づくものだった。ちなみに、ベイツ教授もフィッチ牧師も単なる「第三者」ではなかったのである。フィッチ牧師は、反日活動をしていた朝鮮人の金九を自宅に匿った前歴のある人物であり、ベイツ教授は中華民国政府の顧問だった。


  • (引用者注)わが国が明治期に東京帝国大学に雇った「お雇い外国人」教授たち。彼らは近代国家建設中の日本帝国政府の顧問だった。それを思えば、建国間もない中華民国が、ナンバーワン学府である南京大学の外国人教授を顧問として遇するのは極めて自然なことだ。また、そもそもの「ベイツ=中華民国顧問説」自体が実に怪しげなもののようだ。http://www.geocities.jp/yu77799/bates1.html

蒋介石軍の将兵は、一九三八年一月になると、南京城内安全区から脱出して、蒋介石に南京城陥落に関した軍事報告をしている。

  • (引用者注)戸井田さん想像(創造?)の一行!! 一体なんという名の軍事報告なのでしょうか?

その時点で「戦時国際法違反」を実証できる報告を蒋介石が受けていたならば、顧維鈞中国代表は、国際連盟での演説に取り入れていたであろう。

  • これも「情報戦」を標榜する面々にしては素朴に過ぎる見方。すでに欧米人による報道があるのだから、国際社会に訴えるにはそちらを援用した方が中国側の調査(38年1月の段階では完全な調査足り得ないのは当たり前)に依拠するより説得力がある、と考えても不思議はない。 (Apeman)

顧中国代表は、「戦時国際法違反」になる事実を確認できなかった事で、「デマ」に基づく新聞記事を援用せざるを得なかった。

  • (引用者注)プロパガンダ文書では、このような表現をするのも致し方ないのでしょうか? 戸井田さん。その新聞記事が「デマ」に基づくものだという証明はどこにありますか?

「南京大虐殺」論争は、様々な資料に基づいておこなわれて来たが、中国としても一番正確に把握していた時に出した「二万人の虐殺」との数字と「行動を要求」していた事が記載されている国際連盟議事録が白眉の史料である。そして、南京陥落前後から国民党は、約三〇〇回もの記者会見をしていたが、その中で一度も「南京虐殺」があったと言っていない。それは、「南京虐殺」がなかった事の証明と主張している研究者がいるが、国際連盟議事録は、その状況証拠を裏付ける事のできる決定的資料である。国際連盟の会議の場で顧中国代表が「南京虐殺」を訴えても無視された事を、中国は再度記者会見で訴えていなかった。

  • (引用者注)「中国としても一番正確に把握していた時」って?? 日本軍制圧下の情報密閉中の都市ですよ!!

この議事録の問題は、二〇〇七年二月二十一日衆議院内閣委員会で取り上げられ、戸井田とおる衆議院議員の質問にたいして外務省は「中国代表の顧維鈞という人物が、南京における旧日本軍兵士による殺害や略奪行為について言及した(略)一方、決議においては、南京事件について明示的な言及はございません。」と明確に答弁している。(資料3)


この国際連盟の議事録は、『ドイツ外交官の見た南京事件』(石田勇治・編集・翻訳大月書店、二〇〇一年)でも要約され紹介されている。

  • (引用者注)WEBでは、ゆうさんの「小さな資料集」http://www.geocities.jp/yu77799/chuugoku.html。 原訳に「南京と漢口」とあるのは正しくは「南京と杭州」=Nanking and Hangchow 、また「アメリカ人教授と外交使節団」は正しくは「アメリカ人の教授と宣教師たち」=American professors and missionaries 。ドイツ語経由の翻訳のためか。

しかし、「二万人の虐殺」と「何千人もの女性が辱めを受けた」事は記載されているが、顧維鈞中国代表が国際連盟に「行動を要求」した最重要部分を「以下、略」として削除している。

