15年戦争資料 @wiki

6 宮平秀幸の新しい供述及び関連証拠について

最終更新:

pipopipo555jp

- view
管理者のみ編集可
昨日 - 今日 -
目次 戻る 通2-122 次へ 通巻

読める控訴審判決「集団自決」
事案及び理由
第3 当裁判所の判断

6 宮平秀幸の新しい供述及び関連証拠について

(判決本文p240~)


  原審の口頭弁論集結後, 控訴人梅澤の伝令要員を務めていたという宮平秀幸の新しい供述が明らかになったとして新聞報道や雑誌への記事掲載がなされ, 当審においても関連証拠が多数提出されて, それらに基づく事実主張がなされている(なお, 控訴人ら訴訟代理人は, 期日前には, 当審で宮平秀幸の証人調べを求めるとしていたが, 結局, 証人申請はなされなかった。 しかし, 当事者の用語例にならい以下「秀幸新証言」と略称する。)。

  そこで, 以下, これらの当審提出証拠の証拠価値についてまとめて検討する。


(1) <秀幸新証言の概要>


  甲B149(平成20年1月26日撮影のDVD映像), 150(同前半部分反訳), 159(同後半部分反訳)によると, 当初の秀幸新証言の概要は次のとおりである。

[1] 秀幸は第一戦隊(梅澤部隊)の本部付きの伝令員であった。 だから, 一切は, 全部分かっている。

[2] 3月25日の夜, 村三役――村長, 助役, 収入役と学校長が本部の壕へ来て, 梅澤戦隊長が対応した。村側が「いよいよ明日は米軍の上陸だと恩うので, 住民はこのまま生き残ってしまったら鬼畜米英に女も男も殺される, 同じ死ぬくらいなら, 日本軍の手によって死んだ方がいい, それでお願いに来ました。」と言うのに対して, 梅澤隊長は, 「何をおっしゃいますか。戦うための武器弾薬もないのに, あなた方に自決させるようなそういうものはありません。絶対にありません。」と答えた。

[3] 逆に梅澤隊長は, 目を皿にして, 軍刀を持って立って, 「俺の言うことが聞けないのか! よく聞けよ。私たちは国土を守り, 国民の生命財産を守るための軍隊であって, 住民を自決させるために来たのではない。 あなた方は,  畏れ多くも天皇陛下の赤子である。あんた方が武器弾薬, 毒薬を下さいと言っても, それは絶対に渡せない。そうした命令は絶対にないから解散させろ。」と命令した。

[4] 自分はその場にいて, 隊長とは2メートルくらいしか離れていないところで隊長の話を聞いた。 そのとき, 助役に, うちの家族も忠魂碑の所に来ているのかと尋ねたが, 集まっている, 80名くらい集まっているという話であった。

[5] それで。村の者たちは渋々帰っていき, 自分もそれについて行ったところ, 三役は忠魂碑の前の階段に立ち, 野村村長が, 「自決するために集まってもらったが, 日本軍の隊長からは『自決してはいけない。 させない。』, しかも『民間人に渡す武器弾薬, 毒薬, 何もない』と強く叱咤されて, どうすることもできないから, ただいまから解散する。」と解散を命じた。

[6] その後, 家族を引き連れて避難し, 整備中隊の壕に行き, 自決させてもらおうと来たと言ったところ, 内藤中隊長らからも『だれがそんな自決命令を出したんだ。軍からは自決命令, 玉砕命令は全然出していないよ。 早く避難しなさいよ」と言われ, 食料を持てるだけ持たされて追い出された。


(2) <秀幸新証言の矛盾及び不自然な変遷>


  しかし, 上記秀幸新証言は, 同人自身の過去に話していたことと明らかに矛盾している。また, 秀幸はさらに3通の陳述書甲B132添付(平成20年3月10日付), 甲B142(同年8月7同付), 甲B158(同年9月1日付))を作成し『証言』しているが,  証言自体にも矛盾や不自然な変遷がある。

