15年戦争資料 @wiki

8 公正な評論性の有無について

最終更新:

pipopipo555jp

- view
管理者のみ編集可
昨日 - 今日 -
目次 戻る 通2-124 次へ 通巻

読める控訴審判決「集団自決」
事案及び理由
第3 当裁判所の判断

8 公正な論評性の有無(原審争点(6))について

(判決本文p264~)


  この点についても, 一部の判断を改め, 補足するほかは, おおむね原判決が「事実及び理由」の「第4 当裁判所の判断」の6項において説示するとおりである。 そこで, これを以下に引用し, それを補正する形式で当裁判所の判断を示すこととする(引用の方式にっいては10頁に示した方式により, 当裁判所が付加しあるいは判断を改めた部分等は, 区別しやすいようにゴシック体で表示する。)。


【原判決の引用】


  • (引用者注)当サイトでは、原審判決に大阪高裁が付加あるいは判断を改めた部分等は, 区別しやすいようにゴシック体で表示し, 削除した部分は薄い色で削除した部分示しました。


第4・6争点(6)(公正なる論評性の有無)について


(1)<沖縄ノートの主題等>
  第2・2(4)イのとおり, 沖縄ノートは, 被控訴人大江が,沖縄が本土のために犠性にされ続けてきたことを指摘し, その沖縄について「核つき返還」などが議論されていた昭和45年の時点において, 沖縄の民衆の怒りが自分たち本土の日本人に向けられていることを述ぺ,
「日本人とはなにか, このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか」
との自問を繰り返し, 日本人とは何かを見つめ, 戦後民主主義を問い直したものである。

  被控訴人大江も, 第4・4(2)イで判示したとおり, 本人尋問において,

[1] 日本の近代化から太平洋戦争に至るまで本土の日本人と沖縄の人たちとの間にどのような関係があったかという沖縄と日本本土の歴史,

[2] 戦後の沖縄が本土と異なり米軍政下にあり,非常に大きい基地を沖縄で担っているという状態であったことを意識していたかという反省,

[3] 沖縄と日本本土との間のひずみを軸に,日本人は現在のままでいいか,日本人がアジア,世界に対して普遍的な国民であることを示すためにはどうすればよいか

を自分に問いかけ, 考えることが沖縄ノートの主題である旨供述している。 また, 赤松大尉のことを沖縄ノートで取り上げたことについて, 被控訴人大江が本人尋問で
「私は, 今申しました第2の柱の中で説明いたしましたけれども, 私は新しい憲法のもとで, そして, この敗戦後, 回復しそして発展していく, 繁栄していくという日本本土の中で暮らしてきた人間です。 その人間が沖縄について, 沖縄に歴史において始まり, 沖縄戦において最も激しい局面を示し, そして戦後は米軍の基地であると, そして憲法は認められていない, その状態においてはっきりあらわれている本土と沖縄の間のギャップ, 差異, あるいは本土からの沖縄への差別と, 沖縄側から言えぱ沖縄の犠牲ということをよく認識していないと。 しかし, そのことが非常にはっきり, 今度のこの渡嘉敷島の元守備隊長の沖縄訪問によって表面化していると, そのことを考えた次第でございます。」
と供述していることは, 第4・4(2)イのとおりである。


(2) 沖縄ノートの各記述の評価その1
ア  第2・2(3)イのとおり, 沖縄ノートの各記述を見ると,
「自己欺瞞と他者への瞞着の試み」
「人間としてそれをつぐなうには, あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで, かれはなんとか正気で生き伸ぴたいとねがう」
「かれのペテン」
「およそ正視に耐えぬ歪んだ幻想をまでもいだきえたであろう。 このようなエゴサントリクな希求につらぬかれた幻想にはとめどがない」
「およそ人間のなしうるものと思えぬ決断」
「かれはじつのところ, イスラエル法廷におけるアイヒマンのように, 沖縄法廷で裁かれてしかるべきであったであろう」
など, かなり強い厳しい表現が赤松大尉に対して使用されていることが認められる。

