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(原)第3・4(1)ウ(ク) 証人知念朝睦及び皆本証人の各証言について

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(1)被控訴人らの主張
第3の4(1)ウ 渡嘉敷島について

(原)第3・4(1)ウ(ク) 証人知念朝睦及び皆本証人の各証言について

(判決本文p57~)

  • (引用者注)当サイトでは、原審判決に大阪高裁が付加あるいは判断を改めた部分等は, 区別しやすいようにゴシック体で表示し, 削除した部分は薄い色で削除した部分示しました。



a (皆本証言について)*


  皆本証人は, 赤松大尉が自ら認めている住民を西山に集結させたことについても「知らない」と証言しており, また, 常時赤松大尉の傍らにいたのではないことを認めており(皆本証人調書20頁), 赤松大尉による自決命令がなかったと証言できる立場にないことが明らかである。

  また, 皆本証人は, 当時の行動について, 3月28日の午前1時ころに陣地に到着し, 午前3時前後に赤松大尉に対して状況を報告したとしているが(甲B66・14頁), 皆本証人は, 「沖縄方面陸軍作戦」(乙55・248頁)に皆本証人が28日午前10時ころ戦隊本部に到着したと書かれていることについて, 防衛研修所戦史室の調査に対しては午前10時と答えたかもしれないが後から考えると午前1時ころであると, 一貫しない証言をしており(皆本証人調書17ないし19頁), 皆本証人の同日の行動についての証言は全体として信用性がない。

  • (引用者注)皆本中尉(当時)は、海上挺進第三戦隊第三中隊長。

b (知念証言について)*


  証人知念朝睦(以下「知念証人」という。)は, 赤松大尉が住民に対する伝言として,
「米軍が来たら, 軍民ともに戦って玉砕しよう」
と伝言したことがあるかとの控訴人ら代理人の質問に対し, 「これはあります」と答え(知念証人調書5頁), 被控訴人ら代理人の質問に対しては, そのように控訴人ら代理人の主尋問に答えたことについて記憶がない旨証言するなど(知念証人調書11頁), 証言が一貫しておらず, 赤松大尉が住民に対する自決命令を出したことはないとする証言は信用できない。

  また, 知念証人は, 赤松大尉自身が認めている住民に対する西山への避難命令について, 知らなかったと証言しており(甲B67, 知念証人調書12頁), 知念証人が赤松大尉の出した命令・指示を把握していなかったことが明らかであり, 知念証人も, 赤松大尉による自決命令がなかったと証言できる立場にない。

  そして, 知念証人は, 赤松大尉が, 捕虜になることを許さないとして, 伊江島の女性, 朝鮮人軍夫, 大城徳安の処刑を口頭で命じたと証言しており(知念証人調書15頁), 昭和20年3月28日当時においても, 住民が摘虜になることがないよう, 赤松大尉が自決命令を出したということは十分に考えられる。

  • (引用者注)よく、知念少尉は赤松戦隊長の副官と云われるが、果たしてそうでしょうか? そもそも編成時においての赤松隊の副官は知念見習士官ではなく、張間与国少尉でした。知念朝睦見習士官は本部付警戒小隊長でした。その警戒小隊の隊員として谷本小次郎幹部候補生がいましたが、谷本氏が1970年に編した『陣中日誌』によれば、3月27日の項に、『勤務隊辻中尉防衛招集兵の手榴弾暴発のため負傷田所中尉副官業務を行う。 』という記述があります。もしこの記述が正しいとすれば、赤松隊が舟艇特攻出撃を断念して北山(にしやま)の陣地に移ってから、赤松嘉次戦隊長のそばにいて副官業務をしていたのは、辻中尉(交代して田所中尉)であって知念少尉ではありません。事実、同日3月27日の項には、『○四○○ 留利加波方面の敵情偵察のため本部知念少尉以下四名(谷本伍長、久保田伍長、池田伍長)出発』という記述があります。知念少尉は戦隊長の傍にいたのではなく、偵察任務に従事していたのです。


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