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(原)イ 母の遺したものについて

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読める控訴審判決「集団自決」
事案及び理由
第3 当裁判所の判断
5 真実性ないし真実相当性について(その1)
【原判決の引用】
(原)第4・5 争点(4)及び(5)(真実性及び真実相当性)について
(原)(4) 集団自決に関する文献等の評価について

(原)イ 母の遺したものについて

(判決本文p208~)

  • (引用者注)当サイトでは、原審判決に大阪高裁が付加あるいは判断を改めた部分等は, 区別しやすいようにゴシック体で表示し, 削除した部分は薄い色で削除した部分示しました。



(ア)(「母の遺したもの」による隊長会見場面)*

  「母の遺したもの」(甲B5)には,その第一部に初枝の手記である「血ぬられた座間味島」が収録されているところ,そこには,初枝が昭和20年3月25日に盛秀助役らと控訴人梅澤に会いに行った際のこととして,
「助役は隊長に,
『もはや最期の時が来ました。私たちも精根をつくして軍に協力致します。それで若者たちは軍に協力させ,老人と子供たちは軍の足手まといにならぬよう,忠魂碑の前で玉砕させようと思いますので弾薬をください』
と申し出ました。」

「私はこれを聞いた時,ほんとに息もつまらんばかりに驚きました。重苦しい沈黙がしばらく続きました。隊長もまた片ひざを立て,垂直に立てた軍刀で体を支えるかのように,つかの部分に手を組んでアゴをのせたまま,じーっと目を閉じたっきりでした。」

「私の心が,千々に乱れるのがわかります。明朝,敵が上陸すると,やはり女性は弄ばれたうえで殺されるのかと,私は,最悪の事態を考え,動揺する心を鎮める事ができません。やがて沈黙は破れました。」

「隊長は沈痛な面持ちで『今晩は一応お帰りください。お帰りください』と,私たちの申し出を断ったのです。私たちもしかたなくそこを引きあげて来ました。」

「ところが途中,助役は宮平惠達さんに,
『各壕を廻って皆に忠魂碑の前に集合するように…』」
「後は聞き取れませんが,伝令を命じたのです。」
との記述がある(甲B5・39,40頁)。

  以上の部分は, 初枝が控訴人梅澤に送ったノート「とっておきの体験手記」の写し(甲B32)の該当部分でもほぽ同一である。すなわち,
「助役は隊長に,
『もはや最後の時が来ました。私たちも精根を尽す限り軍に協カ致します。それで若者たちは軍に協力させ, 老人と子供たちは軍の足・手まといにならぬよう忠魂碑の前で玉砕させようと思いますので弾薬を下さい』
と, 申しでました。私はこの時になってほんとに息もつまらんばかりにハッといたしました。あたりには重苦しい沈黙がしぱらく続きました。そして隊長もまた軍刀の上に手を組み目をつぷってじ一一と沈黙のままでした。私の心は干々に乱れます、明朝の敵の上陸開始の事を思い, 上陸後はいつも噂に聞かされている敵の私達への取扱いなどの事を考えると動揺する心をしづめる事ができません。やがて, 沈黙は破れました。隊長は沈痛な面持ちで([行外加筆] "承諾なされず")
『今晩は一応お帰り下さい。お帰り下さい』
となだめられ, 私たちもそこを引きあげて元の所へ帰る途中, 助役は宮平恵達さんに各壕を廻って皆んなに忠魂碑の前に集合するように…又, 私には役場の壕から重要書類を同じく忠魂碑の前に運ぶようにと命じられました。」
というものである。