この議事録は、二〇〇一年に明らかになっていたので、資料価値を低く見る研究者もいるが、「行動を要求」していた事まで明らかになっていなかったのである。

  • これまた「最重要」という語の恣意的な使用による印象操作。顧維鈞の演説は議長が決議案を提示した後に行なわれている。「行動を要求→決議案の作成」という順序ではなく「決議案の作成→行動を要求」という順序なのであり、顧維鈞の「要求」が決議案作成の過程で斥けられたのではなく、決議案に具体的な「行動」が盛り込まれなかったことへの不満の表明として「行動を要求」したと解すべき。なにをもって「最重要部分」とするのか、意味不明。 (Apeman)

また、南京問題小委員会は第百会期国際連盟理事会の議事録を翻訳した昭和十三年二月十八日付外務省機密文書「第百会期国際連盟理事会の議事録に於ける日支問題討議の経緯」を発見した。(資料4)

  • (引用者注)上記のように「機密文書」を「発見」したと勿体ぶっている。「戸井田報告」を単行本「南京の実相」に仕立てた編者水間正憲氏も次のように述べている
    「その外交文書は、当時「機密」扱いで、 現在も非公開になっている 一九三八年二月十八日付の「第百回国際連盟理事会に於ける日支問題討議の経緯」だった。」と。
    しかし、これはとんでもない虚っ八である。既にアジア歴史資料センター公開済みの資料だ。レファレンスコード B04013944900

  • (引用者注)なぜ機密文書だったかというと2通りの理由があるであろう。一つは、国際連盟を脱退した日本政府が資料入手に「機密」ルートを使ったため。二つ目は、国際的に日本非難の議論が行われているということを、国民には伏せておきたかったこと。国際連盟の存在自体を国民の前から消したかったのかもしれない。

その中の〈四国会談に於ける決議案作成事情〉(英、仏、蘇、支)の項で「…顧(中国代表)が第一に提出したる対日制裁の点は英仏の拒絶に依り(略)」との状況にもかかわらず、決議の採択を前にした演説で顧維鈞は「日本の侵略の事実、日本軍の暴行、第三国の権益侵害、等を述べ連盟の行動を要求する趣旨の演説を為せり」とある。

その演説の要旨は、広田弘毅外務大臣に報告されていた。この機密文書を総覧すると、事前会議で日本非難決議の通らない事を承知していたにもかかわらず、顧中国代表が執拗に国際連盟の「行動を要求」していた実態が明らかになっている。

  • (引用者注)今日の日本政府が北朝鮮拉致事件に関連して、経済制裁決議が通らないことを前提として北朝鮮非難演説をしたとしても、それをもってとやかくいう人はいないだろう。

これは、中国の「南京大虐殺」の政治宣伝の原点が、顧中国代表の国際連盟での演説にあり、ここからスタートしていたと見る事ができる。

  • 大仰な表現の割に内容は実に乏しい。南京事件は37年12月に始まったのだから、38年初頭の理事会が中国にとって日本軍の「暴虐」を国際社会に訴える最初の機会になったことは当たり前のことに過ぎない。(Apeman)

中国の「南京大虐殺」の「政治宣伝における犠牲者数」は、八十年代が「三十万人.四十万人」と中国側が認めたが、南京の状況を一番把握していた当時の「政治的犠牲者数」は「二万人」だったのである。

  • (引用者注)それは、英米新聞報道を演説に引用しただけのことだろう。
    「南京で日本兵によって虐殺された中国人 市民 の数は二万人と見積もられ、その一方で、若い少女を含む何千人もの女性が辱めを受けました。」


3 《「南京大虐殺」があったとする一九三七年十二月と一九三八年一月。メディアはなにを報道していたか》…9


中国が主張して来た南京で「三十万人の虐殺」は、当時のニューヨーク・タイムズ、ロンドン・タイムズ、朝日新聞、東京日日新聞(毎日新聞)を調査することで荒唐無稽なことは一目瞭然となる。

新聞記事を検証する前に、基本的な事を説明すると、南京城内の広さは東京の世田谷区(58・81平方キロ)より狭く、城内は、(場外の下関を加えて)約40平方キロ。その約十分の一が安全区(3・8平方キロ)だった。そこには、日本軍将兵も勝手に入る事が禁じられていた。その城内では、外国の報道陣が自由に取材し、朝日新聞の取材班は約八十名、毎日新聞は約七十名の大取材班を投入していた。(昭和十三年一月号『文芸春秋』「南京へ!南京へ!」)

