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(原)第3・4(1)ウ(イ) 控訴人ら主張の文献等に対する反論

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(1)被控訴人らの主張
第3の4(1)ウ 渡嘉敷島について

(原)第3・4(1)ウ(イ) 控訴人ら主張の文献等に対する反論

(判決本文p52~)

  • (引用者注)当サイトでは、原審判決に大阪高裁が付加あるいは判断を改めた部分等は, 区別しやすいようにゴシック体で表示し, 削除した部分は薄い色で削除した部分示しました。


a 「ある神話の背景」について


  「ある神話の背景」では, 前記のとおり, 集団自決の直接体験者から取材を行い執筆された「鉄の暴風」(乙2)を直接体験者からの取材に基づくものではないとしている(甲B18・51頁)。また, その著者である曽野綾子は, 取材過程において富山兵事主任に会ったことはないと記しているが(乙24・219頁), 曽野綾子の取材経緯を調査した安仁屋政昭が指摘しているように, 曽野綾子が渡嘉敷島を調査した昭和44年当時, 富山兵事主任は, 渡嘉敷島で2回ほど曽野綾子の取材に応じているのであり(乙11・14頁), 「ある神話の背景」は, 一方的な見方によって, 不都合なものを切り捨てた著作である。


b 「陣中日誌」について


  「陣中日誌」(甲B19)は, 昭和45年3月に赤松大尉が渡嘉敷島を訪れた際の抗議行動が報道された後の同年8月に発行されたものであり, 本来の陣中日誌ではない。赤松大尉自身が自決命令を否定している以上, 赤松隊が戦後20年以上経過してから発行した「陣中日誌」(甲B19)に自決命令の記載がないからといって, 自決命令がなかったことの根拠にはならない。


c 「沖縄戦ショウダウン」について


  赤松大尉は, 渡嘉敷島において住民を虐殺している。米軍が投降勧告のために, 伊江島から移送された住民6名を西山陣地に送ったところ, 赤松大尉は,これを捕らえて処刑し(乙8・411頁, 乙13・200, 201頁), 投降を呼ぴかけにきた少年2人を処刑し(乙8・411頁), 国民学校の訓導(教頭)であり防衛隊員であった大城徳安を, 家族を心配して軍の持ち場を離れたということだけで処刑したことが明らかになっている(乙8・411頁, 乙9・693頁)。このように, 赤松大尉は, 罪のない住民を虐殺した人物であるにもかかわらず, 「沖縄戦ショウダウン」は, 赤松大尉を「立派な人」「悪くいう人はいない」「人間の鑑だ」などと一方的に評価している者の供述だけから執筆されたものであり, 信用性がない。


d 照屋昇雄の供述について


  琉球攻府社会局援護課において援護法に基づく弔慰金等の支給対象者の調査をしたとして, 照屋昇雄は, 援護法を適用するために集団自決が軍の命令によるものであるとの虚偽の申請を行ったという趣旨の供述をしている(甲B35)。

  しかし, 渡嘉敷島の集団自決は, 前4(1)イ(エ)で主張したとおり, はじめから援護法の適用の対象となっていたことが明らかである。

  また, 照屋昇雄は, 昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課に勤務していたと供述するが, この供述は, 琉球政府の人事記録に反する。すなわち, 照屋昇雄は, 昭和30年12月に三級民生管理職として琉球政府に採用され, 沖縄中部社会福祉事務所の社会福祉主事として勤務し(乙56の1及び2), 昭和31年10月1日に沖縄南部福祉事務所に配置換えとなり(乙57の1及び2), 昭和33年2月15日に社会局福祉課に配置換えとなっている(乙58)。照屋昇雄が社会局援護課に在籍していたのは昭和33年10月のことである(乙59)。

  さらに, 照星昇雄は, 赤松大尉の同意を得て, 赤松大尉が集団自決を命じた文書を当時の厚生省に提出したと供述するが, 現在の厚生労働省によれぱ,そのような文書は保有していないとのことである(乙60及び61)。援護法に基づく給付は現在も継続して行われているから, そのような文書が作成されていたのであれぱ, それが廃棄されて存在しないということはあり得ない。

  以上のことから, 照星昇雄の供述は信用できない。



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