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k 「渡嘉敷村史」(平成2年)渡嘉敷村史編集委員会編集(2ha)

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読める控訴審判決「集団自決」
事案及び理由
第3 当裁判所の判断
5 真実性ないし真実相当性について(その1)
【原判決の引用】
(原)第4・5 争点(4)及び(5)(真実性及び真実相当性)について
(原)(2) 集団自決に関する文献等
  • イ 渡嘉敷島について
    • (ア)(赤松命令説記載文献

  赤松命令説について直接これを記載し, 若しくはその存在を推認せしめる文献等としては, 以下に記載するものがあげられる。

k 「渡嘉敷村史」(平成2年)渡嘉敷村史編集委員会編集(2ha)

(判決本文p175~)

  • (引用者注)当サイトでは、原審判決に大阪高裁が付加あるいは判断を改めた部分等は, 区別しやすいようにゴシック体で表示し, 削除した部分は薄い色で削除した部分示しました。


(a)(「渡嘉敷村史」中の富山証言)*

  「渡嘉敷村史」は, 渡嘉敷村史編集委員会の編集により, 渡嘉敷村役場が発行したものである。

  「渡嘉敷村史」には,
「すでに米軍上陸前に, 村の兵事主任を通じて自決命令が出されていたのである。 住民と軍との関係を知る最も重要な立場にいたのは兵事主任である。 兵事主任は徴兵事務を扱う専任の役場職員であり, 戦場においては, 軍の命令を住民に伝える重要な役割を負わされていた。 渡嘉敷村の兵事主任であった新城真順氏(戦後改姓して富山)は, 日本軍から自決命令が出されていたことを明確に証言している。 兵事主任の証言は次の通りである。

  1. 一九四五年三月二〇日, 赤松隊から伝令が来て兵事主任の新城真順氏に対し, 渡嘉敷部落の住民を役場に集めるように命令した。 新城真順氏は, 軍の指示に従って『一七歳未満の少年と役場職員』を役場の前庭に集めた。
  2. そのとき, 兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手榴弾を二箱持ってこさせた。 兵器軍曹は集まっ 二十数名の者に手榴弾を二個ずつ配り訓示をした。〈米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら一発は敵に投げ,捕虜になるおそれのあるときは,残りの一発で自決せよ。〉
  3. 三月二七日(米軍が渡嘉敷島に上陸した日), 兵事主任に対して軍の命令が伝えられた。 その内容は, 〈住民を軍の西山陣地近くに集結させよ〉というものであった。 駐在の安里喜順巡査も集結命令を住民に伝えてまわった。
  4. 三月二八日, 恩納河原の上流フィジガーで, 住民の 〈集団死〉事件が起きた。 このとき, 防衛隊員が手榴弾を持ちこみ, 住民の自殺を促した事実がある。
手榴弾は軍の厳重な管理のもとに置かれた武器である。 その武器が, 住民の手に渡るということは、 本来ありえないことである。」

「渡嘉敷島においては, 赤松嘉次大尉が全権限を握り, 村の行政は軍の統制下に置かれていた。 軍の命令が貫徹したのである。」
として, 赤松大尉が住民に対して自決命令を出したとする記述がある(乙13・197,198頁)。


(b)(朝日新聞での富山証言)*

  昭和63年6月16日の朝日新聞夕刊(乙12)によれぱ, 富山真順は, 朝日新聞の取材に対して同趣旨の供述をし, そうした供述をしたことに関して
「玉砕場のことなどは何度も話してきた。 しかし, あの玉砕が, 軍の命令でも強制でもなかったなどと, 今になって言われようとは夢にも思わなかった。 当時の役場職員で生きているのは, もうわたし一人。 知れきったことのつもりだったが, あらためて証言しておこうと思った。」
と語ったとされる。




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