  • 「そこには、日本軍将兵も勝手に入る事が禁じられていた。」>しかし現実には出入りしていた。安全区委員会のメンバーが記録している他、日本側の記録もある。(Apeman)

  • 「その城内では、外国の報道陣が自由に取材し」>南京陥落当時も南京市内にとどまっていた外国のジャーナリストは5名に過ぎない。 http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/47.html 「自由」かどうかは別として彼らが取材した結果として、日本軍による殺人、略奪、強姦が報道されたわけである。(Apeman)

  • (引用者注)そして誰もいなくなった! パネー号事件によって、「十二月十六日以降南京には外国人記者・カメラマンは一人もいなくなったのである。」(『アジアの中の日本軍』笠原十九司p76http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/53.html 

ちなみに、現在、全国紙の世田谷区を担当している記者は一名で、常駐している訳ではないとの事である。

世田谷よりも狭いところに、朝日新聞一社だけでも約八十名の取材班が出入りしていたとなると、電信柱一.二本倒れても気が付く取材精度を維持していたと推察される。


それは一九三七年十二月十七日付朝日新聞での南京戦従軍記者九名による紙上座談会で、守山記者が「皮肉な話を一つ(略)十三日(略)敵砲陣地を占領したが(略)大砲四門が何処製かと思ふか?『昭和二年大阪工廠というマークがついているではないか』(略)軍官学校の校庭に立つ(略)孫文の銅像の裏の銘を読むと民国十八年日本梅屋庄吉製造とある(以下略)」まさに中国側が言う「大虐殺」が行われていた十二月十五日頃、のんびり大砲や銅像を鑑賞できる時間があったのである。(資料5)

その朝日の記者の一人、山本治上海支局員は「事件というようなものはなかったと思います。朝日でも話題になっていません」と「『南京事件』日本人48人の証言」(阿羅健一著)の中ではっきり答えている。

また、陥落後、朝日は五回の南京写真特集を掲載している。

そのタイトルは、
[1] 昭和十二年十二月二十日「平和甦る南京《皇軍を迎へて歓喜沸く》」(河村特派員撮影)
[2] 昭和十二年十二月二十二日「きのふの敵に温情《南京城内の親善風景》」(河村特派員撮影)
[3] 昭和十二年十二月二十五日「南京は微笑む《城内點描》」(林特派員撮影)
[4] 昭和十二年十二月三十日「手を握り合って越年《日に深む南京の日支親善》」(林特派員撮影)
[5] 昭和十三年二月十三日「五色旗の下に《南京復興の足どり》」(林特派員撮影)
などと、単発記事を交えて報道している。毎日新聞も朝日と同じような報道である。


戦後、戦時中は、検閲で報道の自由がなかったなどといわれているが、南京攻略戦で朝日新聞の取材班全体の指揮をとった上海支局次長橋本登美三郎氏は当時の報道規制について「何も不自由には感じてない。思った事、見た事はしゃべれたし、書いていたよ」(前掲書)と証言している。(資料6)

  • 山本証言、橋本証言、いずれも都合の悪い証言を無視している。当時の日本人ジャーナリストは一種の「共犯」であることをふまえてその証言を聞く必要がある。なお山本治氏自身、同所で示唆に富む発言をしている。
    「それと虐殺という表現ですが、戦場では、普通最も悪いとされていることが、最大の功績になるわけです。平和になって平和時の感覚で言うのは、何も意味がないと思います。」
    すなわち、山本氏の「事件というようなものはなかったと思います」という認識は、旧軍の価値観を共有した上でのそれでしかない、と疑う余地が大いにある。(Apeman)


南京攻略戦に同行取材した日本のメディアは、朝日、毎日以外にも報知新聞(現、読売新聞)、読売新聞、同盟通信(現、共同、時事)、新愛知新聞(現、中日)、福岡日々新聞(現、西日本)、都新聞(現、東京)、福島民報など全国の主要メディアも参加していた。その他、大宅壮一、西條八十、草野心平、林芙美子、石川達三、小磯良平など、作家、詩人、評論家、画家も多数、南京に入城しているが、戦後、新聞労連の活動を熱心にしていた朝日と毎日の数名以外、南京で「虐殺」があったと語ったものはいない。