  以上の手記に描写された本部壕のやり取りは極めて印象的である。初枝は, 厚生省の調査ではこのことに触れず, 家の光の手記で隊長命令を書いたがそのことが梅澤隊長に破滅をもたらしたと自責の念を持って, 何度も記憶を確かめた上で, 真実を伝えるぺく手記に書き残して娘に伝え, 懺悔の意味で控訴人梅澤にもその写し(甲B32)を送ったものであり, これに虚偽を記載したリ, 想像を加えたりするような動機は全くなかったと考えられる。出来事自体が初枝にとって非常に印象的であったことや罪責感から細部まで記憶が保持されていたものと理解される。ちなみに, 初枝の心の動揺をよそに長く続いた重苦しい沈黙の後に, 沈痛な面持ちで隊長から発せられたという
「今晩は一応お帰リ下さい。お帰り下さい。」
という言葉, 長い沈黙の後の
「今晩は一応…」
という言葉は, 重い事実を背景とする言葉であったとも考えられるのであるが, 当時初枝にはその意味するものは理解できないままに, 強い印象を残し, 言葉のままに記憶されたものと解されるのである。その様な意味でも, 初枝が記憶し, 記述するところは正確なものと評価される。ともかく, 初枝にとっては, 二重の意味で, 忘れるにも忘れようがない場面であったのであり, その記憶は, 手記のように印象的で臨場感のある表現が可能なほどに細部に至るまで保持されたと見るのが相当である。また, 控訴人梅澤に送ったノートの写し(甲B32)には上記のように「沈痛な面持ちで」と「今晩は一応…」との間の右行外に「承諾なされず」と初枝の字で書き加えられている。これは記載の位置からして, 初校がノートの写しを昭和57年頃までに控訴人梅澤に送るにあたって, 先のような自責の念を背景に, 控訴人梅澤がこの時村の幹部の申し出に応じていないということをはっきリさせ, 自分もそのように認識していることをしっかり伝えようとして書き加えたものと解される。なお, 甲B32のこの「承諾なされず」には現在は赤で傍線が付されているが, それは甲B32を受け取った控訴人梅澤が初枝の意図を受け止めた上で, 特に傍線を付したものではないかと推認される。そして, このころ控訴人梅澤と初枝は手紙のやリ取リをしていたというが(甲B5), このノートの内容について, 控訴人梅澤が初枝に対して自分の記憶と違うなどと手紙で伝えたような形跡が全くない。そのことは, 控訴人梅罵も, 事実が初校のノートのとおリであることに当時は異論がなかったことを窺わせるものである。また, 初枝も, 控訴人梅澤と何時間も話し合ったというのに(甲B5), 本部壕でのことについて控訴人梅澤と話が違ったなどということは全く述べておらず, その後も話は一貫しているのである。

この記述は,座間味島の住民が控訴人梅澤に集団自決を申し出,弾薬の提供を求めたのに対し,控訴人梅澤がこれを拒絶した内容になっており,控訴人梅澤が座間味島の住民の集団自決について,消極的であったことを窺わせないではない。

(イ)(梅澤陳述書による隊長会見場面)*

しかしながら,この記述は,原告梅澤が「今晩は一応お帰りください。お帰りください」と述べたことを記述するのみで,「一応」という表現が付されていることや,盛秀助役らの申出に対し,原告梅澤がしばらく沈黙したこと,原告梅澤と盛秀助役らの面会後の記述で,唐突に盛秀助役が宮平惠達に伝令を命じた部分があること,肝心の伝令の内容が記述されていないことを考慮すると,原告梅澤との面会の場面全体の理解としては,原告梅澤による自決命令を積極的に否定するものではなく,盛秀助役や初枝らの申出を受けた原告梅澤の逡巡を示すものにすぎないとみることも可能である。

  もっとも,本件訴訟では,この点について,控訴人梅澤は,その陳述書(甲B1)において,初枝が語る同じ場面について,
「問題の日はその3月25日です。夜10時頃,戦備に忙殺されて居た本部壕へ村の幹部が5名来訪して来ました。助役の盛秀,収入役の宮平正次郎,校長の玉城政助,吏員の宮平惠達,女子青年団長の宮平初枝(後に宮城姓)の各氏です。その時の彼らの言葉は今でも忘れることが出来ません。
『いよいよ最後の時が来ました。お別れの挨拶を申し上げます。』

