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l 体験者らの供述等(2ha)

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読める控訴審判決「集団自決」
事案及び理由
第3 当裁判所の判断
5 真実性ないし真実相当性について(その1)
【原判決の引用】
(原)第4・5 争点(4)及び(5)(真実性及び真実相当性)について
(原)(2) 集団自決に関する文献等
  • ア 座間味島について
    • (ア)(梅澤命令説記載文献


  梅澤命令説について直接これを記載し, 若しくはその存在を推認せしめる文献等としては, 以下に記載するものがあげられる。

l 体験者らの供述等(2ha)

(判決本文p152~)

  • (引用者注)当サイトでは、原審判決に大阪高裁が付加あるいは判断を改めた部分等は, 区別しやすいようにゴシック体で表示し, 削除した部分は薄い色で削除した部分示しました。


(a)(「沖縄県史第10巻」記載分)*


  以上の文献のほか, 「沖縄県史第10巻」には, 宮里とめ(乙9・738,739頁), 宮里美恵子(乙9・741頁), 宮平初子(乙9・746頁), 宮平カメ及び高良律子(乙9・753頁)など, 座間味島の住民の体験談が紹介されている。

  すなわち, 宮里とめについては,
「二十五日の晩, 全員自決するから忠魂碑前に集まるよう連絡を受けたため, 一番いい服を取り出してきれいに身支度を整えてから, 子供たちの手をひきながら忠魂碑に向かいました。」

「近くにいた兵隊さんが,
『こんなに小さな島に米兵が上陸すると,どんなに逃げても袋のねずみとかわらないし,どうせいつかはみんな死んでしまうんだよ』
といいました。 それを聞くと, 前に友軍から, もし米兵が上陸してきたら, この剣で敵の首を斬ってから死ぬように, ともらった剣を知り合いの男の人に, 敵の首を斬るのは男がしかできないから, と上げてしまったのを非常に後悔してなりませんでした。」
との体験談が掲載されている。

宮里恵美子については,
「二十三日から始まった戦闘は相変わらず衰えることなく, 二十五日晩の
『全員自決するから忠魂碑の前に集まるよう』
連絡を受けた頃などは, 艦砲射撃が激しく島全体を揺るがしている感じです。
『このような激しい戦闘では生きる望みもないから』
ということで, 命令を受けると, みんなは一張らの服を取り出して身支度を整えました。」
との体験談が掲載されている。

宮平初子については,
「二十五日の晩, 忠魂碑の前で玉砕するから集まれ, との遵絡を受けたため, 今日は最後の日だから, と豚を一頭をつぶしみそ煮をして食べたが。 なまにえであったにも拘らずひもじさも手伝ってか, あの時の味は何とも言えないおいしさでした。 食事を終えてからきれいな着物をとりだし身づくろいをしてから, 忠魂碑の前まで家族で行ってみるとだれもいない。 しようがないので部落民をさがして近くの壕まで行ってみると, そこには部落民や兵隊らがいっぱいしている。 私達の家族まではいると, あふれる状態でした。 それでもむりにつめて, 家族はまとまってすわれなかったが適当にあっちこちにすわることにした。 中にいる兵隊が,
『明日は上陸だから民間人を生かしておくわけにはいかない。いざとなったらこれで死になさい』
と手榴弾がわたされた。」
との体験談が掲載されている。

  宮平カメ及び高良律子は, 連名の体験談の中で,
「二十五日の夜, 母は私と弟の二人を残して, 空襲のスキをねらっては家に戻り, 二人の姉と妹をつれておにぎりをつくりに帰っていた。 ちょうどその時, 全員忠魂碑前で玉砕するから集まるよう私達の壕に男の人が呼ぴにきたため, 小学校一年生である私は, 母はいないしどうしていいものかわからないため,ただみんながむこうで死ぬのだというので, 六歳の弟を連れて忠魂碑へと歩いていった。」
と記述している。

  なお, ここにいう私は, 体験談に記載された年齢から, 高良律子(当時8歳)と思われる。

(b)(「座間味村史下巻」や「沖縄の証言」記載分)*


  また, 「座間味村史下巻」(乙50)や「沖縄の証言」(甲B45)にも, 座間味島における集団自決の体験者の体験談が記載されている。

  宮村文子宮里育江は, 「座間味村史下巻」に
「三月二五日のこと, 伝令が, 敵の艦隊が安室島に上陸したことを伝えてきたのです。 そしていよいよ, 特幹兵が出撃することになりました。 それで
『私たちも武装しますから,皆さんの洋服を貸してください。それを着ますので,一緒に連れていって下さい』
とせがんだのですが,
『あなた方は民間人だし, 足手まといになるから連れて行くわけにはいかない』
と断られました。そして,
『これをあげるから,万一のことがあったら自決しなさい』
と,手榴弾を渡されました。」
との体験談を寄せている。 また, 富里とめ, 宮里美恵子が「沖縄県史第10巻」と同様の体験談を「座間味村史下巻」に寄せているほか,
「住民は全員忠魂碑前に集まりなさいという連絡がはいりました。 忠魂碑前に集まるということは, 暗然のうちに『玉砕』することだと認識していました」
とする宮里米子や
「二五日の晩, 激しい艦砲射撃のなかを, 伝令がやってきて, 忠魂碑前に集まるように言うわけです。 とうとう玉砕するのかと思いながら壕を出て行」った
とする宮平ヨシ子らの体験談も記載されている。

  さらに, 宮里美恵子の体験談が「沖縄の証言」(甲B45)にも掲載されるなど, 体験者の供述は様々な文献で紹介されている。

(C)(宮城初枝の手記)*

  また, 初枝の手記は, 様々な形で残されているが, 「座間味村史下巻」(乙50・17頁)に
「午後九時頃のことです。 部隊全員が斬込み隊となって, 夜襲を敢行することになったのです。 その出発間際に, 私たちは斬込み隊長の内藤中尉に呼ばれて
『今夜半, 斬込み隊は座間味の敵陣地を襲撃する。 斬込み隊の生存者は稲崎山に集合することになっているので, お前たちは別働隊として, この弾薬を稲崎山の山頂まで運んでくれ。 これで一緒に戦うんだ。 」と弾薬箱を渡されました。 また, 木崎軍曹からは
『途中で万一のことがあった場合は, 日本女性として立派な死に方をしなさいよ』
と手榴弾一個が渡されました。」
と記載されているエピソードは, その他の手記(乙6・45頁, 乙9・756頁, 乙19等)にも記載されている。


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