南京攻略戦当時、日本は国際連盟を脱退していたので、南京城陥落を取材していた欧米の報道機関は、単なる「第三国」の報道機関でなく、よりきびしい目で旧日本軍の動向を取材していた事になる。そこで、ニューヨーク・タイムズ、ロンドン・タイムズなどが、一九三七年十二月.一九三八年一月までの二ヶ月間どのように報道していたかを精査して、朝日、毎日の記事とつき合わせると、南京陥落後の実態がより鮮明になってくる。(資料7)


ニューヨーク・タイムズとロンドン・タイムズの一九三七年十二月と一九三八年一月の記事を検証すると、一九三七年十二月は、両紙ともパネー号(米)の撃沈とレディーバード号(英)が攻撃された記事が最大のニュースである。ニューヨーク・タイムズでは、その関連記事を同十二月十三日から三十日まで連続十八日間報道している。また、ロンドン・タイムズでも同十二月十三日から三十一日まで四日間の休刊以外、連続十五日間報道していた。

  • 自国(民)の被害に関心をもつのはいまの日本のマスコミも同じ。中国人に対する殺人、強姦等も報道されていた。(Apeman)


連合国総司令部(GHQ)は、極東国際軍事裁判(東京裁判)を先導するように、占領下の日本人を自虐史観に洗脳する為にNHKのラジオで放送された「真相箱」(GHQ制作〉の中で、南京での出来事として、「我が軍(旧日本軍)が南京城壁に攻撃を集中したのは、昭和十二年十二月七日(実際は同十二月十日正午以降)でありました。これより早く上海の中国軍から手痛い抵抗を蒙った日本軍は、その一週間後その恨みを一時に破裂させ、怒涛の如く南京市内に殺到したのであります。この南京大虐殺こそ、近代史上稀に見る凄惨なもので、実に婦女子二万名が惨殺されたのであります。」(『「真相箱」の呪縛を解く』小学館文庫)

右文章の十二月七日から一週間後は十四日です。それは、ロンドン・タイムズ十二月十八日の記事で「十四日…通りには死体が散在したが女性の死体はなかった」となっている同日に「婦女子二万名が惨殺された」と「真相箱」の台本を制作した事は、GHQが歴史を捏造した事になる。ちなみに、日本人洗脳ラジオ番組「真相箱」の編集に加担した邦字紙は、朝日新聞一社だけであった。また、CIE(GHQ民間情報教育局)に管理されていたNHKが「真相箱」を翻訳して放送した。(資料8)

  • 「真相箱」が「その一週間後」と言っているのは「その恨みを一時に破裂させ、怒涛の如く南京市内に殺到した」という部分についてであり、14日に「実に婦女子二万名が惨殺された」などとは言っていない。 (Apeman)

ここで重要な事は、一九三八年二月、国際連盟理事会で顧維鈞中国代表が南京で「二万人の虐殺」との政治宣伝の演説をした後、中国国民党関連の宣伝本「戦争とは何か=中国における日本軍の暴虐」(ティンパーリー著)や、一部新聞報道で報道された以外、南京で「虐殺二万人」などと中国側が公式に提起した事などなかった。

それが、再度国際機関(GHQ)で問題提起されたのは、顧維鈞中国代表が国際連盟理事会で演説してから九年後、一九四六年のGHQ制作「真相箱」の台本の中であった。

第百会期国際連盟理事会が開催されていた一九三八年一月二十六日.二月二日までの間、ニューヨーク・タイムズとロンドン・タイムズの重大ニュースは、一月二十六日のアリソン米領事殴打事件である。この期間は、戦後「南京大虐殺」が実行されていたと喧伝されている時期と重複している。

