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(原)第2 事案の概要

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読める控訴審判決「集団自決」
事案及び理由
第2 事案の概要等
第2の3 前提事実及び争点
【原判決の引用】

(原)第2 事案の概要

(判決本文p11~)

  • (引用者注)当サイトでは、原審判決に大阪高裁が付加あるいは判断を改めた部分等は, 区別しやすいようにゴシック体で表示し, 削除した部分は薄い色で削除した部分示しました。



2 前提となる事実


(証拠によって認定した事実は各項末尾のかっこ内に認定に供した証拠を摘示し, その記載のない事案は, 当事者間に争いのない事実である。)

(1) 当事者


ア(控訴人)*

  控訴人梅澤は, 大正5年12月21日生まれの男性で, 第二次世界大戦中の沖縄戦において, アメリカ合衆国軍隊(以下「米軍」という。)が最初に上陸した慶良間列島の座間味島で, 第一戦隊長として米軍と戦った陸軍士官学校(52期)出身の元少佐である。

  また, 控訴人赤松は, 同じ沖縄戦において, 慶良間列島の渡嘉敷島で, 第三戦隊長として米軍と戦った陸軍士官学校(53期)出身の元大尉である赤松大尉(大正9年4月20日生, 昭和55年1月13日死亡)の弟である(控訴人赤松が赤松大尉の弟であることについて, 甲C1の1及び2)。


イ(被控訴人)*

  被控訴人岩波書店は, 大正2年創業の各種図書の出版及び販売等を業とする株式会社であり, 本件各書籍の出版をしている。

  また, 被控訴人大江は, 芥川賞, ノーペル文学賞を受賞した作家であり, 沖縄ノートの著者である。




(2) 第二次世界大戦における沖縄戦と座間味島及び渡嘉敷島における集団自決


  昭和16年12月に始まった太平洋戦争は, 昭和17年のミッドウェー沖海戦を機に日本軍は劣勢を強いられ, 昭和19年7月にはサイパン島が陥落し, 昭和20年2月には米軍が硫黄島に上陸し, 次の米軍の攻撃は台湾か沖縄に向かうと予想される状態であった。

  昭和19年3月, 南西諸島を防衛する西部軍指揮下の第三二軍が編成され, 同年6月ころから実戦部隊が沖縄に駐屯を開始し, この沖縄守備軍・第三二軍は「球部隊」と呼ばれていた。

  昭和20年3月23日から, 沖縄は米軍の激しい空襲に見舞われ, 同月24日からは艦砲射撃も加わった。慶良間海峡は島々によって各方向の風を防ぎ, 補給をする船舶にとっては最適の投錨地であったことから, 米軍の最初の目標は, 沖縄本島の西55キロメートルに位置する慶良聞列島の確保であった。米軍の慶良間列島攻撃部隊は, アンドリュー・D・ブルース少将の率いる第77歩兵旅団であり, 空母の護衛のもと, 上陸作戦に臨んだ。

  慶良間列島には, 座間味島, 渡嘉敷島, 阿嘉島などがあるところ, 昭和19年9月, 座間味島には控訴人梅澤が指揮する海上挺進隊第一戦隊(以下「第一戦隊」ともいう。)が, 渡嘉敷島には赤松大尉が指揮する海上挺進隊第三戦隊(以下「第三戦隊」ともいう。)が配備された。海上挺進隊は, 当初, 小型船艇に爆雷を装着し, 敵艦隊に体当たり攻撃をして自爆することが計画されていたが, 結局出撃の機会はなく, 前記船艇を自沈させた後は, 海上挺進隊はそれぞれ駐屯する島の守備隊となった。

  控訴人梅澤の守備する座間味島と, 赤松大尉の守備する渡嘉敷島では, 米軍の攻撃を受けた昭和20年3月25日から同月28日にかけて, それぞれ島民の多くが集団自決による凄惨な最期を遂げた(なお, 以下では, 控訴人梅澤が座間味島において住民に集団自決を命じたことを肯定する見解を「梅澤命令説」といい, 赤松大尉が渡嘉敷島において住民に集団自決を命じたことを肯定する見解を「赤松命令説」という。)。




