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(原)第3・4(2)エ(イ) 手榴弾の交付について
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(2)控訴人らの主張
第3・4(2)エ 渡嘉敷島について
第3・4(2)エ 渡嘉敷島について
(原)第3・4(2)エ(イ) 手榴弾の交付について
(判決本文p77~)
- (引用者注)当サイトでは、原審判決に大阪高裁が付加あるいは判断を改めた部分等は, 区別しやすいようにゴシック体で表示し, 削除した部分は薄い色で削除した部分示しました。
a (曽野綾子の証言によれば)*
富山兵事主任の手記や家永第3次教科書訴訟第1審における曽野綾子の証言からすれぱ, 富山兵事主任は, 曽野綾子の調査当時, 17歳未満の少年らに非常招集をかけて手榴弾を配った事実については全く表明していなかった。このことは, そうした事実がなかったことを示している※ 。
※確か曽野はこれまで富山氏に会った事はないといっていたのではないか? 控訴人弁護団は一転して曽野が富山氏に会って取材したことを認めたのか?
手榴弾の交付が自決命令の物的証拠であるとする論は, 安仁屋政昭の評価であって, 事実そのものではない。
仮に手榴弾を交付していたのであれば, 住民に操作方法の指導があったばずであるが, 爆発した数より不発であった数の方が多いのは, 操作方法の指導がなく, ひいては手榴弾の交付による自決命令がなかったからである。
※ では手榴弾の操作方法の指導があれば、自決命令があったことの傍証になるのか? なお、手榴弾不発の数が多いのは品質が粗悪であったためと思うのが順当であろう。
b (小峰園枝の証言)*
また, 「渡嘉敷村史 資料編」(甲B39)によれば, 小峰園枝は,
「27日玉砕するから, 本部に集まれと言われて集まった。家族が一か所に集まって座っていたら, 義兄が, 防衛隊だったけど, 隊長の目をぬすんで手榴弾を2個持ってきた」
と供述しており(甲B39・374頁), 手榴弾が軍の厳重な管理の下に置かれていたとはいえない。
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