ア  秀幸は, 平成4年制作のピデオドキュメント「戦争を教えてください・沖縄編」(乙108の1, 2)で自分の戦争体験を詳細に語っている。 そこでは, 3月23日の晩から家族7人で自分たちの壕に入って24, 25日を過ごし, 25日の午後8時半か9時頃になり, 軍が(ママ), 玉砕命令が出ているから忠魂碑前で自決するので集まるようにと伝令が来たので忠魂碑前に行ったが, 艦砲射撃の集中攻撃を浴び, 各自の壕で自決せよということになり, 家族で, 整備中隊の壕の前等を経由して, 夜明けに自分たちの壕にたどり着いたと話している。 3月25日夜に宮里助役らが梅澤隊長を訪れた際に, 本部付き伝令として隊長の傍らにいたということや[1], 梅澤隊長が自決するなと命じたとか[2][3], 野村村長が忠魂碑前でそれを伝えて解散を命じた[5]などということは全く出ていない。

イ  このことについて, 拓殖大学藤岡信勝教授は意見書(2)(甲B145)で, 秀幸は平成4年の記録社によりなされた上記ビデオ撮影に先立ち平成3年6月大阪の読売テレビの取材を受け, 箝口令が敷かれていた村長の解散命令のことをうっかり話してしまい, そのことについて取材の数日後に田中登元村長から厳しく叱責された, そのこともあり平成4年の記録社のビデオ撮影も村当局の厳しい監視下に行われ, 村長の妻が秀幸に真実を語らせないように秀幸の母貞子に圧カをかけ貞子と秀幸の妻がつきっきりで撮影されたため, 秀幸は真実を語ることが出来なかったものであると詳細に解説し, 秀幸も, 上記ビデオとの矛盾を指摘された後の陳述書(甲B142)で同様に弁解する。 しかし, 田中登元村長は既に平成2年12月11日に病気療養中の県立那覇病院で死亡しているのであって(乙119), 上記藤岡教授の解説や秀幸の弁解は明らかに事実に反する。 また, 記録社の撮影状況に関する電話回答(乙118)もこれを否定しているし, 宮城晴美の陳述書(乙117)によると, 貞子は遅くとも平成3年からは病気療養のため本島に住んでいて酸素ボンベが手離せず, 秀幸のビデオ撮影に立ち合うはずもないとされている。

ウ  「小説新潮昭和62年12月号」所載の本田靖春著ノンフィクション「座間味島一九四五」(乙109)には, 語り部の役割を果たそうとする秀幸から当時聞き取ったという戦争体験が詳しく記載されている。それによると, 秀幸は3月25日の夜, 家族7名で宮平家の壕にいたところ,
「午後10時を期して全員で集団自決するので忠魂碑の前に集合するように」
との命令が伝えられ, 家族で相談した後, 牛前O時になろうとするころ7名が正装して忠魂碑前に行ったが皆の集合は遅れていた, だれかが爆雷を貰いに行ったという話がその場に流れていたが, 待てど暮らせど現物は届かない, そこへ米軍の小型機が飛来し照明弾を集まった村人のうえに落とし, その10分後くらいから忠魂碑めがけてものすごい艦砲射撃が始まり, 皆その場から四散して山に逃げ込んだ, その夜から島内各所で集団自決が次々に起きたと, 話している。 秀幸が梅澤部隊長の傍らに居て, 自決してはいけないとの命令を聞いたとか[1]~[4], 村長がそれを住民に伝え解散を命じた[5]などの話とは全く異なっており, 秀幸はこれらを聞いていないことになっている。

  ちなみに, 本田靖春は, 上記ノンフィクション記事に宮城初枝の手記を引用しており, その次の号の「第一戦隊長の証言」〈甲B26)には3月25日の梅澤隊長と助役らとのやりとりについて初校や控訴人梅澤の話を掲載しているのであるから, 秀幸からの取材のなかでも初枝が聞いた当日の本部壕でのやりとりが話題になっていても不思議ではないのであるが、それにもかかわらず, 秀幸は本部壕のその場にいたなどとは全く述ぺておらず, 忠魂碑前で爆雷が届くのを待っていたというのである。 なお, 藤岡教授は, 本田の記事は,取材時間が少なく「宮平語」に通じてもいない本田の錯誤であり, 場面の再構成があるなどと解説する(甲B132)が, 本部壕にいたなどと述ぺていないという事実自体は否定しようがないというぺきである。