(3) 本件各書籍の記述


ア 「太平洋戦争」の記述 (本件記述(1))*

  「太平洋戦争」の第一版は昭和43年2月14日に発行され, その改訂版である「太平洋戦争 第二版」は昭和61年11月7日に発行された。「太平洋戦争」は, 平成14年7月16日,「太平洋戦争 第二版」を文庫化し, 発行されたが, 現在まで合計1万1000部が発行されている(「太平洋戦争」が「太平洋戦争 第二版」を文庫化したものであることは争いがなく, その余は甲A1, B7及び弁論の全趣旨)。

  「太平洋戦争」には、その300頁8行目から,
【本件記述(1)】
  「座間味島の梅沢隊長は, 老人・こどもは村の忠魂碑の前で自決せよと命令し, 生存した島民にも芋や野菜をつむことを禁じ, そむいたものは絶食か銃殺かということになり, このため三〇名が生命を失った。」
との記述(以下「本件記述(1)」という。)がある。なお, この記述は, 昭和43年の第一版以来変更はなく, 渡嘉敷島及び沖縄本島の残虐行為等の事例と合わせて, [注]の参考文献として上地一史「沖縄戦史」ほかが掲げられている。以下においては, 「太平洋戦争」の第一版をも含めて, 本件書籍, 「太平洋戦争」や本件記述(1)ということもある。



イ 「沖縄ノート」の記述

(ア)(本件記述(2))*
  沖縄ノートは昭和45年9月21日に発行され, 平成19年11月15日の第53刷平成20年5月7日の第59刷まで増刷を重ね, 現在まで, 合計30万2500三十数万部が発行された(弁論の全趣旨)。

  「沖縄ノート」には, その69頁10行目から,
【本件記述(2)】
  「慶良間列島においておこなわれた, 七百人を数える老幼者の集団自決は, 上地一史著『沖縄戦史』の端的にかたるところによれば, 生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の 
《部隊は, これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は, 部隊の行動をさまたげないために, また食糧を部隊に提供するため, いさぎよく自決せよ》 
という命令に発するとされている。沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生, という命題は, この血なまぐさい座聞味村, 渡嘉敷村の酷たらしい現場においてはっきり形をとり, それが核戦略体制のもとの今日に, そのままつらなり生きつづけているのである。生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している, この事件の責任者はいまなお, 沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが, この個人の行動の全体は, いま本土の日本人が綜合的な規模でそのまま反復しているものなのであるから, かれが本土の日本人にむかって, なぜおれひとりが自分を咎めねばならないのかね? と開きなおれば, たちまちわれわれは, かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまうだろう。」
との記述(以下「本件記述(2)」という。)がある。


(イ)(本件記述(3))*
  「沖縄ノート」には, その208頁1行目から,
【本件記述(3)】
  「このような報道とかさねあわすようにして新聞は, 慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男, どのようにひかえめにいってもすくなくとも米軍の攻撃下で住民を陣地内に収容することを拒否し, 投降勧告にきた住民はじめ数人をスパイとして処刑したことが確実であり, そのような状況下に, 『命令された』集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長が, 戦友(!)ともども, 渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた。僕が自分の肉体の奥深いところを, 息もつまるほどの力でわしづかみにされるような気分をあじわうのは, この旧守備隊長が, かつて
おりがきたら, 一度渡嘉敷島にわたりたい》 
と語っていたという記事を思い出す時である。」

  「おりがきたら, この壮年の日本人はいまこそ, おりがきたと判断したのだ, そしてかれは那覇空港に降りたったのであった。」
との記述(以下「本件記述(3)」という。)がある。


(ウ)(本件記述(4))*
  「沖縄ノート」には,その210頁4行目から,
【本件記述(4)】
  「慶良間の集団自決の責任者も, そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを, たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてそれをつぐなうには, あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで, かれはなんとか正気で生き伸ぴたいとねがう。かれは, しだいに稀薄化する記憶, 歪められる記憶にたすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために, 過去の事実の改変に力をつくす。いや, それはそのようではなかったと, 一九四五年の事実に立って反論する声は, 実際誰もが沖縄でのそのような罪を忘れたがっている本土での, 市民的日常生活においてかれに届かない。一九四五年の感情, 倫理感に立とうとする声は, 沈黙にむかってしだいに傾斜するのみである。誰もかれもが, 一九四五年を自己の内部に明瞭に喚起するのを望まなくなった風潮のなかで, かれのペテンはしだいにひとり歩きをはじめただろう。」

