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(原)第3・4(1)イ(イ) 控訴人ら主張の文献,見解等に対する反論

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(1)被控訴人らの主張
第3の4(1)イ 座間味島について

(原)第3・4(1)イ(イ) 控訴人ら主張の文献, 見解等に対する反論

(判決本文p40~)

  • (引用者注)当サイトでは、原審判決に大阪高裁が付加あるいは判断を改めた部分等は, 区別しやすいようにゴシック体で表示し, 削除した部分は薄い色で削除した部分示しました。


a 控訴人梅澤の陳述書について


  「母の遺したもの」(甲B5)に紹介されている宮城初枝(以下「初枝」という。)の手記では, 控訴人梅澤は, 盛秀助役らの申出を聞いた後,
「今晩は一応お帰りください。お帰りください。」
と答えただけであったとされており(甲B5・39頁), 控訴人梅澤の陳述書で控訴人梅澤が
「決して自決するでない。共に頑張りましょう。」
と述ぺたとされているのと重大な食い違いを示している。また, 控訴人は役場職員らの訪問自体を覚えていなかった様子であったというのであるから(甲B5・262頁), 控訴人梅澤の陳述書の前記記載は信用できない。なお, 初枝の供述する控訴人梅澤の発言は, 面談の際に控訴人梅澤が自決を命じなかったことを示すにすぎないことは後記eのとおりである。


b 昭和60年7月30日付け神戸新聞について


  昭和60年7月30日付け神戸新聞には, 初枝の話として,
「梅澤少佐らは『最後まで生き残って軍とともに戦おう』と武器提供を断った」
と記載されているが, 初枝は, 手記ではそのような事実を語っておらず, 娘である証人宮城晴美(以下「宮城証人」という。)も初枝からそのような話は聞いていない(甲B5・39,214頁)。神戸新聞の記事は, 控訴人梅澤が神戸新聞の記者に働きかけて掲載させたものであり, 初枝の発言とされる部分も控訴人梅澤の言い分をもとに記載された疑いがある。


c 大城将保主任専門員の見解について


  「沖縄史料編集所紀要」(甲B14)の中の,大城将保専門員執筆の「座間味島集団自決に関する隊長手記」当資料庫所収 に, 控訴人梅澤の手記である「戦斗記録」が掲載されたのは, 控訴人梅澤の自決命令に疑問を呈する控訴人梅澤らの談話が神戸新聞に掲載され, 当事者である控訴人梅澤の異議がある以上, 史実を解明する史料とするためであって, 「沖縄県史 第10巻」の記述を修正したものではない。

  大城将保が「沖縄県史第10巻」の実質的修正を行ったとして控訴人らが引用する「沖縄史料編集所紀要」の末尾6行部分(甲B14・46頁)は, 控訴人梅澤の文として記載されているものである。仮にこの部分が大城将保の見解として記載されているものであるとしても, 初枝が控訴人梅澤の自決命令はなかったと言明していることを付記するものにすぎない。

  控訴人らは, 大城将保の見解が神戸新聞に記載されているとも主張するが, 神戸新聞記載の大城将保のコメントは,大城将保に対する取材に基づくものではない。


d 宮村幸延の証言について


  宮村幸延は, 「証言」(甲B8)を作成し押印した記億はなく, 宮村幸延が作成し押印したものではないと述ぺている(乙17及び18)。

  宮村幸延は, その経営する旅館に宿泊した控訴人梅澤から, 昭和62年3月26日,
「この紙に印鑑を押してくれ。これは公表するものではなく, 家内に見せるためだけだ。」
と迫られたが, これを拒否した。同月27日, 控訴人梅澤が同行した2人の男が宮村幸延に泡盛を飲ませ, 宮村幸延は泥酔状態となった。宮村幸延は, この時に「証言」を書かされた可能性があるが, そうだとすれば,「証言」は仕組まれたものであり, 宮村幸延の意思に基づくものではないことは明らかである。

  宮村幸延は, 座間味島の集団自決があった当時, 山口県で軍務についており, 集団自決の経緯について証言できる立場になかったし, また, 実兄である盛秀助役が自決命令を出したなどと証言するはずがない。


e 「母の遺したもの」について


  「母の遺したもの」によれぱ, 初枝は, 宮城証人に対し, 昭和52年3月になって, 昭和20年3月25日夜に控訴人梅澤に会った際には控訴人梅澤の自決命令はなかった旨, 告白するに至ったとされているが, そうであるからといって, 昭和20年3月25日夜の初枝と控訴人梅澤の面会の際に控訴人梅澤の自決命令がなかったということにはなっても, 控訴人梅澤の自決命令自体がなかったということにはならない。そして, 初枝自身, 自分が控訴人梅澤が自決を命じなかったと言ったことで軍の命令がなかったとされては困る, 住民は軍の命令だったと恩っていると述ぺ, 第3次家永教科書訴訟の際の文部省の指示に怒りをあらわにしていた(乙63・5頁, 乙65, 宮城証人調書11頁)。

  初枝自身, 軍の命令で弾薬箱を運搬するため出発する際, 木崎軍曹から,
「途中で万一のことがあった場合は, 日本女性として立派な死に方をやりなさい」
と言われ, 手榴弾を渡されており, この手榴弾で自決を図っている(甲B5・46頁, 乙6・45頁, 乙9・756頁)し, また, 宮平重信一家らも日本兵から手榴弾を手渡されている。

  また, 初枝は, 農家向けの月刊誌である「家の光」に投稿し, 控訴人梅澤が自決命令を出したことを積極的に述ぺていた(乙19)。


f 住民の手記について


  大城昌子の手記には,
「阿嘉島駐屯の野田隊長から, いざとなった時には玉砕するよう命令があったと聞いていました」
と記載されている(乙9・730頁)。野田隊長らの玉砕指示は, 慶良間列島に駐留していた日本軍が, 軍官民共生共死の一体化の方針のもとに, 米軍上陸時には玉砕するよう住民に指示していたことを示す証拠であり, 控訴人梅澤の自決命令の根拠となる。

  宮里美恵子の手記には,
「全員自決するから忠魂碑の前に集まるよう」
命令を受けたとの記載があり(乙9・741頁), また, 初枝の手記には, 軍曹から自決用に手榴弾を渡されていた旨の記載があり(乙9・756頁), さらに,吉 田春子の手記には, 水谷少尉から
「玉砕しよう」
と言われた旨の記載がある(乙9・758頁)。

  控訴人らが引用していないその他の手記でも,宮平初子の手記には
「忠魂碑の前で玉砕するから集まれ」
との連絡を受けたこと, 壕の中で兵隊から手榴弾を渡されたこと, 宮里とめの手記には
「全員自決するから忠魂碑の前に集まるよう違絡を受けた」
こと, 友軍から攻撃用兼自決用に剣をもらったこと, 宮平カメ及び高良律子の手記には
「全員忠魂碑前で玉砕するから集まるように私達の壕に男の人が呼ぴにきた」
ことが, それぞれ記載されている(乙9・746, 753頁)。


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