イ  しかし, 論評の公正性, それがいたずらに人を揶揄, 愚弄, 嘲笑し, ことさらに人身攻撃をするなど論評としての域を超えているものか否かを判断するにあたっては, 使用された個々の言棄だけを取り出して論ずるのは相当でない。 論者の諭理, その使用された文脈のなかにおける用語, 表現の必然性・相当性を十分に検討するべきである。 その意味では当該節あるいは章全体を通じての論者の意図や諭証の積み重ねをも検証すぺきものであろうが, ここでは, 諭旨の上でひとつながりをなす本件記述3ないし5の文脈を見ると, 次のとおリである。 これらは, 沖縄ノートの70年4月執筆とされる最終章「IX 「本土」は実在しない」において, 佐藤・ニクソン共同声明以後, 日本人の, 沖縄についてエゴイズムをさらけ出した態度, 沖縄とそこに住む人々を中心にすえて思考する想像力の欠如の様々な実例が山積みしているとして, 沖縄の国政参加について憲法上の疑義があるという意見が議会で持ち出されたことなどをあげて
「現在の沖縄のありようば, 憲法にふれるおそれがないのか, 憲法上疑義がないのか? 沖縄の国政参加について, いま実際的なプログラムを身勝手にいじくりまわしながら, 沖縄の名を持ち出す時, 自民党の政治家たちはその廉恥心において手が震えるということはないのか? …かれらに倫理的想像力 moral imagenation はいささかもないのか?」
などと論じた後に208頁1行目から215頁9行目まで続く別紙「第X1章 抜き書き」のような論評である。

  別紙「第X1章 抜き書き」の論評は, 確かに, いわば魂を内側からえぐるような厳しさを有するものであるが, 章あるいはひとつながリの諭旨の全体を通してみると, 論者の立場からはまさにそこで伝えんとする意見に対して必然性のある言薬と表現及び事柄(素材)が選ばれていれているものと評することができる。 諭旨に沿って相関連し展開する文章の中から, 使われた個々の用語を取リ出して並べ, 赤松大尉を「アイヒマン」「屠殺看」「罪の巨塊」「ペテン」などとして揶揄, 愚弄, 嘲笑, 悪罵し, いたずらに個人を貶め, 人身攻撃をするものというのはあたらない。 ここで諭評の対象とされているのは, 論者を含めた本土の壮年の日本人全体の姿であリ, 赤松大尉個人を対象とするものではなく, その直接的自決命令そのものを対象として告発せんとするものでもない。
「慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男, どのようにひかえめにいっても(中略)「命令された」集団自決をひきおこす詰果をまねいたことのはっきリしている守備隊長」
というやや慎重な表現が選ばれたことと, 個人名の表示が意識して避けられた理由は, 後記 オ のとおリであり, 論者の意見からすると沖縄に対しそのような罪責を負った本土の日本人全体の姿が「明瞭にあらわれている」もの(被控訴人大江本人尋問)として選ばれ, その男のその昭和45年の沖縄への渡航をこそ論評の対象としているものであることは,論旨全体から明らかである。

ウ  これらの表現のうち
「人間としてそれをつぐなうには,あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで,かれはなんとか正気で生き伸ぴたいとねがう」
との部分について,被控訴人大江は,罪の巨塊とは自決者の死体のことであり,文法的にみて,「巨きい罪の巨塊」が渡嘉敷島の守備隊長を指すと読むことはできない旨供述する。

  しかしながら, 沖縄ノートは, 全体として文学的な表現が多用され, 被控訴人大江自身, 「巨塊」という言葉は日本語にはないが造語として使用した旨供述するように, 必ずしも文法的な厳密さを一貫させた作品であるとは解されない。 被控訴人大江の供述を踏まえて沖縄ノートを精読すると被控訴人大江の供述するような読み方も理解できないではないが, 一般読者が普通の注意と読み方で沖縄ノートの各記述に当たった場合, 「あまりにも巨きい罪の巨塊」との表現は, 慶良間列島の集団自決を強制した守備隊長を批判する前後の文脈に照らし, 渡嘉敷島の守備隊長の犯した罪か, 守備隊長自身を指しているとの印象を抱く者も存するものと思われる。

  もっとも,そうであるとしても, その表現は, 集団自決を強制した罪の大きさを表現する方法として特徴ある表現ではあるものの, 極端に椰楡, 愚弄, 嘲笑, 蔑視的な表現とまでいうことはできない。