  「本土においてすでに, おりはきたのだ。かれは沖縄において, いつ, そのおりがくるかと虎視眈々, 狙いをつけている。かれは沖縄に, それも渡嘉敷島に乗りこんで, 一九四五年の事実を, かれの記憶の意図的改変そのままに逆転することを夢想する。その難関を突破してはじめて, かれの永年の企ては完結するのである。かれにむかって, いやあれはおまえの主張するような生やさしいものではなかった。それは具体的に追いつめられた親が生木を折りとって自分の幼児を殴り殺すことであったのだ。おまえたち本土からの武装した守傭隊は血を流すかわりに容易に投降し, そして戦争責任の追及の手が二十七度線からさかのぼって届いてはゆかぬ場所へと帰って行き, 善良な市民となったのだ, という声は, すでに沖縄でもおこり得ないのではないかとかれが夢想する。しかもそこまで幻想が進むとき, かれは二十五年ぶりの屠殺者と生き残りの犠牲者の再会に, 甘い涙につつまれた和解すらありうるのではないかと, 渡嘉敷島で実際におこったことを具体的に記憶する者にとっては, およそ正視に耐えぬ歪んだ幻想をまでもいだきえたであろう。このようなエゴサントリクな希求につらぬかれた幻想にはとめどがない。 おりがきたら, かれはそのような時を待ちうけ, そしていまこそ, その おりがきたとみなしたのだ。」

  「日本本土の政治家が, 民衆が, 沖縄とそこに住む人々をねじふせて, その異議申立ての声を押しつぶそうとしている。そのような おりがきたのだ。ひとりの戦争犯罪者にもまた, かれ個人のやりかたで沖縄をねじふせること, 事実に立った異議申立ての声を押しつぶすことがどうしてできぬだろう? あの渡嘉敷島の『土民』のようなかれらは, 若い将校たる自分の集団自決の命令を受けいれるほどにおとなしく, 穏やかな無抵抗の者だったではないか, とひとりの日本人が考えるにいたる時, まさにわれわれは, 一九四五年の渡嘉敷島で, どのような意識構造の日本人が, どのようにして人々を集団自決へと追いやったかの, およそ人間のなしうるものと思えぬ決断の、まったく同一のかたちでの再現の現場に立ちあっているのである。」
との記述(以下「本件記述(4)」という。)がある。


(エ)(本件記述(5))*
  「沖縄ノート」には,その213頁3行目から,
【本件記述(5)】
  「おりがきたとみなして那覇空港に降りたった, 旧守備隊長は, 沖縄の青年たちに難詰されたし, 渡嘉敷島に渡ろうとする埠頭では, 沖縄のフェリイ・ボートから乗船を拒まれた。かれはじつのところ, イスラエル法廷におけるアイヒマンのように, 沖縄法廷で裁かれてしかるぺきであったであろうが, 永年にわたって怒りを持続しながらも, 穏やかな表現しかそれにあたえぬ沖縄の人々は, かれを拉致しはしなかったのである。それでもわれわれは, 架空の沖縄法廷に, 一日本人をして立たしめ, 右に引いたアイヒマンの言葉が, ドイツを日本におきかえて, かれの口から発せられる光景を恩い描く, 想像カの自由をもつ。かれが日本青年の心から罪責の重荷を取除くのに応分の義務を果したいと, 『或る昂揚感』とともに語る法廷の光景を, へどをもよおしつつ詳細に恩い描く, 想像カのにがい自由をもつ。」
との記述(以下「本件記述(5)」といい, 本件記述(1)ないし本件記述(4)と併せて「本件各記述」という。また, 本件記述(2)ないし本件記述(5〕を併せて「沖縄ノートの各記述」という。)がある。




(4) (その出版目的)*


ア(「太平洋戦争」)*

  「太平洋戦争」が歴史研究書であり, 本件記述(1)が公共の利害に関するものであることは当事者間に争いはなく, それがもっばら公益を図る目的によるものであることについては, それが公益を図る目的も併せもってなされたものであるとの限度で当事者間に争いはない。