『老幼女子は,予ての決心の通り,軍の足手纏いにならぬ様,又食糧を残す為自決します。』

『就きましては一思いに死ねる様,村民一同忠魂碑前に集合するから中で爆薬を破裂させて下さい。それが駄目なら手榴弾を下さい。役場に小銃が少しあるから実弾を下さい。以上聞き届けて下さい。』

その言葉を聞き,私は愕然としました。この島の人々は戦国落城にも似た心底であったのかと。」

「私は5人に毅然として答えました。
『決して自決するでない。軍は陸戦の止むなきに至った。我々は持久戦により持ちこたえる。村民も壕を掘り食糧を運んであるではないか。壕や勝手知った山林で生き延びて下さい。共に頑張りましょう。』
と。また,
『弾薬,爆薬は渡せない。』
と。折しも,艦砲射撃が再開し,忠魂碑近くに落下したので,5人は帰って行きました。翌3月26日から3日間にわたり,先ず助役の盛秀さんが率先自決し,ついで村民が壕に集められ,次々と悲惨な最後を遂げた由です。」
と記載しており(甲B1・2,3頁),控訴人梅澤は,本人尋問において,同趣旨の供述をしている。また, 控訴人梅澤は, 大城将保に依頼されて執筆した手記「戦斗記録」(甲B129)(昭和61年3月の沖縄史料編集所紀要甲B14所収)に同旨の記載をしている。

  しかしながら,初枝の記憶するやりとりとして「母の遺したもの」に記載してあるのは,前記のとおりであり,かつ,初枝が残したノート(甲B32)も,同様の記載にとどまっている。

  そして,宮城証人は,この点について,
「武器提供は断ったとは言っていましたけれども,そういう最後まで生き残ってというふうなことは,もし梅澤さんがおっしゃっていれば母はちゃんとノートに書いたと思います。」
と証言している。確かに, 控訴人梅澤が決して自決するでないなどと述ぺたのであれぱ, それは, それまで住民に求められてきた覚悟とは正反対の指示であリ, 初枝がそれを曲げて記憶し, 記録するなどとは考えられない。後にも触れるように
「今晩は一応お帰リ下さい。お帰り下さい。」
というのは,
「自決するでない。」
というのとはその実体において意味するところが全く異なる内容の言葉であるというぺきなのである。こうした事実に,控訴人梅澤作成の陳述書(甲B33)の記載内容の信用性についての,これまでの検討結果からすると,控訴人梅澤の供述等は,初枝の記憶を越える部分について,信用し難い。


(イ―2)(梅澤陳述と「母の遺したもの」, どちらが信用できるか)*


  これに対し, 控訴人梅澤は当審でも, 改めて, 自決してはならないと命じた旨を強調し, 原判決の事実認定を「些末な点を云々して無理に難癖をつける」もので, 「『一応』というただ一つの言菜や, 梅澤のわずかな沈黙に, 特段の意味を見いだそうとするのは, 真実からあえて目をそらそうとするものに等しい」などとして縷々非難する。

  しかし, 控訴人梅澤の同主張や上記供述等が到底採用できないことは, 当審で補正, 補足して引用した上記説示のほか以下のような事実からも明らかである。すなわち, 先の「母の遺したもの」には, 昭和55年12月16日の那覇のホテルでの控訴人梅澤と初枝との面談の様子を次のように記述している。
「梅澤氏は, 私(宮城晴美)がマスコミを連れてきてはいないかと, しきりにあたりを見回している。一方、母(初枝)の方は, 雲上人であった戦時中の梅澤氏のイメージがまだ強く残っているらしく, 極度に緊張しているのがそばにいる私にも伝わってくる。私はホテル内の喫茶室の最も奥まった席に梅澤氏を案内し, しばらく話したあと母を残して職場に戻った。以下は, 母から聞いた話である。」