ウ  控訴人赤松は, 曽野綾子の読み方にならって「あまりにも巨きい罪の巨塊」とは赤松大尉を表現したものであると主張するが,
「人間としてそれをつぐなうには, あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで, かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう」
との部分を前掲の文脈のなかで位置づけるならぱ, 被控訴人大江が, 罪の巨塊とは自決者の死体をあらわすものであり, 文法的にみても「巨きい罪の巨塊」が渡嘉敷島の守備隊長を指すと読むことはできないとするのは, 首肯でき, これが赤松大尉を神の立場から断罪し, 揶揄, 愚弄したものとはいえない。

エ  そのほかの部分も, あくまで赤松大尉の実名を伏せたまま,
「沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生, という命題」
「この事件の責任者はいまなお, 沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが, この個人の行動の全体は, いま本土の日本人が綜合的な規模でそのまま反復しているものなのである」
「われわれは, かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまう」
「かれの幻想は,どのような,日本人一般の今日の倫理的想像カの母胎に,はぐくまれたのであるか?」
「かれら(新世代の日本人)からにせの罪責感を取除く手続のみをおこない, 逆にかれらの倫理的想像カにおける真の罪責感の種子の自生をうながす努カをしないこと, それは大規模な国家犯罪へとむかうあやまちの構造を, あらためてひとつずつ積みかさねていることではないのか。」
として, 沖縄ノートの前記主題に沿う形で記述それぞれの趣旨を展開する中で, 論者の意見からすれは諭旨及び表現上の必然性をもって使用されている表現と事柄にすぎず, 相手への人身攻撃などを意図するものとは認められず, 相当性を逸脱するものとまではいえない。

オ  また, 沖縄ノートの各記述に赤松大尉の氏名が明示されていないのは, 第4・2(3)のとおりであるが, 被控訴人大江は, 沖縄ノートに赤松大尉の氏名を明示しなかったことについて, 本人尋問において,
「私はこの大きい事件は1人の隊長の個人の性格, 個人の選択というふうな, ことで行われたものではなくて, それよりもずっと大きいものであって, すなわち日本人の軍隊, 日本の軍隊の行ったこと, そういうものとしてこの事件があると考えておりましたものですから, 特に注意深くこの隊長の個人の名前を書くということをいたしませんでした。」
「(後の方で渡嘉敷島の守備隊長のことを日本人一般の資質の問題として書いたのかという問いに対して)後半の問題は, こういう経験をした人を通じて日本人一般の資質について書くと, あるいは私自身に対する自己批判も含めるという主題であります。 ですから, 今おっしゃったとおりです。」
「その趣旨からも, むしろ名前を出すことは妥当でないと私は考えておりました。」
と供述している。 このことは, 被控訴人大江が赤松大尉に対する個人攻撃の意図で沖縄ノートの各記述をしなかったことを推認せしめる。 ていないことを示すとともに, むしろそうすれば沖縄ノートの主題からずれてしまうと考えていたことを明らかにするものである。


(3) 沖縄ノートの各記述の評価その2
  そうすると, 沖縄ノートの各記述は, 守備隊長ひいては日本軍の行動と沖縄返還問題のその時における行動とを通して著者を含めた日本人全体を批判し, 反省を促す構成となっているものと認められ, 所々に「ペテン」など, 文脈次第では人身攻撃となり得る表現もあるものの, 前記の文章全体の趣旨に照らすと, その表現方法が執拗なものとも, その内容がいたずらに極端な揶揄, 愚弄, 嘲笑, 蔑視的な表現にわたっているともいえず, 赤松大尉に対する個人攻撃をしたものとは認められない。

  加えて, 証拠(甲A3)によれば, 沖縄ノートは, 集団自決及び評価としての軍の命令をも含んだ沖縄戦という歴史的事実をその1つの対象として前提のひとつとして, 本土の日本人及び日本と沖縄の関係を論評するものであると認められ, このような歴史的事実については, 広く論評, 表現の対象とされるぺきものであることも考慮しなければならない。 それらは, 言論の場において自由に論じられるぺきものである。


(4) 小括
  以上によれば, 沖縄ノートの各記述は, 意見ないし論評としての域を逸脱したものということはできない。 したがって, 沖縄ノートの各記述中, 意見ないし論評にわたる部分の名誉毀損を理由とする損害賠償請求も, また理由がない。 (原判決209頁16行目から213頁1行目)


目次 戻る 通2-124 次へ 通巻
目安箱バナー