イ(「沖縄ノート」)*

  沖縄ノートは, 被控訴人大江が, 沖縄が本土のために犠牲にされ続けてきたことを指摘し, その沖縄について「核つき返還」などが議論されていた昭和45年の時点において, 沖縄の民衆の怒りが自分たち日本人に向けられていることを述べ, 「日本人とはなにか, このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか」との自問を繰り返し, 日本人とは何かを見つめ, 戦後民主主義を問い直したものである。

  沖縄ノートの各記述は, 沖縄戦における集団自決の問題を本土日本人の問題としてとらえ返そうとしたものであり, 沖縄ノートの各記述は公共の利害に関する事実に係るものである。




(5) (集団自決を記述した文献の存在)*



ア 座間味島について
  「鉄の暴風」等の書籍には, それぞれ以下のような記述が存在する。


(ア) 「鉄の暴風」(昭和25年)沖縄タイムス社発行
  「鉄の暴風」(41頁)には,
  「座間味島駐屯の将兵は約一千人余, 一九四四年九月二十日に来島したもので, その中には, 十二隻の舟艇を有する百人近くの爆雷特幹隊がいて, 隊長は梅沢少佐, 守備隊長は東京出身の小沢少佐だつた。海上特攻用の舟艇は, 座間味島に十二隻, 阿嘉島に七, 八隻あったが, いずれも遂に出撃しなかった。その他に, 島の青壮年百人ばかりが防衛隊として守備にあたっていた。米軍上陸の前日, 軍は忠魂碑前の広場に住民をあつめ, 玉砕を命じた。しかし, 住民が広場に集まってきた, ちょうど, その時, 附近に艦砲弾が落ちたので, みな退散してしまったが, 村長初め役場吏員, 学校教員の一部やその家族は, ほとんど各自の壕で手榴弾を抱いて自決した。その数五十二人である。」
との記述がある。



(イ) 「座間味戦記」(昭和32年ころ, 「沖縄戦記」(座間味村渡嘉敷村戦況報告書)所収)
  「座間味戦記」(7頁)には,
  「夕刻に至って梅沢部隊長よりの命に依って住民は男女を問わず若き者は全員軍の戦斗に参加して最後まで戦い, 又老人, 子供は全員村の忠魂碑の前に於いて玉砕する様にとの事であった。」
との記述がある。

  この「座間味戦記」は, 座間味村が戦傷病者戦没者遺族等援護法(以下「援護法」という。)の適用を申請する際の資料として当時の厚生省に提出したものでおる。



(ウ) 「秘録 沖縄戦史」(昭和33年)山川泰邦著
  「秘録沖縄戦史」(229ないし231頁)には,
  「昭和二十年三月二十三日, 座間味は米機の攻撃を受け, 部隊が全滅するほどの被害を蒙り, 住民から二十三人の死者を出した。村民たちは, 焼跡に立って呆然とした。早速, 避難の壕生活が始まった。その翌日も朝から部隊や軍事施設に執拗な攻撃が加えられ, 夕刻から艦砲射撃が始まった。艦砲のあとは上陸だと, 住民がおそれおののいているとき, 梅沢少佐から突然, 次のような命令が発せられた。
『働き得るものは男女を問わず, 戦闘に参加せよ。老人、子供は全員, 村の忠魂碑前で自決せよ』と。」

「梅沢少佐の自決命令を純朴な住民たちは, そのまま実行したのである。その日, 七五名が自決し多くの未遂者を出した。」
との記述がある。



(エ) 「沖縄戦史」(昭和34年)上地一史著
  「沖縄戦史」(51, 52頁)には,
  「梅沢少佐は,『戦闘能力のある者は男女を問わず戦列に加われ。老人子供は村の忠魂碑の前で自決せよ』と命令した。」

  「日本軍は生き残った住民に対し『イモや野菜を許可なくして摘むべからず』というおそろしい命令を出した。兵士にも, 食糧についてのきぴしいおきてが与えられ, それにそむいた者は, 絶食か銃殺という命令だった。このために三十名が生命を失ない, 兵も住民もフキを食べて露命をつないでいた。」
との記述がある。