「母が梅澤氏に, 
『どうしても話したいことがあります』
と言うと, 驚いたように
『どういうことですか』
と, 返してきた。母は, 三五年前の三月二五日の夜のできごとを順を追って詳しく話し,
『夜, 艦砲射撃のなかを役場職員ら五人で隊長の元へ伺いましたが, 私はその中の1人です』
というと, そのこと自体忘れていたようで,すぐには理解できない様子だった。母はもう一度,
『住民を玉砕させるようお願いに行きましたが, 梅澤隊長にはそのまま帰されました。命令したのは梅澤さんではありません』
と言うと, 驚いたように目を大きく見開き, 体をのりだしながら大声で
『ほんとうですか』
と椅子を母の方に引を寄せてきた。母が
『そうです』
とはっきり答えると, 彼は自分の両手で母の両手を強く握りしめ, 周りの客の目もはぱからず
『あリがとう』 『ありがとう』
と涙声で言いつづけ, やがて嗚咽した。母は, はじめて「男泣き」という言葉の意味を知った。」

「梅澤氏は安堵したのかそれから饒舌になり, 週刊誌で「集団自決j命令の当事者にされたあと職場におれなくなって仕事を転々としたことや, 息子が父親に反抗し, 家庭が崩壊したことなど, これまでいかにつらい思いをしたか。涙を流しながら切々と母に語った。」

  以上の記述は, 本件訴訟など予想されていない時期に発行された娘の宮城晴美の記述であり, その後の座間味島内案内の様子などとも整合性があり, 初枝の複雑な心理や感想や, 万全の受け入れ態勢を整えて控訴人梅澤の来島を勧めた経緯(甲B114)にも裏付けられていて, その内容を疑うぺき事情はない (これに対し, 甲826号証の「第一戦隊長の証言」の再開場面は異なるが, 両者を比較すると, 甲B26号証には時間的な経緯の省略や再構成 (なお, 後示のように藤岡教授は別の場面についてはその様に分析している。) 及び潤色があると疑わざる得ず, 上記判断を左右しない。)。

  上記「母の遺したもの」の記載によると, どうしても話したいことがあると思い詰めて初枝が35年前の3月25日夜の出来事を順を追って詳しく話し, 役場職員ら5人で隊長の元に伺いましたが私はその一人ですと言っても, 控訴人梅澤はそのこと自体忘れていたようで, すぐにぱ理解できない様手であった, そこでもう一度初枝が
「住民を玉砕させるようにお願いに行きましたが, 梅澤隊長にはそのまま帰されました。命令したのは梅澤さんではありません」
というと, 驚いたように目を見閉き大声で
「ほんとうですか」
と身を乗リ出してきたというのである。これに対し, 控訴人梅澤は, 本部壕の出来事を忘れていたのではなく, 目の前の女性が本部壕に来た若い女性であることが分からなかっただけであるかのように本人尋問では述べるが, 先の具体的な記述とは到底相容れない。順を追って詳しく話したが, 忘れていたようですぐには理解できない様手なので, 再度, 「お願いに行ったがそのまま帰されたこと」を説明したというのであるから, 忘れていてすぐには理解できなかった「そのこと自体」とは本部壕への5人の訪問自体であることは文脈上も明らかである。そして, 控訴人梅澤が反応したのは, 同控訴人が村側の要請には応じてくれずそのまま帰された, 命令したのは梅澤さんではありませんという言葉を聞いてから, 「ほんとうですか」と身を乗り出したというのである。それまでに, 控訴人梅澤に本部壕での応答についての具体的な記憶があったとしたら, むしろ, 本部壕を訪れたという話を聞いた時点で, すぐにその話になリ, 両者で記憶を確かめ合うというような流れになるのが自然であろうが, 命令したのは梅澤さんではありませんという言葉を聞いて初めて 「ほんとうですか」と身を乗り出して反応し, 「そうです」と応えると「ありがとう」「ありがとう」と泣き出したというのであるから, それまで自分の記憶には残っていなかった35年前の出来事, 自決命令を否定する根拠となる事実を教えられて, 感動したものとしか理解できず, その様に理解すると, 前記の「母の遺したもの」の記述は極めて自然である。

