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第2の4 当審における補充主張の要点

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4 当審における補充主張の要点

(判決本文p94~)


  当審における当事者双方の補充主張の要点(個々の文献や証言等に関するものを除く)は, 以下のとおりである。

(1) 控訴人ら


ア 特定性ないし同定可能性及び名誉毀損性の有無について


  「沖縄ノート」が「『この事件の責任者』の責任に言及」している部分は単なる「論評」とは評価できず, 控訴人梅澤の出した隊長命令の「事実摘示」を含むものである。 確かに「梅澤」という固有名詞の使用や「隊長命令」という直接的表現はされていないものの, 一般の読者の普通の注意と読み方を基準に, 前後の文脈や記事の公表当時に読者が有していた知識ないし経験等を考慮した場合には, 「沖縄ノート」発表当時, 座間味島の集団自決事件について梅澤命令説が定説とされていたことは一般の読者の知識の範疇であったといえるし, 本件記述(2)が引いている上地一史著「沖縄戦史」(乙5)には梅澤命令説も明確に記載されているという文脈からして, 本件記述(2)が梅澤命令説の事実摘示を含むものであることは動かせない。 また, 当該記述が, 本土の日本人の批判ないし自己批判の趣旨を含むあるいは結論とする表現であるとしても, それを理由に記述中の赤松大尉に対する名誉毀損の事実摘示部分の名誉毀損性が失われるものでもない。


イ 本件各書籍の記述の真実性について


  「沖縄ノート」に書かれている隊長命令, すなわち
「日本人の軍隊の《部隊はこれから米軍を迎え撃ち長期戦に入る。したがって, 住民は, 部隊の行動を妨げないために, また食糧を部隊に供給するために, いさぎよく自決せよ》という命令」
は, 『いざという時』のため, 米軍による暴行虐殺を免れ, 人としての尊厳を守るために手榴弾を渡して自決を指示したというような類のものとは全然異なるものである。「沖縄ノート」では, 赤松大尉は「およそ人間がなしうるものとは思えぬ決断」としての自決命令を発し, 「余りに巨きな罪の巨塊」と断定され, 「屠殺者」と呼ぱれ, 「アイヒマンのように裁かれるぺきだった」とされている。 それは, なによりも部隊が生き延びるため, 住民に犠牲を強いる非情の命令であった。 そして, そこでの命令は, 住民の意思を制圧するだけの強制力を伴うものであったと一般の読者は理解する。「鉄の暴風」(乙2)で描かれ, 「沖縄戦史」(乙5)で記述され, 「沖縄ノート」に引用された軍隊の命令は, かかる非情の命令であり, [1]部隊が生き延ぴる目的のために[2]住民の犠牲を[3]強制するもののことである。

  かかる非情かつ無慈悲な自決命令としての赤松命令が存在しなかったことは明らかであって, 「いざという時」のための手榴弾の交付と自決の指示はそれとは全く別のものである。 それは集団自決という悲劇に対する赤松大尉の責任, あるいは軍の責任を問うことはできても, 「沖縄ノート」に事実として引用された自決命令とは重要な点において異なっているばかりか, 赤松大尉に対する「罪の巨塊」や「屠殺者」や「アイヒマン」などといった一方的で究極的な人格非難を正当化できるものではない。

  事前の手榴弾交付を自決命令の根拠とする被控訴人らの主張は, 実態としては「示唆」であり「誘因」に止まるものを「命令」と強弁するものである。 集団自決の原因は, 島に対する無差別爆撃を実行した米軍に対する恐怖, 鬼畜米英の教え, 「生キテ虜囚ノ辱メヲウケズ」との皇民化教育, 戦陣訓, 「死ぬときは一緒に」との家族愛, 部隊や兵士そして教員や村幹部からの「いざという時」のための手榴弾の交付と自決の示唆等の様々な要因が絡んだものである。それらは軍や赤松大尉の集団自決の「責任」を論じる根拠にはなっても, 事実としての自決命令, すなわち部隊が生き延びるために住民の犠牲を強制する「命令」ではない。 これを「軍の命令」として括ってしまうことは過度の単純化, 図式化であり, かえって歴史の実相から目をそらせるものである。 被控訴人らは, 集団自決に関する軍の責任の有無という規範的評価に関する問題を隊長から発せられた自決命令の存否という事実の証明の間題とすり替えようとしている。