エ  今回の秀幸新証言自体にも不自然な変遷が見られる。 秀幸新証言は当初は梅澤隊長の自決してはならないという命令を隊長付き伝令としてその2メートルの傍らで聞き, 助役と会話もしたかのようなものであった(甲B111, 149, 150)が, 初江や控訴人梅澤は秀幸がその場にいたことを否定していることなどを指摘されると, 25日は夕刻まで整備中隊の壕で仮眠を取っていたが, 家族のもとに帰るように言われ, 途中, 艦砲射撃が始まり本部壕の脇に転がり込むようにたどり着いたところ, 壕の入り口から人の声が聞こえた, 何事かと壕の入り口に何枚もかけられた毛布の陰に身を潜めた, 毛布が死角になって私の姿は梅澤隊長からも盛秀助役からも見えなかった,しかし,梅澤隊長との距離はわずか2メートル程度しか離れていなかったという補足の説明がなされている(甲B132藤岡教授意見書添付の「証言」, 甲B158)。 いかにも不自然な変遷であり, 辻棲合わせといわざるを得ない。

  また, 秀幸新証言では, 同人は, 姉である初枝に対して,梅澤さんが自決命令を出していないことを生きているうちにはっきり言わないと後で悔いを残すよと亡くなるまで言い続け, 危篤状態の時にまで押しかけたかのように述ぺられている。 しかし, 先に認定したとおり, 初枝は既に昭和55年の時点で控訴人梅澤と会って自分の記憶している壕での様子をそのままに語しており, ノートも送り, 昭和57年にも手紙で詫びを述ぺているのである。 したがって, 秀幸が初枝に晦いを残すよと言って告白を促すようなことはあり得ないことである。


(3) <他の手記等との矛盾>


  また, 秀幸新証言は, 他の多くの手記などが述ぺるところとも明らかに矛盾する。 幾つかの例を挙げれぱ次のとおりである。

ア  秀幸の母宮平貞子の「座間味村史下巻」(平成元年発行乙50)登載の詳細な手記(談)によると, 25日夜は家族で自分の壕に隠れており, 夜になって艦砲射撃が激しくなるなか, 家族で壕を出て逃げ回り, 26日夜明けに自分の壕に戻った, この間3男(つまり秀幸。当時15歳)は, 租父母の手を引くようにして歩いた, 途中, 整備中隊の壕に行ったら, 
「こっちは兵隊のいる場所だからあなた方は上の方に逃げなさい。もし玉砕の必要があったら自分たちが殺してあげるから, 決して早まったことをしてはいけないよ」
とすごい口調で言われた, 貞子たちの壕は奥まっていたため, 伝令は来ず, 忠魂碑前に集まれという指示は知らなかったので, 忠魂碑前には行っていないと述ぺている。 整備中隊の壕に行ったことは秀幸の話と一致しているが, 当夜は家族で終始行動を共にしていたことを詳細に述べており,それによると, 秀幸が本部壕に行ったり, 忠魂碑前に行くことなどあり得ないことである。この貞子手記は, 今回の秀幸新証言がなされる遥か前に記録されたもので, 貞子が虚偽を述べる理由はない。

イ  「母の遺したもの」に記録された宮平春子(宮里盛秀の妹)の話によると, 宮里盛秀助役の一家は, 盛秀を先頭に忠魂碑にむかったが, 数メートル前に照明弾が落下し, 進むことが出来ずに, 来た道を引き返すことにしたところ, 村長と収入役がそれぞれ家族を連れ, 盛秀一家の方に向かってきたので, ここで全員が忠魂碑に行くのをやめ, それまで村長や収入役らとその家族が避難していた農業組合の壕へ向かったと述べている。 すなわち, これによると, 村長は忠魂碑前に行っていないことになるのであり, 秀幸の述ぺる忠魂碑前での村長の解散命令[5]などあり得ないことになる。 宮平春子が虚偽を述べる理由もない。