(オ) 「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」(昭和43年)下谷修久刊行
  「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」(7, 9, 39頁)には,
  「戦闘に協カできる村民は進んで祖国防衛の楯として郷土の土を血で染めて散華し, 作戦上足手まといになる老幼婦女子は軍の命令により, 祖国日本の勝利を念じつつ, 悲壮にも集団自決を遂げたのであります。」

「米軍の包囲戦に耐えかねた日本軍は遂に隊長命令により村民の多数の者を集団自決に追いやった」

「午後十時頃梅沢部隊長から次の軍命令がもたらされました。『住民は男女を問わず軍の戦闘に協カし, 老人子供は村の忠魂碑前に集合, 玉砕すぺし』」
との記述がある。



(カ) 「秘録 沖縄戦記」(昭和44年)山川泰邦著
  「秘録沖縄戦記」(156, 158頁)には,
  「艦砲のあとは上陸だと, おそれおののいている村民に対し, 梅沢少佐からきぴしい命令が伝えられた。それは『働き得るものは男女を問わず, 戦闘に参加せよ。老人, 子供は全員, 村の忠魂碑前で自決せよ』というものだった。」

「梅沢少佐の自決命令を純朴な住民たちは素直に受け入れて実行したのだった。十八日, 七五人が自決, そのほか多くの未遂者を出した」
との記述がある。



(キ) 「沖縄県史 第8巻」(昭和46年)琉球政府編集
  「沖縄県史 第8巻」(411, 412頁)には,
  「翌日二十四日夕方から艦砲射撃を受けたが, 梅択少佐は, まだアメリカ軍が上陸もして来ないうちに
『働き得るものは全員男女を問わず戦闘に参加し, 老人子どもは, 全員村の忠魂碑前で自決せよ』
と命令した。」

「村長, 助役, 収入役をはじめ, 村民七十五名は梅沢少佐の命令を守って自決した。」
との記述がある。



(ク) 「沖縄県史 第10巻」(昭和49年)琉球政府編集
  「沖縄県史 第10巻」(698, 699, 746頁)には,
  「午後十時ごろ, 梅沢隊長から軍命がもたらされた。
『住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し老人子供は村の忠魂碑の前に集合, 玉砕すぺし』
というものだった。役場の書記がこの命令を各壕をまわって伝えた。」

「部隊長から自決命令が出されたことが多くの証言からほぽ確認できるのである。」

「中にいる兵隊が, 
『明日は上陸だから民聞人を生かしておくわけにはいかない。いざとなったらこれで死になさい』
と手榴弾がわたされた。」
との記述がある。




イ 渡嘉敷島について

  「鉄の暴風」等の書籍には, それぞれ以下のような記述が存在する。


(ア) 「鉄の暴風」
  「鉄の暴風」(33ないし36頁)には,
  「赤松大尉は, 島の駐在巡査を通じて, 部落民に対し
『住民は捕虜になる怖れがある。軍が保護してやるから, すぐ西山A高地の軍陣地に避難集結せよ』と, 命令を発した。さらに, 住民に対する赤松大尉の伝言として『米軍が来たら, 軍民ともに戦って玉砕しよう』
ということも駐在巡査から伝えられた。」

  「恩納河原に避難中の住民に対して, 思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた。
『こと, ここに至っては, 全島民, 皇国の万歳と, 日本の必勝を祈って, 自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い, 米軍に出血を強いてから, 全員玉砕する』
というのである。この悲壮な, 自決命令が赤松から伝えられたのは, 米軍が沖縄列島海域に侵攻してから, わずかに五日目だった。」

  「住民には自決用として, 三十二発の手榴弾が渡されていたが, 更にこのときのために, 二十発増加された。」

  「恩納河原の自決のとき, 島の駐在巡査も一緒だったが, 彼は, 
『自分は住民の最期を見とどけて, 軍に報告してから死ぬ』
といって遂に自決しなかった。日本軍が降伏してから解ったことだが, 彼らが西山A高地に陣地を移した翌二十七日, 地下壕内において将校会議を開いたがそのとき, 赤松大尉は『持久戦は必至である, 軍としては最後の一兵まで戦いたい, まず非戦闘員をいさぎよく自決させ, われわれ軍人は島に残った凡ゆる食糧を確保して, 持久態勢をととのえ, 上陸軍と一戦を交えねぽならぬ。事態はこの島に住むすべての人間に死を要求している』ということを主張した。」
との記述がある。