ウ 本件各記述の真実相当性について


  平成19年3月30日に発表された平成18年度検定の集団自決が軍の強制や命令によるものとする断定的な記載は認めないとの判断は, その後の教科書発行者らによる教科書訂正申請によっても, 揺らぐことなく堅持されており, 同年12月26日に発表された文部科学省の立場でも改めて確認されている。 すなわち, 文部科学省は, 日本軍の方針が一般住民にも教育指導されていたという形の主体の曖昧な軍の関与の記述は許容するが, 直接的な軍の命令ないし強制と読める記述は許容しておらず, 検定意見の立場は一貫している。 したがって, 原判決が軍の命令の記述を容認していた従来の検定意見をもって原審口頭弁論終結時における同省の立場であるとして, 本件各記述の摘示事実ないし前提事実に係る真実相当性の根拠としたのは誤りである。

  また, 原判決は, 関係証拠から集団自決における「軍の関与」を認め, そこから隊長の関与を「推認」できるとし, もって隊長命令につき合理的資料若しくは根拠があるとする。 しかし, 「軍の関与」の認定とそこから推認した「隊長の関与」を基礎として「隊長命令」を摘示することに相当性は認められない。 「太平洋戦争」と「沖縄ノート」は, 「隊長命令」を「推論に基づく意見論評」としてではなく, 「確定的な事実摘示」として記述している。 しかし, 本件においては, 「軍の関与」までしか「立証」できていないから, せいぜい「軍の関与」を基礎事実として隊長命令を推論する意見論評における推論の合理性を担保するものにすぎず, 隊長命令を事実として断定的に摘示することは許されない。 にもかかわらず, 「軍の関与」から「隊長の関与」を推認し, その「隊長の関与」から「隊長による自決命令」を推論し, 真実相当性があるとするのは, 真実相当性を論理のワンクヅションとして誤用して真実性を緩和するものである。 原判決は, 意見論評としての「推論の合理性」をもって, 事実摘示の免責に必要な真実相当性, すなわち行為時における立証可能な程度の真実性と混同している。


工 真実相当性の法的性質及び判断基準時について


  真実性の証明は客観的事実と合致することの証明であり, その判断基準時は口頭弁論終結時である。 他方, 真実相当性の判断基準時は, 故意又は過失という行為者の主観面に係る責任阻却事由としての本質から名誉毀損行為時である。 真実相当性の法理は, 行為時において名誉毀損者側が調査可能な資料に照らし真実性の証明に足りると評価できる場合であっても, 後日発見された証拠資料等によって真実性が失われる場合があることに鑑み, これを故意又は過失を阻却することで救済し, 正当な表現の自由を保障しようとしたものであり, 真実性の根拠となる証拠資料が時間の推移によって変わり得ることに配慮したものである。 本件では, 人格権の侵害の表現を有する本件各書籍の出版販売が口頭弁論終結時まで継続されていることから, 真実相当性の判断基準時も真実性に対するのと同じく口頭弁論終結時であり, 真実性の判断も真実相当性の判断も全く同一の資料や根拠に基づいてなされることになる。 真実性と真実相当性の判断は, 基準時が異なる場合には基礎とされる資料が異なるものの, 判断基準自体は同一である。 したがって, 全く同一の証拠資料に基づき, 一方で真実性を否定しながら, 他方で真実相当性を肯認することはあり得ない。 真実相当性を真実性の証明の程度の緩和としてとらえるのは, 景高裁の立場に違背している。 また, 名誉毀損の事実摘示を含む書籍の出版が, その後の資料により真実が十分明らかになった後にも, 真実相当性を認めて出版の継続が許されることは, 名誉の保護を著しく後退させることになる。


オ 公正な論評性の有無について


  「沖縄ノート」は「屠殺者」という差別用語を用いて赤松大尉を罵っている。 そして, 赤松大尉の内心の言葉として, 「あの渡嘉敷島の『土民』のようなかれらは, 若い将校たる自分の集団自決の命令を受け入れるほどにおとなしく, 穏やかな無低抗の者だつたではないか」と言わせ, 集団自決で死んだ渡嘉敷島の村民を,命令のままに集団自決する主体性なき「土民」と貶しめている。 「沖縄ノート」の表現は, 異様であり, 執拗かつ粘着的であり, 憎悪をかきたてずにはおれない扇情的なものであり, 悪意に満ち, 人間の尊厳と誇りを内面から抉るように腐食するものであり, 高見に立って地上で懸命に生きる人々を見下ろす独善と侮蔑的な差別表現に溢れている。それは究極の人格非難であり, 個人攻撃である。 被控訴人大江は, 「沖縄ノート」が沖縄について「核つき返還」等が議論されていた昭和45年の時点において日本人とは何かを考え, 戦後民主主義を問い直したものであるとするが, そうしたテーマを描く上で, 赤松大尉に対する悪意に満ちた人格非難を展開する必要は全くない。 かかる究極の人格非難を, 隊長命令という真実性が証明されない不確かな事実をもとに行うことは, 明らかに意見論評の範囲を逸脱している。


