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(原)工 赤松大尉の手記等について

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読める控訴審判決「集団自決」
事案及ぴ理由
第3 当裁判所の判断
5 真実性ないし真実相当性について(その1)
【原判決の引用】
(原)第4・5 争点(4)及び(5)(真実性及ぴ真実相当性)について
(原)(5) 知念証人・皆本証人・控訴人梅澤・赤松大尉の供述等について

(原)工 赤松大尉の手記等について

(判決本文p231~)


  • (引用者注)当サイトでは、原審判決に大阪高裁が付加あるいは判断を改めた部分等は, 区別しやすいようにゴシック体で表示し, 削除した部分は薄い色で削除した部分示しました。


(ア)(複数手記等の存在)*


  赤松大尉は, 「潮」(甲B2,昭和46年)に「私は自決を命令していない」と題する手記を寄せているほか, 「週刊新潮」(昭和43年,甲B73), 昭和43年4月8日付けの琉球新報(乙26)で取材に応じた記録が残っている。

※「潮」記載手記の前に雑誌「青い海」に記載した手記もある。


(イ)(記述内容の相互矛盾:住民の結集)*


  赤松大尉は, 「潮」(甲B2)の「私は自決を命令していない」と題する手記(以下「赤松手記」という。)の中で, 部落の係員に
「『部隊は西山のほうに移るから, 住民も集結するなら, 部隊の近くの谷がいいだろう』 と示唆した。」
とする一方, 住民が集結していたことすら知らないと記載している。

  他方, 「週刊新潮」(甲B73)の取材に対しては, 赤松大尉は,
そんな話は, まったく身に覚えがないことですよ。三月二十六日, 米軍が上陸した時, 島民からわれわれの陣地に来たいという申入れがありました。 それで, 私は, 私たちのいる陣地の隣の谷にはいってくれといった。 われわれの陣地だって, まったく陣地らしい陣地じゃない。 ゴボウ剣と鉄カプトで, やっと自分のはいれる壕をそれぞれ掘った程度のものですからねえ。 ところが, 二十八日の午後, 敵の迫撃砲がドンドン飛んで来た時, われわれがそのための配備をしているところに, 島民がなだれこんで来た。 そして村長が来て "機関銃を貸してくれ, 足手まといの島民を打ち殺したい" というんです。 もちろん断りました。 村長もひどく興奮していたんでしょう。 あの人は,  シナ事変の時,  伍長だったと聞いていたけど…。」

「ところが, そのうちに島民たちが実に大きな声で泣き叫び始めた。これは, ものすごかったわけです。なにしろ八百メートル離れたところに敵がいるんですからね, その泣声が敵に聞えて, 今度は集中砲火も浴びるわけです。それで防衛隊に命じて泣声を静めさせようとしました。」
と語っている。

  この両者を比ぺれば, 住民が結集していたことを認識していたか否かという事実に関し, 大きな違いを示しており, 同じ赤松大尉の認識としては, 極めて不合理であるというほかないちなみに, 住民を, 軍の陣地近くに集結させたか否かは, 自決に関する軍の関与の上では大きな意味を持つ事柄である。 なお, 防衛隊が赤松大尉の命令によって行動したという点は, 陣中日誌(甲B19)にも同旨 [戦隊長防召兵を以って之を鎮めしむ] の記載がある。


(ウ)(記述内容の相互矛盾:2人の少年の処刑)*


  米軍の捕虜となっていた2人の少年の処刑に関して, 赤松手記では,
「二人の少年は歩哨線で捕まった。 本人たちには意識されていなくとも, いったん米軍の掩虜となっている以上, どんな謀略的任務をもらっているかわからないから, 部落民といっしょにはできないというので処刑することにいちおうなったが, 二人のうち小嶺というのが, 阿波連で私が宿舎にしていた家の息子なので, 私が直接取り調ぺに出向いて行った。 いろんな話を聞いたあと,
『ここで自決するか。 阿波連に帰るかどちらかにしろ』
といったら, 二人は戻りたいと答えた。 ところが, 二人は, 歩哨線のところで, 米軍の電話線を切って木にかけ, 首つり自殺をしてしまった。 赤松隊が処刑したのではない。」
と記載している。

  この赤松手記の記載の前段では, 二人の少年が
「どんな謀略的任務をもらっているかわからないから, 部落民といっしょにはできない」
と言っているのに, 後段になると, ここで自決する選択肢のほか, 「阿波連に帰るか」ということも提案しているのであって, その判断は矛盾している。

  一方, 「週刊新潮」(甲B73)の取材に対しては, 赤松大尉は,
「あとでやはり投降勧告に来た二人の渡嘉敷の少年のうち, 一人は, 私, よく知っていました。 彼らが歩哨線で捕まった時, 私か出かけると, 彼らは渡嘉敷の人といっしょにいたいという。 そこで,
『あんたらは米軍の捕虜になったんだ。 日本人なんだから捕虜として, 自ら処置しなさい。 それができなければ帰りなさい』
といいました。 そしたら自分たちで首をつって死んだんです。」
と答えている。 これを赤松手記と比較すると, 少年達が投降勧告に来たかどうかの認識に差異があるし, 死亡に至る経緯にもニュアンスに差異がある。 そして, 赤松手記等は, 「沖縄県史 10巻」の「副官の証言」にある
「米軍の捕虜になって逃げ帰った二人の少年が歩哨線で日本軍に捕らえられ, 本部につれられて来ていました。 少年たちは赤松隊長に, 皇民として, 捕虜になった君たちは, どのようにして, その汚名をつぐなうかと, 折かんされ, 死にますと答えて, 立木に首をつって死んでしまいました。」
との記載(乙9・773頁)とも齟齬する。

  この二人の少年の処刑に関する記載に顕著なように, 赤松手記は, 自己に対する批判を踏まえ, 自己弁護の傾向が強く, 手記, 取材毎にニュアンスに差異が認められるなど不合理な面を否定できず, 全面的に信用することは困難である。


(エ)(まとめ)*


  以上, 検討したところによれぱ, 赤松手記の記載内容には疑問があり, それを直ちに措信することはできないというぺきである。


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