(イ) 「秘録 沖縄戦史」
  「秘録 沖縄戦史」(218頁)には,
  「友軍は住民を砲弾の餌食にさせて, 何ら保護の措置を講じようとしないばかりか
『住民は集団自決せよ!』
と赤松大尉から命令が発せられた。」
との記述がある。




(ウ) 「沖縄戦史」
  「沖縄戦史」(48頁)には,
  「しかし,赤松大尉は住民を守ってはくれなかった。
『部隊は, これから, 米軍を迎えうつ。そして長期戦にはいる。だから住民は, 部隊の行動をさまたげないため, また, 食糧を部隊に提供するため, いさぎよく自決せよ』
とはなはだ無慈悲な命令を与えたのである。」
との記述がある。



(エ) 「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」
  「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」(107頁)には,
「赤松少佐は島の西北端の高地へ守備隊の移動を命じ, 島民は自決せよと命令した。」
との記述がある。



(オ) 「秘録 沖縄戦記」
  「秘録 沖縄戦記」(148頁)には,
「赤松隊は住民の保護どころか, 無謀にも
『住民は集団自決せよ!』
と命令する始末だった。」
との記述がある。



(カ) 「慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要」(昭和44年,「ドキュメント沖縄闘争 新崎盛〓(目ヘンに軍)」所収, 以下「戦闘概要」という。)
  「戦闘概要」(12, 13頁)には,
  「昭和二〇年三月二七日, 夕刻駐在巡査安里喜順を通じ住民は一人残らず西山の友軍陣地北方の盆地へ集合命令が伝えられた。」

  「間もなく兵事主任新城真順をして住民の集結場所に連絡せしめたのであるが, 赤松隊長は意外にも住民は友軍陣地外へ撤退せよとの命令である。何のために住民を集結命令したのか, その意図は全く知らないままに恐怖の一夜を明かすことが出来た。昭和二○年三月二八日午前一〇時頃, 住民は軍の指示に従い, 友軍陣地北方の盆地へ集まったが, 島を占領した米軍は友軍陣地北方の約二, 三百米の高地に陣地を構え, 完全に包囲態勢を整え, 迫撃砲をもって赤松陣地に迫り住民の集結場も砲撃を受けるに至った。時に赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された。危機は刻々と迫りつつあり, 事ここに至っては如何ともし難く, 全住民は陛下の万才と皇国の必勝を祈り笑って死のうと悲壮の決意を固めた。かねて防衛隊員に所持せしめられた手留弾各々二個が唯一の頼りとなった。各々親族が一かたまりになり, 一発の手留弾に二, 三○名が集った。瞬間手留弾がそこここに爆発したかと思うと轟然たる無気味な音は谷間を埋め, 瞬時にして老幼男女の肉は四散し阿修羅の如き阿鼻叫喚の地獄が展開された。」
との記述がある。



(キ) 「沖縄県史 第8巻」
  「沖縄県史 第8巻」(416頁)には,
  「いよいよ, 敵の攻撃が熾烈になったころ, 赤松大尉は『住民の集団自決』を命じた。」
との記述がある。



(ク) 「沖縄県史 第10巻」
  「沖縄県史 第10巻」(689,690頁)には,
  「上陸に先立ち, 赤松隊長は, 
『住民は西山陣地北方の盆地に集合せよ』
と, 当時赴任したばかりの安里喜順巡査を通じて命令した。安里巡査は防衛隊員の手を借りて, 自家の壕にたてこもる村民を集めては, 西山陣地に送り出していた。」

「西山陣地に村民はたどり着くと, 赤松隊長は村民を陣地外に撤去するよう厳命していた。」

(その時,)陣地に配備されていた防衛隊員二十数人が現われ, 手榴弾を配り出した。自決をしようというのである。」
との記述がある。



(ケ) 「家永第3次教科書訴訟第1審 金城重明証言」(昭和63年, 「裁かれた沖縄戦 安仁屋政昭編」所収)
  「家永第3次教科書訴訟第1審 金城重明証言」(287, 288頁)には,
  「それは当時, 村の指導者を通して,軍から命令が出たというふうな達しがありまして, 配られた手榴弾で自決を始めると, これが自決の始まりであります。」