アリソン殴打事件とは、事件調査に日本軍憲兵と同行してきたアリソン氏が、日本軍中隊長の制止を無視して、無理に家屋内に進入しようとしたため、同伍長にアリソン氏と同行の米国人一名が殴打された事件である。日本軍の陳謝に対して、アリソン氏も「検察官的不遜な態度と領事としての立場を幾分逸脱」していた事を詫びている。(資料9)

  • 「資料9」を見ると、「支那事変実話」第6編(細かいけど、「実記」だろうが)。で、実際に記事を読んでみると・・・
    >これアリソン氏が日本軍に恰も検察官的不遜の態度を以て、その領事たるの職分を超越し、事毎に日本軍の非を鳴らすが如き態度に起因するものにて・・
    「詫びている」なんて、一言も書いていませんでした。 -- (ゆう)

  • (引用者注)「検察官的不遜な態度と領事としての立場を幾分逸脱」は、アリソン氏の言葉ではなくて、日本軍当局の言明らしい。事件の詳細については、ゆうさん「小さな資料集」http://www.geocities.jp/yu77799/higasinakano1210.html参照のこと。なお、米国内、英国内での報道は、南京のアメリカ大使館からの公電をワシントンの国務省が記者発表したものと思われる。その頃、英米の特派員は一人も南京にはいなかった。 

このアリソン事件は、ニューヨーク・タイムズが、一月二十八日.三十日まで三日間連続で、ロンドン・タイムズも一月二十八日、二十九日、(三十日休刊)、三十一日と同じく三日間報道していた。

現在、中国がホロコーストに比肩される「南京大虐殺」が実行されていたと喧伝している期間内に、大事件として報道されていたのは、「約一週間もの間、ロンドン、上海、マニラのラジオニュースで大々的に報道された(略)」のがアリソン殴打事件だった。(資料10)(『ドイツ外交官の見た南京事件』一四三頁)

  • (引用者注)「戸井田報告」では、中国がどのような文脈で「ホロコースト」という言葉を使っているの説明もないが、そもそも「ホロコースト」という言葉はユダヤ人虐殺発覚によって初めて生まれた言葉ではない。昔から「大虐殺」という意味で使われてきたことも留意されたし。

この事実は、一九三八年一月二十六日以降一週間、アリソン殴打事件を上回る、強姦、殺人事件がなかった事を示している。

  • (引用者注)そもそも、アリソン殴打事件がなぜ起きたかといえば、日本兵による婦女子の拉致監禁強姦事件が発端だというのに、嗚呼。わが国のこの議員の会は、いったいどんな日本の前途を考えているのか? 英訳までしてどこまで日本人の恥を世界に晒したいのか!

    上海派遣軍参謀長 飯沼守日記 一月二十六日
    「本夕本郷少佐より報告を受く。米人経営の農具店に二十四日夜十一時頃日本兵来り、留守居を銃剣にて脅し女二人を連行強姦の上二時間程して帰れり、依て訴へに依り強姦されたと言ふ家を確かめたるところ天野中隊長及兵十数名宿泊せる所なるを以て、其家屋内を調査せんとしたるに米人二名亦入らんとし、天野は兵を武装集合せしめ逆に米人を殴打し追い出せり。其知らせに依り本郷参謀現場に到り、中隊長の部屋に入らんとしたるも容易に入れす、隣室には支那女三、四名在り強て天野の部屋に入れは女と同衾しありしものの如く、女も寝台より出て来れりと、依て中隊長を訊問したるに中隊長は其権限を以て交る交る女を連れ来り金を与へて兵にも姦淫せしめ居れりとのこと。」(「南京戦史資料集1」P184)

    この「強姦事件」を調査に来たアリソン氏を、事件の「犯人」である「天野中隊長」らが、「殴打し追い出」したわけです。

    !!

  • 上述したように、自国(民)の被害により大きな関心を示すというバイアスを無視している。また、38年1月26日以降の1週間なら、南京事件初期に比べて被害が少ないことは驚くに値しない。 (Apeman)

以下は、おそらく「戸井田報告」が発表される前に書かれたものだと思いますが、不思議にも的確な総合批判となっているのでお勧めです。当時の国際情勢のなかでの国際連盟の状況などにも触れています。


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