  もっとも, その様なきっかけを得て, 控訴人梅澤が, その当時のことを思い出してゆくということは十分あリ得ることであるから, 上記の経緯だけで控訴人梅澤の前記供述等が信用できないということにはならない。しかし, ここで検討を要するのは, 控訴人梅澤が本部壕でのことを億えていなかったとすれば, それはなぜかということである。既に出来事から35年が過ぎているのであるから, 記憶がなかったとしても一般的には異とするにあたらないが, 控訴人梅澤は昭和33年頃には自決命令についてマスコミの標的になったと述ぺておリ, その当時において, 自決命令を出したか否かが自身にとって深刻な問題になったばずである。しかしその当時においても, 控訴人梅澤が本部壕でのやリ取リを記憶していたという具体的な形跡が全くない。しかし, この点は, 次のように考えるならば, よく了解できる。すなわち, 当時はまさに翌朝にも米軍上陸が予想された極めて緊迫した非常時であリ, 日本軍は玉砕を覚悟して防戦の準備に奔走し住民もかねての軍官民共生共死の覚悟のもとで戦える者は軍とともに戦うという態勢にあったのであるから, 軍の足手まといにならないようにと住民から集団自決の申し出があったたとしてもその当時の状況下では(昭和60年代になって控訴人梅澤が述ぺるようには)特別のことではなかったのではないか, 捕虜になるよリは潔く自決するということは当時は当然の覚悟とされていたのである。しかし, いざ住民が集団で自決に踏み切ると聞かされれば, ためらいが生まれるのは自然であり, そのための爆薬の提供を要請されても躊躇するのは当然である。そのため, 控訴人梅澤も長い沈黙の後に「今晩は一応お帰リ下さい。お帰り下さい」とだけ言ってひとまず住民を帰したものの, それは単に決断を延ばしただけのことで, 軍の従来の大方針を変更したというようなことではなく, 控訴人梅澤にとって非常時の混乱の中で格別記僚に残るような出来事ではなかったし, 残しておきたいような事柄でもなかったのではないかと考えられるのである。それは, 翌日の米軍上陸, 応戦, 山中への退避, 日々続く戦闘, 自身の負傷, 投降, その間の多数の部下の戦死, そして戦後の混乱等々の大激変の中で埋もれてしまう程度の出来事であったと考えられるのである。 控訴人梅澤は, その後もマスコミが書き立てるような自決命令自体については自分の責任を意識するすることはなかったし, その意味で集団自決自体は控訴人梅澤にとって重大な問題ではなかったことは, 昭和55年の初枝との再会後戦跡を案内されているときにも, 部下の戦死には涙しても住民の自決にはあまリ関心を示さなかったということ (甲B5の264, 265頁。この点の描写は具体的である。)からも裏付けられる。そうだとすると, 本部壕の出来事も, 初枝からその時弾薬の提供を断ったと教えられるまでは, 控訴人梅澤にとって長く記憶に残るほど重大なことではなく, 戦後35年の間, 思い出されることもなかったと理解されるのである。ちなみに, この点は原審以来問題とされてきた点であるが, 控訴人梅澤からは, 昭和55年以前に控訴人梅澤が本部壕の出来事について記憶していたことを裏付けるそれ以前の日付の記録, 日記, 手記, 戦友会誌の記事, 戦友たちとの会話, マスコミ取材への応答, 週刊誌の記事やそれへの反論の類の提出は一切ない。現在からそれらを収集するとすれば相当困難でもあろうが, 控訴人梅澤は昭和33年頃にはマスコミから激しい個人攻撃を受け, 昭和60年頃には沖縄タイムス等への抗議活動を行い, 手記や「戦斗記録」を執筆しているのであるから, それ以前の記録類が残っていても不思議ではない。しかし, 本件訴訟記録上は, 控訴人梅澤の上記供述は, 客観的資料としては, 昭和60年7月30日付神戸新聞の記事(甲B9), 同年10月6日付書簡(甲B130), 同年12月10日付書簡(甲B27)及び昭和61年発行の沖縄史料編集所紀要11号所載の手記「戦斗記録」(甲B14)とその原稿(甲B129)にまでしか遡れないのである。


