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(原)第3・4(2)エ(ウ) 文献に対する反論

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(2)控訴人らの主張
第3・4(2)エ 渡嘉敷島について

(原)第3・4(2)エ(ウ) 文献に対する反論

(判決本文p78~)

  • (引用者注)当サイトでは、原審判決に大阪高裁が付加あるいは判断を改めた部分等は, 区別しやすいようにゴシック体で表示し, 削除した部分は薄い色で削除した部分示しました。



a (文献間の関係)*


  渡嘉敷島における住民の集団自決が赤松大尉の命令によるとの記述は, 「鉄の暴風」(乙2), 「戦闘概要」(乙10), 「戦争の様相」(乙3, 但し,これには赤松大尉の自決命令それ自体の記載はない。)に記載され, その後に出版された「秘録 沖縄戦史」(乙4), 「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」(乙6), 「沖縄県史 第8巻」(乙8)の記載は, 「鉄の暴風」等を下敷きにして記載された。


b 「鉄の暴風」について


  「鉄の暴風」の記述は, 控訴人梅澤を不明死扱いにした初版の記述(甲B6)や, 沖縄タイムス社自ら調査不足を認めていること(甲B10)から, 風聞に基づくものが多く信頼性に乏しい。

  また, 渡嘉敷島の集団自決の真相について調査した曽野綾子の「ある神話の背景」(甲B18)によれば, 「鉄の暴風」の執筆者である太田良博は、 自らは渡嘉敷島に行かず, 座間味村の助役であった山城安次郎と戦後南方から復員した宮平栄治を取材しただけであった。この2人はどちらも渡嘉敷島の集団自決を直接体験した者ではない。

  さらに, 「鉄の暴風」には, その記途に本質的な誤りがある。「鉄の暴風」は, 米軍の渡嘉敷島への上陸を3月26日午前6時ころとするが, 防衛庁防衛研修所戦史室の「沖縄方面陸軍作戦」によれば, 3月27日午前9時8分から43分とされている。米軍上陸という決定的に重大な事実が間違って記載され, その後に作成された「戦闘概要」や「戦争の様相」においても, 米軍上陸が3月26日と誤って引用されている。

※ 沖縄第32軍や大本営自身が米軍上陸日時を誤報している。壕の中にこもっていた住人の証言が「26日上陸」であっても不思議ではない。「沖縄方面陸軍作戦」(昭和43年)の上陸日時「3月27日午前9時8分から43分」は後々の米軍資料に拠っている。米軍資料の公開は「鉄の暴風」公刊よりずっと後のことである。

※ 「三月二六日 ---- 午前八時三〇分、本部との交信で、「本日八時五分ヨリ、慶良間列島へ熾烈ナル艦砲射撃支援ノモト一、優勢ナル敵ノ先遣部隊ガ上陸ヲ開始セリ。所在ノ我ガ部隊ハ、直チニコレヲ邀撃(ようげき)敢闘中ナリ」との電信が入った。
ついに! との思いが、期せずして見合わす皆の面を走った。
なんといっても離島の小部隊である。われわれは乳井小隊はじめ友軍部隊を案じ、かつその健闘を念じた。
だが、午後二時に至って本部より、「慶良間列島守備隊トノ通信杜絶セリ」との絶望的な入電があった。分隊長以下、暗然として声もなかった。 」(野村正起 『沖縄戦負兵日記』

※ また、艦砲射撃を浴びて壕に篭っていた住民は三月二六日に米軍上陸したと思っていたことが、金城武徳氏の手記によって理解できる。(金城武徳『パイン缶詰は戦争の味』渡嘉敷村史所収の三月二六日の記述

  米軍上陸という重大な事実を誤記するようでは戦史としての信頼性は全くなく, 事実調査の杜撰さと併せて, 「鉄の暴風」「戦闘概要」「戦争の様相」が一様に信用できないことを示している。

  また, 「鉄の暴風」には「西山A高地に陣地を移した翌二十七日, 地下壕内において将校会議を開いた」との記載があるものの, 知念証人は, 西山A高地に地下壕がなかったことや, 同日に将校会議など開かれていないことを明確に証言しているのであって(知念証人調書6頁), この点でも「鉄の暴風」は信用性に乏しい。


c 「戦闘概要」について


  「戦闘概要」は「戦争の様相」と前後の文章が全く同じであり, その内容が極めて酷似しているが, 「戦闘概要」の「時に赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された」との一文だけは, 「戦争の様相」には記載されていない。「戦闘概要」は私的な文献であり, 「戦争の様相」は公的な文献であるから, 「戦闘概要」という私的文書では自決命令が記載されていたのが, 「戦争の様相」という公的文書とする段階で削除されたことは明らかである。


d 米軍の「慶良間列島作戦報告書」について


  「慶良間列島作戦報告書」についての反論は, 座間味島に関する主張と同旨である。




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