カ 本件各書籍の出版差止めについて


  本件各書籍は, 長期間にわたり表現の自由市場に出回り, その内容は多くの読者に読まれ, 批判検討されてきた。 「沖縄ノート」は38年にもわたり, 30万部以上が販売され, 一般読者に読まれてきた。投訴人らが求める本件各書籍の出版等の差止めはあくまでも事後的制裁であり, 表現一般に対する抑止的効果も限定されていて, その差止めについては事前抑制の危険を論じる余地がない。

  北方ジャーナル事件最高裁判決は, 出版物の頒布等の事前差止めに関するものであり, 事前差止めに伴う弊害等が何ら存しない事後的な出版等の差止請求である本件には当てはまらない。

  なお, 上記判決は事前差止めが認められる要件を提示しているが,その要件は, [1]その表現内容が真実ではなく, 又は, [2]専ら公益を図るものでないことが明白であり, かつ, [3]債権者が重大にして著しく回復困難な損害を被るおそれがあることである。 そして, 上記差止めの要件には, 真実相当性に関するものがなく, 北方ジャーナル事件最高裁判決(最高裁昭和61年6月11日大法廷判決)は, 真実相当性を故意又は過失を阻却するものとして認めた最高裁昭和41年6月23日第一小法廷判決の判示内容を引用しているから, 損害賠償請求における真実相当性に関する要件をあえて外したものと解すべきである。 つまり, 北方ジャーナル事件最高裁判決は, たとえ真実相当性が認められるものであっても, 客観的に真実性を欠いていることが認められる表現については, 将来における予防的救済措置としての事前差止めを許容する場合があるという態度を取っている。

  また, 真実相当性の内実は行為時における立証可能な程度の真実性の証明であり, 過去において真実だと信ずるに足りる相当な根拠に基づく名誉毀損行為の責任を免じるものである点からも, 現在ないし将来の名誉毀損行為を問題とする差止めの場面において真実相当性が登場する余地はない。

  そして, 仮処分決定や一審判決によって真実性が認められないとの判断によって違法性が宣告された表現については, その宣告直後から真実相当性を認めて故意・過失を阻却する余地がない。

  本件各書籍の出版等は控訴人らの名誉等の人格権を侵害するものであり, 控訴人らがこれによって重大な損害を被っていることは原判決が認定するとおりである。 とりわけ「沖縄ノート」は, その差別的文言を用いた究極の人格非難によって控訴人赤松ら遺族が被る精神的苦痛は計り知れないものがあるばかりか, 原判決後も続々と増刷を重ねており, 本件においては, 差止めを認める高度の必要性が認められる。

  本件各書籍に記載された隊長命令説の事実には真実性が認められないことは明らかであり, かつ, 原判決がその旨判示するところである。 したがって, 原判決後の出版については違法牲の意識を伴う確定的故意が認められるのであり, 真実相当性を認める余地はない。

  そして, 上記判決が人格権としての名誉権に基づく実体的差止請求権の要件について判示しているところから明らかなように, 名誉権が違法に侵害されていれぱ事後的差止めを認めるに十分であり, その表現内容が真実でないことが明白であることを求める理由はない。 最高裁平成14年9月24日第三小法廷判決は, 「石に泳ぐ魚」事件高裁判決の「侵害行為が明らかに予想され, その侵害行為によって被害者が重大な損失を受けるおそれがあり, かつ, その回復を事後に図るのが不可能ないし著しく困難であると認められるときは, 差止めを求めることができるものと解するのが相当である」との判示を肯定しており, 事後的な出版差止めにつき真実でないことの明白性を要件としていないことは明らかである。

  このようにして, 本件は, 名誉毀損者による真実性の証明がなく, 被害者が重大な損害を被っていることが明白な事案であるから, 本件各書籍の出版等の差止めは認められるぺきである。