(イ―3)(梅澤陳述は記憶の変容と創造)*


  したがって, 控訴人梅澤の語る本部壕での出来事は, 一見極めて詳細でかつ具体的ではあるが, 初枝から聞いた話や初技から提供されたノート等によって35年後から喚起されたものであり, 記憶の合理化や補足, 潜在意識による改変その他の証言心理学上よく知られた記憶の変容と創造の過程を免れ得ないものであり, その後さらに繰リ返し想起されることにより確信度だけが増したものとみるしかない。先にみた初枝の記憶し記録する事実の信頼性を左右するようなものとは到底認められない。したがって, 控訴人梅澤は, 本部壕で「自決するでない。」などとは命じておらず, かねてからの軍との協議に従って防衛隊長兼兵事主任の助役ら村の幹部が揃って軍に協カするために自決すると申し出て爆薬等の提供を要請したのに対し, 要請には応じなかったものの, 玉砕方針自体を否定することもなく, ただ, 「今晩は一応お婦り下さい。お帰り下さい」として帰しただけであったと認めるほかはない。

  このことは, 帰された村の幹部らが, その直後に, 集団自決を実行していろことにも符合している。村の幹部らが揃って軍に協カするために自決を申し出たのに対し, 部隊長から, 決して自決するではないなどとそれまでの玉砕方針とは正反対の指示がなされたのであれば, その命令に反して, そのまま集団自決が実行されたというのは不自然であり, 「今晩は一応お帰リ下さい。お帰り下さい」として決断しない部隊長に帰されて, 村の幹部らが従来の方針に従い日本軍の意を体して信念に従って集団自決を実行したものと考えるほうがはるかに自然である。


(ウ)


  • (引用者注)第1審判決にあったこの項は第2審判決では削除されている。

ところで,証拠(甲B21,乙4,9及び50)によれば,初枝が昭和20年3月25日に原告梅澤と面談した後,盛秀助役に
「役場の壕から重要書類を取ってきて,忠魂碑前に持ってくるように」
と命じられたこと,初枝は,妹や宮平澄江らを誘い,5人で書類を運ぶこととしたこと,初枝らは,1回目の重要書類を運び終えたが,1回目に役場の壕に出かけた際,照明弾が投下され,艦砲射撃が激しくなったこと,初枝らは,谷底に身を縮めていたことが認められる。そうすると,初枝は,座間味島の集団自決の際,現場である忠魂碑前にいなかったことになり,原告梅澤と面談した後,原告梅澤はもちろん,集団自決に参加した者との接触も断たれていたのであるから,直接的には原告梅澤の集団自決命令の有無を語ることのできる立場になかったこととなる。

(エ)(「母の遺したもの」は梅澤命令説を否定するものではない)*


  したがって,(ア)記載の「母の遺したもの」の記述から,直ちに梅澤命令説を否定できるものではないというべきである。もとより,「母の遺したもの」の記述からすれば,前記「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」(下谷修久刊行「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」所収 乙6)及び「沖縄敗戦秘録-悲劇の座間味島」(乙19)「とっておきの体験実話 沖縄戦最後の日」(「家の光」所収 乙19)にある控訴人梅澤の自決命令の記載が初枝の体験談としては措信し難いことはいうまでもない。

  しかしながら,反面,第4・5(2)ア(イ)eで記載したとおり,「母の遺したもの」には,初枝が木崎軍曹からは
「途中で万一のことがあった場合は,日本女性として立派な死に方をしなさい
と手榴弾一個が渡されたとのエピソードも記載されており(甲B5・46頁),この記載は,日本軍関係者が米軍の捕虜になるような場合には自決を促していたことを示す記載としての意味を有し,軍が自決を方針としていたことを裏付けるものとして,梅澤命令説を肯定する間接事実となり得る。控訴人らは, これを「軍の善き関与」であるなどとも主張するが, 採用できない。



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