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n (新たな供述や新聞報道)(2ha)

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読める控訴審判決「集団自決」
事案及び理由
第3 当裁判所の判断
5 真実性ないし真実相当性について(その1)
【原判決の引用】
(原)第4・5 争点(4)及び(5)(真実性及び真実相当性)について
(原)(2) 集団自決に関する文献等
  • ア 座間味島について
    • (ア)(梅澤命令説記載文献


  梅澤命令説について直接これを記載し, 若しくはその存在を推認せしめる文献等としては, 以下に記載するものがあげられる。

n (新たな供述や新聞報道)(2ha)

(判決本文p156~)

  • (引用者注)当サイトでは、原審判決に大阪高裁が付加あるいは判断を改めた部分等は, 区別しやすいようにゴシック体で表示し, 削除した部分は薄い色で削除した部分示しました。


(a)(また)*

  また, 座間味島の集団自決については, 本件訴訟を契機とした新たな住民の供述や新聞報道等がある。

(b)(宮平春子)*

  盛秀助役の妹である宮平春子は, 陳述書に
「昭和20年3月25日の夜のことでしたが, 盛秀が外から宮里家の壕に帰ってきて, 父盛永に向って,
『軍からの命令で, 敵が上陸してきたら玉砕するように言われている。 まちがいなく上陸になる。 国の命令だから, いさぎよく一緒に自決しましょう。 敵の手にとられるより自決したほうがいい。 今夜11時半に忠魂碑の前に集合することになっている』
と言いました。 そして, 皆で玉砕しようねということになり, 私が最後のおにぎりを作って, 皆で食べ, 晴れ着に着替え, 身支度を整えました。」

「座間味島の住民の集団自決は, 私の兄の盛秀が命令したものではなく, 軍が命令したものであることは間違いありません。 盛秀は,
『軍の命令で玉砕するように言われている』
と, はっきり言っていました。 軍の命令がなければ大変可愛がっていた幼い子どもたちを死なせるようなことは決してなかったはずです。」

「なお, 私は, 昭和20年3月23日の空襲のあと, 外を歩いていたところ飛行機による爆撃があったので, 爆撃から逃れるため, たまたま近くにあった民間の壕に避難しましたが, その壕にいた日本の兵隊から,
『アメリカ軍が上陸しても絶対に捕まることなく, いさぎよく死になさい。 捕まったら日本の恥だから, 日本人らしく, 日本の魂を忘れないように』

『捕まったら強姦され, 残酷に殺されるから, 自分で死になさい』
と言われました。 日本軍の人たちは, 米軍が上陸したら, 私たち住民を絶対に捕虜にさせないため, 自決させなければならないと思っていたようです。」
と記載し, 沖縄タイムスの取材に対しても盛秀助役の言動等について同趣旨の供述をしている(乙51,71の1及び2)。

(C)(上洲幸子)*

  上洲幸子は, 昭和60年に神戸新聞の取材で
「米軍上陸後は奥地へ転戦する日本軍とともに行動した。 集団自決の命令はなかったが, 上陸後, 四, 五日たって日本兵の一人から
『米軍に見つかったら舌をかみ切って死になさい』
と言われた」
と述ぺていたが(甲B9), その凍途書の中に,
赤崎のため池「に筒井という日本軍の中尉がやってきて, 私たち島民に集まるように言いました。 私たちを含め10人くらいが筒井中尉のところに集まると, 筒井中尉は, 私たちに
『アメリカ軍が上陸しているが, もし見つかったら, 捕まるのは日本人として恥だ。 捕まらないように, 舌を噛みきってでも死になさい。』
と指示しました。 知恵の遅れた男の人が死にたくないと泣き出したのを覚えています。」
と記載している(乙52)。

(d)(宮里育江)*

  宮里育江は, その陳述書の中に,
「『座間味村史』下巻61頁に, 昭和20年3月25日に特幹兵が出撃するときに, 特幹兵から『自決しなさい』といって私が手榴弾を渡されたことが書いてありますが, そのとおり間違いありません。 特幹兵とは, 第三中隊の壕にいた海上挺身戦隊(梅澤戦隊長)の特別幹部候補生のことです。
『栓を抜いてたたきつけると破裂するから, そうして自決しなさい』
と教えられました。 渡された場所は第三中隊の壕の前です。」

「私の夫の妹の宮川スミ子の話では, 昭和20年3月25日の夜, 妹たち家族が玉砕のため忠魂碑前に集まったときに, 大阪伍長という人が, これで死になさいといって手榴弾を渡そうとしたということです。」

「座間味島の集団自決は, 村の幹部が軍の命令なしに勝手に行ったものでは決してないはずです。 当時, 村の三役は軍の指示や命令なしに勝手に行動することは許されませんでした。 集団自決の貢任は軍にあり, その隊長に責任がなかったとはいえないと恩います。」
と記載している(乙62)。

  また, 「世界 臨時増刊 沖縄戦と『集団自決』」(平成20年1月, 乙102)中の國森康弘の「元日本兵は何を語ったか 沖縄戦の空白」中には,
「勤労奉仕で軍に協力した宮里育江氏(八三歳)
『(米軍上陸を前にに際して)一ヵ所に集まれと伝令が来たとき, それはもう皆で一緒に『死ね』と言われたものだと感じた』
という。 実際宮里氏は米軍上陸の前日, 陸軍船舶兵特別幹部侯補生から
『あなた方は足手まといになる』
『いざというときにはこれで自決しなさい』
と手榴弾を渡されていた。 爆破のさせ方も教わった。」
との記載がある。


(e)(垣花武一:控訴審で新提出)*


  垣花武一作成の平成20年6月6日付け陳述書には, 同人は昭和42年から座間味村郵便局に勤務していたが, 戦前から同村の郵便局長であった石川重徳が
「村の幹部は, 米軍が上陸したら軍の足手まといにならぬよう住民を玉砕させるよう, 軍から命令されていた。 昭和20年2月ころ, 村の三役が石川ら村の要職者を密かに集め, 米軍が上陸した場合は住民を玉砕させるよう軍から命令されていると打ち明けた。」
と何度も話していたとの記載がある(乙105)。


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