ウ  宮城晴美は昭和60年頃から4年余り, 座聞味村役場の委託を受けて「座間味村史」全3巻の編集執筆に携わり, 昭和63年1月頃から高齢者の聞き取り調査を行った。 そして, そのころ秀幸から立ち話で昭和20年3月25日の夜忠魂碑前で村長から隊長が来たら玉砕すると言われたが, 来ないので解散した旨の話を聞き, 事実だとしたら村史からは絶対はずせない話であると考え, 母初枝に確かめたが, そんな話は聞いたことがないということであり, 貞子にも確かめるように言われて数回にわたって貞子から聞き取りをしたのが ア の手記である, 重要なことなのでそれまで聞き取りをした人やそれから聞き取りをした人にも慰魂碑前のことを確かめたが, 誰一人として, 秀幸の言うようなことを述べる人はいなかったというのである(乙110)。 現に, 忠魂碑前に老人子どもを連れて行った成人女子が戦後多くの証言をしているが(「母の遺したもの」, 「座間味村史下巻」, 「沖縄県史10巻」など), 誰も忠魂碑前に村長が来たことや解散命令を出したこと[5]を述べているものはいない(この点についても藤岡教授は, 箝口令があり, 老人の多くは調査の頃までには死亡してしまい, 子供はものごころがついていなかった可能性があるなどと解説する(甲B132)が, 採用できない。)。

工  初江の話は既に認定したとおりである。 3月25日本部壕に行った人のなかに村長は含まれておらず, 秀幸がその場にいたとはされておらず, 梅澤隊長の対応も秀幸が述べるものとは全く異なっている。助役の申し出の後
「重苦しい沈黙がしぱらく続きました。 隊長もまた片ひざを立て, 垂直に立てた軍刀で体を支えるかのようにして, つかの部分に手を組んでアゴをのせたまま, じーっと目を閉じたきりでした。 ……やがて沈黙は破れました。 隊長は沈痛な面持ちで
「今晩は一応お帰りください。 お帰りください。」
と私たちの申し出を断ったのです。」
という記述は, 遅くとも昭和52, 3年以前に書かれたものと考えられ, 先に詳細に検討したとおり, 秀幸の言うようなことがあったのなら, 初枝が手記にそれを書き残さない理由はないし, 娘の宮城晴美に話さない理由はない。 初枝が昭和55年に梅澤隊長と面会し, その日の壕での出来事を話しあい, その後控訴人梅澤と文通した後にも, 初枝の話に変わりはなく, 一貫している。 前記のように控訴人梅澤が初枝に対しその当時異論を述べた形跡もない。

オ  控訴人梅澤も, 秀幸新証言の後にも, 秀幸がその場にいたことは認めず, 村長が来たとも認めていない。 天皇陛下の赤子というようなことも自分はいわないと藤岡教授には述べたようである(甲B110)。


(4) <秀幸新証言を採用,評価する関連証拠等>


  以上のとおり, 秀幸新証言は, それまで自らが述ぺてきたこととも明らかに矛盾し, 不自然な変遷があり, 内容的にも多くの証拠と齟齬している。

  甲B111(鴨野守 「住民よ, 自決するな」と隊長は厳命した 諸君!2008年4月号所収), 甲B112(産経新聞同年2月23日付「新証言」に関する記事), 甲B110(藤岡信勝 集団自決「解散命令」の深層 正論同年4月号所収), 甲B148(藤岡信勝・鴨野守 沖縄タイムズの「不都合な真実」 WILL同年8月号所収)等はいずれも今回の秀幸新証言を無批判に採用し高く評価するものであって, 同新証言と独立した証拠価値を持つものではない。 また, 藤岡教授は, 平成20年7月28日付意見書(甲B132), 同年8月28日付意見書2(甲B145)で, 上記秀幸新証言の矛眉や辻棲合わせ等について種々解説を加えて秀幸新証言の信憑性を強調し, 秀幸の驚異的な記憶力や標準人を遙かに超える映像的な記億力についてもエピソードなどを紹介しているが, 一方に偏するもので採用できない。

  反対に, 宮城晴美は, 叔父秀幸について
「…。 何よりも, 秀幸自身が,重要なできごとを戦後60年余りも胸に秘めていられるような性格ではありません。 彼の話し好き, マスコミ好きは島でも定評があります。」
と述ぺている(乙110)。 秀幸や藤岡教授はこれに反論しているが(甲B142, 145), そのような秀幸の性格は, 秀幸のこれまでのマスコミ等との被取材歴(甲B113, 145, 乙108の1及び2, 109)や, 長時聞に及ぶ甲B149号証のDVD映像での話しぶりやその話の内容自体からも十分見て取れるところである。


(5) <小括>


  以上を総合すると, 秀幸新証言は明らかに虚言であると断じざるを得ず, 上記関連証拠を含め到底採用できない。


目次 戻る 通2-122 次へ 通巻
目安箱バナー