キ 本件訴訟の目的について


  控訴人らは, 自らの意思で, 本訴を提起し, 出版停止等を求めている。

  控訴人らの提訴の動機は, 単なる自己の名誉や敬愛追慕の情の侵害に止まらず, 権威をもって販売されている本件各書籍や教科書等の公の書物において, 沖縄における集団自決が控訴人梅澤及び赤松大尉が発した自決命令によって強制されたかのごとく記載されていることに対する義憤であり, このまま放置することができないとする使命感であつた。

  しかし, 世間の耳目を集める訴訟が個人の権利回復に止まらず, より大きな政治目的を併有していることは珍しいことではなく, そのことは何ら非難されるものではない。

  集団自決の歴史を正しく伝えていくことは, 軍命令という図式ではなく, 米軍が上陸する極限状態のなかで住民たちが, 何をどのように考え, どのような行動の果てに自決していったのかを伝えていくことにある。

  そのことが本件訴訟の目的である。


(2) 被控訴人ら


ア 特定性ないし同定可能性及び名誉毀損性の有無について


  「沖縄ノート」の本件記述(2)には, 自決命令が座間味島の守備隊長によって出されたことも, 控訴人梅澤を特定する記述もなく, 控訴人梅澤が集団自決を命じた事実を摘示したものではない。控訴人梅澤自身, 「沖縄ノート」に座間味島の隊長が自決を命令したことが記載されていないことを認めている。 また, 控訴人梅澤は, 本件訴訟提起後の平成18年まで「沖縄ノート」を読んでいなかったことを認めている。したがって, 「沖縄ノート」が控訴人梅澤の名誉を毀損するものでないことは明らかである。

  また, 沖縄ノートの本件各記述には, 渡嘉敷島の守備隊長によって自決命令が出されたことも, 赤松大尉を特定する記述もなく, 赤松大尉が集団自決を命じた事実あるいはこれを強制した事実を摘示したものではない。 したがって, 上記各記述は, 赤松大尉の名誉を毀損するものではなく, 控訴人赤松固有の名誉を毀損することもなく, 控訴人赤松の赤松大尉に対する敬愛追慕の情を侵害することもないことが明らかである。


イ 本件各書籍の記述の真実性について


  以下のとおり, 「太平洋戦争」記載の控訴人梅澤の自決命令は真実を記載したものである。また, 「沖縄ノート」が控訴人梅澤及び赤松大尉の自決命令を記載したものであると仮定しても, 控訴人梅澤及び赤松大尉の自決命令があったことは事実である。 すなわち, 座閻味島及び渡嘉敷島駐留の日本軍は各島の住民に対し米軍が上陸した際には捕虜になることなく自決するよう指示・命令をしていた。 これは各島の最高指揮官である控訴人梅澤や赤松大尉の意思に基づかずにはあり得ないことである。 したがって, 座間味島の集団自決は駐留する日本軍の隊長である控訴人梅澤の, 渡嘉敷島の集団自決は駐留する日本軍の隊長である赤松大尉の, それぞれの命令によるものというぺきである。

  以上のような事実がありながら, 直接的かつ具体的な証拠がないから隊長命令があったと断定できないとし, 名誉毀損の責任を負わせるのは, 歴史的事実探求の自由や歴史的事実に対する表現の自由に萎縮効果や自己検閲をもたらし, 憲法21条1項の趣旨に反するから, 到底許されない。


ウ 本件各書籍の記述の真実相当性について


  文部科学省は, 平成19年12月26日公表の教科用図書検定審議会日本史小委員会の「基本的とらえ方」において, 本件訴訟の提起及び控訴人梅澤の陳述書等によって隊長命令があったとする従来の通説が覆されたとして行った平成19年3月30日発表の高校教科書の検定の際の立場を事実上撤回し, 日本軍によって集団自決に追い込まれたなどの教科書の記述を認める立場に戻った。 上記「基本的とらえ方」は, 軍の関与は集団自決の要因の主要なものととらえることができるとする一方, それぞれの集団自決が住民に対する直接的な軍の命令により行われたことを示す根拠は, 現時点では確認できていないとしているだけで, 軍による手榴弾の配布や壕からの追い出しなどの「軍の関与」を集団自決の主要な要因として明確に認めている。 したがって, 上記「墓本的とらえ方」は, 原判決が, 日本軍並ぴに座間味島及び渡嘉敷島の隊長が集団自決に関与しており, 隊長が自決命令を発したことについて合理的資料若しくは根拠があり, 隊長が自決命令を発したことが真実であると信ずるについて相当な理由があると認定することの裏付けにこそなれ, 同認定を覆す根拠となるものではない。