  「はい, 当時の住民は軍から命令が出たというふうに伝えられておりまして, そのつもりで自決を始めたわけであります。」

  「(証人自身は,  直接その自決の命令が出たという趣旨の話を直接聞かれたのですか)はい, 直接聞きました。」
との記述がある。



(コ) 「家永第3次教科書訴訟第1審 安仁屋政昭証言」(昭和63年証言, 平成2年「裁かれた沖縄戦 安仁屋政昭編」所収)
  安仁屋政昭は, 家永第3次教科書訴訟第1審における証言当時は沖縄国際大学の歴史学の教授であり, 沖縄史料編集所に勤務した経歴を持ち, 渡嘉敷村史の編集にも携わった者である。

  「家永第3次教科書訴訟第1審 安仁屋政昭証言」(54, 69頁)には,
  「第一点米軍の上陸前に赤松部隊から渡嘉敷村の兵事主任に対して手榴弾が渡されておって, いざというときにはこれで自決するようにという命令を受けていたと, それから, いわゆる集団的な殺し合いのときに, 防衛隊員が手榴弾を持ち込んでいると, 集団的な殺レ合いを促している事実があります。これは厳しい実証的な検証の中で証言を得ております。曽野綾子さんなどは, 『ある神話の背景』という作品の中でこれを否定しているようですけれども, 兵事主任が証言をしております。兵事主任の証言というのはかなり重要であるということを強調しておきたいと思います。」

  「兵事主任という役割は, 大きな役割だと言いましたが, 兵事主任の証言を得ているということは, 決定的であります。これは, 赤松部隊から, 米軍の上陸前に手榴弾を渡されて, いざというときには, これで自決しろ, と命令を出しているわけですから, それが自決命令でないと言われるのであれば, これはもう言葉をもてあそんでいるとしか言いようがないわけです。命令は明らかに出ているということですね。」
との記述がある。



(サ) 「渡嘉敷村史」(平成2年)渡嘉敷村史編集委員会編集
  「渡嘉敷村史」(197, 198頁)には,
  「すでに米軍上陸前に, 村の兵事主任を通じて自決命令が出されていたのである。住民と軍との関係を知る最も重要な立場にいたのは兵事主任である。兵事主任は徴兵事務を扱う専任の役場職員であり, 戦場においては, 軍の命令を住民に伝える重要な役割を負わされていた。渡嘉敷村の兵事主任であった新城真順氏(戦後改姓して富山)は, 日本軍から自決命令が出されていたことを明確に証言している。兵事主任の証言は次の通りである。
  • (1)一九四五年三月二○日, 赤松隊から伝令が来て兵事主任の新城真順氏に対し, 渡嘉敷部落の住民を役場に集めるように命令した。新城真順氏は, 軍の指示に従つて『一七歳未満の少年と役場職員』を役場の前庭に集めた。
  • (2)そのとき, 兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手榴弾を二箱持ってこさせた。兵器軍曹は集まっ(ママ)二十数名の者に手榴弾を二個ずつ配り訓示をした。く米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら一発は敵に投げ, 捕虜になるおそれのあるときは, 残りの一発で自決せよ。〉
  • (3)三月二七日(米軍が渡嘉敷島に上陸した日), 兵事主任に対して軍の命令が伝えられた。その内容は, 〈住民を軍の西山陣地近くに集結させよ〉というものであった。駐在の安里喜順巡査も集結命令を住民に伝えてまわった。
  • (4)三月二八日, 恩納河原の上流フィジガーで, 住民の〈集団死〉事件が起きた。このとき, 防衛隊員が手榴弾を持ちこみ, 住民の自殺を促した事実がある。手榴弾は軍の厳重な管理のもとに置かれた武器である。その武器が, 住民の手に渡るということは, 本来ありえないことである。」

  「渡嘉敷島においては, 赤松嘉次大尉が全権限を握り, 村の行政は軍の統制下に置かれていた。軍の命令が貫徹したのである。」
との記述がある。




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