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(原)第3・4(2)エ(カ) 自決命令の言い換え

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(2)控訴人らの主張
第3・4(2)エ 渡嘉敷島について

(原)第3・4(2)エ(カ) 自決命令の言い換え

(判決本文p84~)

  • (引用者注)当サイトでは、原審判決に大阪高裁が付加あるいは判断を改めた部分等は, 区別しやすいようにゴシック体で表示し, 削除した部分は薄い色で削除した部分示しました。



a (古波蔵村長の供述について)*


  古波蔵村長は, 住民を部隊の陣地に集合させておきながら出て行けというのは, 住民に死ねというのと同じである旨発言しているが(甲B20), 部隊の陣地は戦闘のためのものであって, 住民の避難場所としては危険であるし, 軍の活動に支障が生じることから, 部隊の陣地への集合を命じるはずがない。住民が軍の陣地に押しかけたとしたら, 住民の安全のために退去を求めるのは当然のことである。

  したがって, 古波蔵村長のいう「軍の陣地からの退去要求」を自決命令とするのは無理な論理である。

  そもそも, 古波蔵村長は, 他方で,
「軍の陣地の裏側の盆地に集合するようにといわれた。」

「盆地へ着くと, 村民はわいわい騒いでいた。集団自決はその時始まった。」
とも述ぺており(乙9・768頁), 赤松大尉が住民を軍陣地に集合させたのでも, 陣地から退去させたのでもないことは明らかであるし, 乙第9号証に記載された古波蔵村長の供述からすれば, 古波蔵村長は, 盆地への集合は住民を救う赤松大尉の得策と考えていたのであるから, 古波蔵村長には赤松大尉が自決命令を出したという認識がなかった。

  むしろ, 安里巡査の説明(甲B16)によれば, 住民が軍の陣地に押しかけたのは集団自決が始まった後であり, 古波蔵村長は,その際の退去要求を「死ねというのと同じ」と言っていることになる。 よって, 集団自決が始まるまで赤松大尉が自決命令を出していなかったことは明らかである。



b (富山兵事主任の供述について)*


  富山兵事主任は, 昭和63年になって, 兵器軍曹が17歳未満の少年と役場職員に対し, 手榴弾を, 1発は攻撃用, もう1発は捕虜になるおそれのあるときの自決用として, 2個ずつ配布した旨供述する。

  しかし, 手榴弾の配布の事実自体疑わしいし, 仮に事実だとしても, 当時の日本国民の多くは, 捕虜になるなら自決する覚悟を持っていたのであるから, 捕虜になるおそれのあるときの自決用として手榴弾を配布したことから赤松大尉が自決命令を出したことにはならない。

  富山兵事主任によれば, 手榴弾の配布は3月20日ころということであるが, これを自決命令というのであれば, 手榴弾配布の時点で, 自決命令を受けたという認誠が住民にあるはずであるが, 「鉄の暴風」の記述によれぱ, 住民の認識では自決命令は3月27日から28日にかけてであった。

  そもそも, 富山兵事主任は, これまで集団自決について語りながら, 昭和63年になって突然, 手榴弾の配布を自決命令と語り始めたのであり, 信用性がない。


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