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15年戦争資料 @wiki

i 「家永第3次教科書訴訟第1審 金城重明証言」(昭和63年,安仁屋政昭編「裁かれた沖縄戦」所収)(2ha)

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読める控訴審判決「集団自決」
事案及び理由
第3 当裁判所の判断
5 真実性ないし真実相当性について(その1)
【原判決の引用】
(原)第4・5 争点(4)及び(5)(真実性及び真実相当性)について
(原)(2) 集団自決に関する文献等
  • イ 渡嘉敷島について
    • (ア)(赤松命令説記載文献


  赤松命令説について直接これを記載し, 若しくはその存在を推認せしめる文献等としては, 以下に記載するものがあげられる。

i 「家永第3次教科書訴訟第1審 金城重明証言」(昭和63年,安仁屋政昭編「裁かれた沖縄戦」所収)(2ha)

(判決本文p174~)

  • (引用者注)当サイトでは、原審判決に大阪高裁が付加あるいは判断を改めた部分等は, 区別しやすいようにゴシック体で表示し, 削除した部分は薄い色で削除した部分示しました。


(a)(金城証言から)*

  金城証人は, 渡嘉敷島の集団自決の体験者であり, 東京地方裁判所昭和59年(ワ)第348号損害賠償請求事件(以下「家永教科書検定第3次訴訟第1審」という。)において, 証人として渡嘉敷島の集団自決について証言した。

  「家永第3次教科書訴訟第1審 金城重明証言」には,
「村の指導者を通して, 軍から命令が出たというふうな達しがありまして, 配られた手榴弾で自決を始めると, これが自決の始まりであります。」

「実は, 当時の役場の担当者に電話で確認を取りましたら, 集団自決が起こる大体数日前ですね, 日にちは何日ということはよくわかりませんけれども, 日本軍の多分兵器軍曹と言っていたのでしょうか, 兵器係だと思いますけれども, その人から役場に青年団員や職場の職員が集められて, 箱ごと持って来て, 手榴弾をもうすでに手渡していたようです。 一人に二箇ずつ, それはなぜ二箇かと申しますと, 敵の捕虜になる危険性が生じた時には, 一箇は敵に投げ込んで, あと一箇で死になさいと。 ですから, やはり集団自決は最初から日本軍との係わりで予想されていたことだということが分かるわけです。 更に集団自決の現場では, それに追加されて, もう少し多く手榴弾が配られていると, しかし余り数は多くないものですから, 私ども家族にはありませんでした。」

「当時の住民は軍から命令が出たというふうに伝えられておりまして, そのつもりで自決を始めたわけであります。」

「(証人自身は, 直接その自決の命令が出たという趣旨の話を直接聞かれたのですか)はい, 直接聞きました。」
との記述がある(乙11・287,288頁)。


(b)(金城意見書から)*

  安仁屋政昭編「裁かれた沖縄戦」には, 金城証人の「意見書 軍国主義的皇民化教育の末路としての『集団自決』」が掲載されているが, そこには
「一千名近くの住民が, 一箇所に集められた。 軍からの命令を待つ為である。 阿波連の住民の幾人かが身の危険を感じて『集団自決』の惨事が起こる前にその現場を離れようとすると, 駐在が刀を振り回して自決場へ再び追い込まれるという現象も起こったのである。 勿論これは彼自身の意志に基づく行動ではなく, 日本軍に仕組まれた計画の実践に他ならなかった。 この事も 『集団自決』 が軍隊に強いられたものであって, 住民の自発的行動でなかったことを証拠立てるものである。」

「死刑囚が死刑執行の時を, 不安と恐怖のうちに待つかのように, 私共も自決命令を待った。 いよいよ軍から命令が出たとの情報が伝えられた。 配られた手榴弾で家族親戚同士が輪になって自決が行われたのである。」

「『集団自決』 は様々な要素のからみで生起した惨事である。 天皇や国の為に死ぬことを教え込まれた国民的素地があったこと, 捕虜になることへの恐怖心と恥意識, 孤島で戦闘に巻き込まれて逃げ場を失い, 精神的にも空間的にも追い詰められたという現実等が集団自決の要因となったのである。 しかし何よりも日本軍が戦略的に住民を一箇所に集結せしめた結果, 敵軍に包囲された瞬間に必然的に『集団自決』へと追い込まれたということは, 重大な要因として挙げなければならない。 赤松隊は戦賂上島の住民を敵軍と接触させない等の理由から, 一箇所に集結せしめたのである。 従って我々住民が西山陣地の近くへ集結したのは, 自らの自由意志によるものではなく, 飽くまでも日本軍の意志によって強いられたものであった。」

「更に極めて重大な問題は, 『集団自決』 用の手榴弾は誰が何時何所で住民に配ったかということである。」

「村の当時の担当者の話しによると, 村の青年団員と役場の職員凡そ二〇名から三〇名位が役場に集められて手榴弾を各自二個ずつ配られた。 捕虜になるおそれのある時には一個は敵に投げ, 他の一個で自決するようにと手渡されたという。 従って 『集団自決』 の為の手榴弾は予め日本軍によつて準備されたものである。 手榴弾が予め手渡されたということは, 軍によって 『集団自決』 への道が事前に備えられていたと言うことができるのである。 同様の目的で防衛隊員にも手榴弾が二個ずつ手渡されていた。 この事は住民が 『集団自決』 に追い込まれていく大きな原因となったのである。」
といった記載がある(乙11・339,340,347,348頁)。


(c)(その他の金城体験談)*

  金城証人の体験談は, 「潮」(昭和46年11月号, 甲B21。 なお, ここでは「渡嘉敷島でのいわゆる集団自決について, 直接の指揮系統は未だ明確ではなく, 赤松大尉は直接命令を下さなかったという説もあ」るとしている。), 「『集団自決』を心に刻んで」(甲B42), 平成19年6月22日付け毎日新聞(甲B77), 平成19年4月4日付け琉球新報乙54), 「沖縄戦一県民の証言」(乙64)などにも掲載され, 本件訴訟においても, 家永教科書検定第3次訴訟第1審におけるのと同様の証言をしている。


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