  また, 原判決は, 関係証拠から集団自決における「軍の関与」を認め, そこから隊長の関与を「推認」できるとしたが, それだけをもって隊長命令につき合理的資料若しくは根拠があるとしているわけではない。 原判決は, 控訴人梅澤及び赤松大尉が集団自決にそれぞれ関与したものと推認できることに加えて, 少なくとも平成17年度の教科書検定までの高校の教科書の記載や, 審議官が座間味島及び渡嘉敷島の集団自決について日本軍の隊長が住民に対し自決命令を出したとするのが従来の通説であった旨発言していたことに, 学説の状況や諸文献の存在, 家永三郎及び被控訴人大江の取材状況等を踏まえ, 本件各記述については, 合理的資料若しくは根拠があると評価できるとしている。 原判決のこれらの判断は極めて正当である。

  そして, 一旦出版された歴史研究書あるいは歴史的事実に関する論評を述べた書籍が, 版を重ねている場合には, このような書籍は出版当時の著者の歴史認識や歴史的事実に対する論評を記載したものであり, 読者もそのようなものとして読むことが通常である。 したがって, 仮に後に当該歴史的事実について新たな説や史料が明らかになったとしても, 真実相当性は初版又は改訂版発行時を基準として判断がなされるべきである。 仮にそうでないとしても, 当該歴史的事実が虚偽であることが明白となり, 誰の目からも当該記述を書き改めるべきであるといえる段階にならない限り, 真実相当性は失われないというぺきである。 このように解さなけれぱ, 出版後に当該書籍に記載した歴史的事実に関する新たな史料等に常に目を光らせ, 当該歴史的事実に少しでも疑問を述ぺるものがあれぱ出版の中止を検討しなければならないことになる。 そうすると, そのような可能性のない事実以外は記述をしないことになり, 歴史的事実を記述したり, 歴史的事実に関する論評を行うことは事実上困難になり, まさに萎縮効果, 自己検閲の弊害が生じることになるからである。 これらの点をも考慮すると, 各自決命令があったことについて真実相当性が認められることは一層明らかである。


工 真実相当性の法的性質について


  同一の証拠によつて真実性自体を高度の蓋然性をもって証明できない場合であっても, それが優越的蓋然性の程度に達して真実相当性の証明があるとされる場合があるのは当然のことである。 行為後に現れた資料・情報によって真実でないことが判明した場合であっても, 行為時に真実相当性が認められることは当然であるが, 同一の証拠によって真実であるとまでは認められないが, 真実相当性は認められるという認定があり得るのも当然のことである。

  原判決は, 控訴人梅澤及び赤松大尉が座間味島及び渡嘉敷島の住民に対し自決命令を発したことを直ちに真実と断定できないとしても, これらの事実については合理的資料又は根拠があると評価できるから, 本件各書籍の各発行時及び原審口頭弁論終結時において被控訴人らが真実と信ずるについて相当の理由があったものと認められると判断したもので, 最高裁が真実性の証明を違法性阻却事由とし, 真実相当性を責任阻却事由として位置づけていることに何ら違背していない。


オ 公正な論評性の有無


  本件記述(2)は, 慶良間列島の集団自決について「この事件の責任者」に言及しているが, 慶良間列島の集団自決に日本軍が深く関わり, 守備隊長の関与が十分推認されるのであり, これについて「この事件の責任者」の責任に言及することは真実に基づく公正な論評に該当する。なお, 控訴人梅澤自身, 守備隊長としての責任を認めている。


カ 敬愛追慕の情侵害による不法行為の成否について


  原審でも主張したとおり, 死者に対する敬愛追慕の情は単なる主観的感情にすぎず, 不法行為における被侵害利益として保護に値するものといえるか疑問であり, 敬愛追慕の情の侵害は不法行為を構成するとはいえない。 また, 仮に死者に対する敬愛追慕の情を害する不法行為が成立することがあるとしても, [1]死者の名誉を毀損するものであり, [2]摘示した事実が虚偽であって, かつ, [3]その事実が極めて重大で, 遺族の死者に対する敬愛追慕の情を受忍し難い程度に害したといえる場合に限り, 違法となり不法行為が成立すると解すぺきである。 また, 死者に関する事実は, 時の経過とともに歴史的事実となり, 人々の論議の対象となるもので, その場合には, 上記[2]の要件については, 一見明白に虚偽ないし全くの虚偽であることを要するというぺきである。


