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a 「鉄の暴風」(昭和25年)沖縄タイムス社発行(2ha)

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読める控訴審判決「集団自決」
事案及び理由
第3 当裁判所の判断
5 真実性ないし真実相当性について(その1)
【原判決の引用】
(原)第4・5 争点(4)及び(5)(真実性及び真実相当性)について
(原)(2) 集団自決に関する文献等
  • ア 座間味島について
    • (ア)(梅澤命令説記載文献


  梅澤命令説について直接これを記載し, 若しくはその存在を推認せしめる文献等としては, 以下に記載するものがあげられる。

a 「鉄の暴風」(昭和25年)沖縄タイムス社発行(2ha)

(判決本文p144~)

  • (引用者注)当サイトでは、原審判決に大阪高裁が付加あるいは判断を改めた部分等は, 区別しやすいようにゴシック体で表示し, 削除した部分は薄い色で削除した部分示しました。


(a)(住民の体験戦記)*


  「鉄の暴風」は, その「まえがき」にあるように, 軍の作戦上の動きをとらえることを目的とせず, あくまでも, 住民の動き, 非戦闘員の動きに重点を置いた戦記である。 そして, その第10版に掲載された「五十年後のあとがき」には, その取材方法等について, 「戦後も五年目」で
「  資料らしい資料もなく, 頼りになるのは, 悲惨な載争を生き抜いてきた, 人々の体験談をきくのが唯一の仕事で, 私(牧港篤三のこと)は太田良博記着と『公用バス』と称する唯一の乗物機関(実はトラックを改装したもの)を利用して国頭や中部を走り回ったことを憶えている。 語ってくれた人数も多いが, 話の内容は水々しく, 且つほっとであった。 もっと時間が経過すれば, 人々の記憶もたしかさを喪っていたことであろう。 戦争体験は, 昨日のように生まなましく, 別の観念の這入りこむ余地はなかった。」
と記載されている。


(b)(座間味島の記述)*


「鉄の暴風」には,
「  座間味島駐屯の将兵は約一千人余, 一九四四年九月二十日に来島したもので, その中には, 十二隻の舟艇を有する百人近くの爆雷特幹隊がいて, 隊長は梅沢少佐, 守備隊長は東京出身の小沢少佐だった。 海上特攻用の舟艇は, 座間味島に十二隻, 阿嘉島に七, 八隻あったが, いずれも遂に出撃しなかった。 その他に, 島の青壮年百人ばかりが防衛隊として守備にあたっていた。 米軍上陸の前日, 軍は忠魂碑前の広場に住民をあつめ, 玉砕を命じた。 しかし, 住民が広場に集まってきた, ちょうど, その時, 附近に艦砲弾が落ちたので, みな退散してしまったが, 村長初め役場吏員, 学校教員の一部やその家族は, ほとんど各自の壕で手榴弾を抱いて自決した。 その数五十二人である。」

「  この自決のほか, 砲弾の犠牲になったり, スパイの嫌疑をかけられて日本兵に殺されたりしたものを合せて, 座間味島の犠牲者は約二百人である。 日本軍は, 米兵が上陸した頃, 二, 三カ所で歩哨戦を演じたことはあつたが, 最後まで山中の陣地にこもり, 遂に全員投降した。」

として, 控訴人梅澤が座間味島の忠魂碑前の広場に住民を集め, 玉砕を命じた旨の記述がある(甲B6及び乙2・41頁, なお, 以下では同じ文献が甲号証及び乙号証で提出されている場合には, 便宜上一方の記載にとどめることとする。)。


(c)(巻末の記載)*


  また, 「鉄の暴風」には, 本文の後に「沖縄戦日誌」と題して年表形式で事実経緯がまとめられており, 昭和20年3月28日の箇所に ,座間味島と渡嘉敷島で住民が集団自決したこと, 厚生省の調査による両島の自決者の合計人数が約700人であったことが記載されている。

  • (引用者注) 「鉄の暴風」についての信用性等の評価は、判決文「集団自決に関する文献等の評価について」の当該項に書いてある。



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