キ 本件各書籍の出版等の差止めについて


  表現の自由は民主主義社会の基礎をなすものであり, 表現の自由は他の基本的人権よりも優越的地位を占めるものとして特に強く保障されなけれぱならず, とりわけ「公共的事項に関する表現の自由」は, 特に重要な憲法上の権利として保障されなけれぱならない。 そして, 出版物の頒布の差止めは, 公共的事項に関する事実や考え方が人々に到達することを禁止し, 民主主義社会の基礎である公共的事項についての討論の機会を奪うことになるものであるから, 原則として許されない。

  本件は, 出版前の差止請求の事案ではなく, 既に出版されている書籍の差止請求の事案であるが, 同請求は, 損害賠償請求や被害回復措置請求等のような事後制裁の請求ではなく, 将来にわたり出版を禁止し, 公共的事項に関する事実や評価が人々に伝わることを妨げるという点において, 出版開始前の差止請求と同様, 民主主義社会の基礎を崩壊させる危険のある事前抑制であることに変わりはない。

  したがって, 本件においても, 北方ジャーナル事件最高裁判決が要件とした, その対象が公共の利害に関する事項である場合には, [1]表現内容が真実でないことが明白であるか又はもっぱら公益を図る目的のものでないことが明白であること, [2]被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被るおそれがあること, の[1]及び[2]の2要件が必要とされるべきである。 出版前の差止めが許されないとすれぱ, 同じ出版物については出版後の差止請求も同様でなけれぱならない。

  本件各書籍の内容は, 公務員の重大な職務行為についての事実及び評価・批判等を人々に伝達するものであり, 多数の住民が死亡した集団自決について軍の責任に関する事実や評価を記載したものであり, 多くの人々がその事実に触れ, 論評の材料としなけれぱならないものであるから, 極めて高度な公共的事項に関するものである。そして, 本件各書籍が公益を図る目的のものであることはいうまでもなく, 控訴人らが虚偽であると主張する本件各書籍の記載が真実であり, 少なくとも真実と信ずるについて相当な理由があって, 真実でないことが明白であるともいえない。したがって, 上記[1]の要件を欠いている。

  また, 以下の事実に照らすと, 本件各書籍の今後の頒布により控訴人梅澤が重大にして回復困難な損害を被るおそれがあるとはいえない。 すなわち, 「太平洋戦争」の記述は著者の昭和61年当時までの歴史認識を示したものとして読まれるものである。 そして, 歴史認識には見解の相違があり得るもので, 梅澤命令説を否定する見解も公表されている。 控訴人梅澤は, 沖縄タイムス社に対し, 今後一切梅澤命令説に異議を述べないと表明している。 「太平洋戦争」は40年間, 「沖縄ノート」は38年間もの長期間, それぞれ出版が継続されてきたものであり, 控訴人梅澤は, 本訴を提起するまで, 何ら異議を述べてこなかったし, 本件各書籍以外の書籍等の梅澤命令説については現在に至っても問題にしていない。 「沖縄ノート」は, 昭和45年9月に出版されたもので, 同年3月に渡嘉敷島の元日本軍の隊長が慰霊祭出席のために沖縄に赴いたところ, 現地の人々から厳しい抗議を受けた事実について論評したものであり, 当時の著者の認識に基づき, 著者の感じたことを述ぺたものであり, そのようなものとして読者もこれを受け止めるものである。 梅澤命令は記載されていない。 「沖縄ノート」の今後の頒布により控訴人梅澤が重大にして著しく回復困難な損害を被るとはいえない。

  次に, 控訴人赤松についてみると, 「沖縄ノート」が控訴人赤松の名誉を毀損するものでないことは明白であり, 赤松大尉に対する敬愛追慕の情を侵害する不法行為に該当するものでもない。 敬愛追慕の情の侵害を理由とする出版物の差止めが認められないことも, 原審において述ぺたとおりである。したがって, 控訴人赤松については, 差止めの要件について論じるまでもない。


ク 本件訴訟の目的について


  本件訴訟は, 控訴人らの自発的意思によって提起されたものではない。 特定の歴史観に基づき歴史教科書を変えようとする政治的運動の一環であり, 慶良間列島で発生した集団自決は, 日本軍の指示・命令・強制によるものではなく, 住民は国に殉じるために美しく死んだのだと歴史観を塗り替え, 歴史教科書を書き換えさせようとする目的で提起されたものである。 本件訴訟がそのような目的のために利用されることがあってはならない。


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