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パートIII 7 異民族支配を歓迎せよ

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田母神俊雄 平成16年7月 ,9月
航空自衛隊を元気にする10の提言 パートIII

7 異民族支配を歓迎せよ


 日産自動車株式会社は日本の会社である。私が子供の頃から日産とかトヨタとかホンダとかはよく耳にしていた。この日産自動車がバブル崩壊後の景気低迷の影響を受け、会社再建のため大リストラが必要となった。しかし日本の会社は従来から終身雇用が会社の常識である。また日産自動車に部品等を提供する系列の会社が固定的に決まっており、多少値段が高くても、系列以外の会社からモノを調達することは考えられない。さらには日産自動車の工場などは、それぞれの所在地で多くの従業員を抱え、町の象徴的な存在として、社員はもちろんのこと町に自宅を構える人たちにとっても心のよりどころになっているようなところがある。工場の建物は町のランドマーク的存在であり、おらが町の日産である。会社再建のためとはいえ、おいそれと工場を閉鎖することなど出来はしない。このようなことから日産自動車は、経営状況が逐次悪化しているにも拘わらず抜本的な会社再建策を打ち出すことが出来なかった。

 そこで迎えられたのがゴーン社長である。ゴーン社長は、これらの日本的な価値観からは解き放たれた人である。彼の打ち出した日産自動車の再建策は、日本人の社長ではとても採用できないいわゆる血を見るものであった。「武蔵村山の日産の工場がなくなる? 馬鹿なことをいうな」というのが普通の日本人の感覚である。それは正に武蔵村山市の象徴的存在であったのだ。しかしゴーン社長はこれを無くする道を選択した。彼は従来の日本的タブーを次々と打破し、その他いろいろな再建策を打ち出した。その結果日産自動車はいまでは見事に再生した。会社の経営状態の細部について承知しているわけではないが、あのまま放置すれば倒産する可能性の高かった会社が、いまでは倒産の可能性がなくなった。日本人社長にできなかったことが外国人社長によって達成された。このとき日産自動車の社員たちは幸福であろうか不幸であろうか。

 日産自動車の社員のうち、リストラされて他に職を求めなければならなかった人たちにとっては、幸福なことではなかったかも知れない。しかし大多数の社員にとってはそのまま会社に継続勤務が出来ることになり幸福なことだったのではないか。あのまま放置されれば、やがて全員が職を失うことになってしまう。総じて日産自動車の社員にとって外国人社長を戴いたことが幸福であったのだ。ゴーン社長は日本人にとっては異民族である。異民族に支配されると不幸になるというのが多くの日本人の歴史観である。しかし異民族に支配された方が幸福な場合もあるということを日産自動車の例は教えている。

 外資系の会社に勤める人と日本の会社に勤める人とではどちらが幸福なのだろうか。それは一概にはどちらがいいとは言えないと思う。外資系の会社であれば社長は通常外国人であることが多い。外国人社長を戴く会社に勤めることが不幸であるならば、日本人は誰も外資系の会社に就職しない。社長が外国人であろうと日本人であろうと社員の幸福にとってはあまり関係がない。日産自動車の例を見れば、外国人社長によって強い会社が出来上がったし、いまは社員の人たちも将来への夢を持って仕事に精を出しているのではないかと思う。

 航空自衛隊に目を転ずれば、各編制部隊長はそれぞれの職域の専門家でなければならないかという命題がある。航空団司令は戦闘機パイロット、高射群司令は高射幹部、航空警戒管制団司令は要撃管制幹部であることがもっとも良いのだろうか。私はこれもゴーン社長の例と同じで職域とポストはあまり関係のないことだと思っている。状況に応じて適任者を配置すればよい。航空団司令が異民族である高射幹部だったり、高射群司令が異民族である戦闘機パイロットだったりしても、そのことと部隊の精強性や隊員の士気との間には殆ど相関関係はないといってよい。編制部隊長の仕事は戦闘機の操縦をしたりペトリオットの直接の射撃指揮をしたりすることではない。また要撃管制幹部として直接兵器割当てや要撃機の管制をすることでもない。航空団司令、高射群司令及び航空警戒管制団司令などに共通に必要とされるのは指揮官としての識見、技能である。これらの人たちには指揮官としての仕事があるのだ。

 指揮官の仕事とは、「1.部隊の努力の方向と資源配分を適正にすること」と「2.部下の最高の行動力を引き出す」ことだ。1.のためには職域の知識、技能があったほうがいいに違いない。しかしこれについては幕僚が補佐してくれる。ところが2.については幕僚が補佐することは大変に難しい。私たちは部隊勤務の経験上そのことを知っている。部下が最高の行動力を発揮するためには、指揮官の言動に部下が感動していることが必要である。感動すれば人は動く。統御の本質が感化作用であると言われる所以(ゆえん)である。指揮官はその全人格をもって部下たちに感動を与え続けなければならない。それには職域の知識、技能の有無はほとんど関係がない。万が一指揮官の性格が偏屈だったり感情の起伏が激しかったりすると1.の方向付けと資源配分についてさえ幕僚の補佐が得られなくなる。モノが言いにくい指揮官に対しては幕僚たちも次第に意見を言わなくなるからだ。指揮官は次第に裸の王様になっていく。

 自衛官は部隊において10年以上も自己の職務に精励していれば次第に自衛隊の運用についても理解が深まってくる。だから2佐や1佐にもなれば大多数の自衛官は、一部の特別な指揮官ポストは別にして、空自の指揮官ポストのほとんどを十分にこなせる能力があるといってよい。一部の特別な指揮官ポストとは、例えば戦闘機の飛行隊長のように部下隊員と同じ作業に従事する配置や研究開発等特別に深い知見を必要とする配置である。医官のポストなどもこれに該当する。そういうポストは職域の十分な経験なしには配置できない。しかし大多数のポストは職域の色に染めてはいけない。空幕の班長以上のポストなどもほとんどは職域に関係なく配置して良いと思う。むしろ同じ職域の人を継続して配置してはいけないという原則を作っても良いぐらいだと思う。いろんな経験を持つ人が配置された方が仕事にも幅が出るし組織も強くなる。同じ職域の人を継続的に配置するとモノの見方が偏る可能性がある。またいわゆる職域閥ができ易く、忠誠の対象が航空幕僚長ではなく、職域のボスであるというようなことになり易い。航空自衛隊の大同団結の障害になる。だから従来ある特定の職域のポストであると考えられていたところに別の職域の人が配置されても驚くことはない。その方が良いのだ。部下たちの業務や行動の内容を熟知している人が部隊等の最大戦力を発揮できるわけではない。指揮官としての仕事をしてくれる人こそが求められる。異民族支配を歓迎することが組織を強くする。尤(もっと)も異民族といっても自衛官の心構えや基本動作が確立され軍事のことが分かるというレベルの軍事的素養は必要である。全く部隊勤務の経験のない人を編制部隊長等に配置して「さあやってみろ」と言っても、まともなことは出来ないであろう。自衛官としてのキャリアがない人には、異民族過ぎて隊員もついて行けない。しかし10年以上もの部隊勤務の経験がある2佐や1佐になればほとんどの部隊を指揮できると考えてよい。

 また幹部自衛官個人に焦点を当てた場合にも、同一機能の部隊等を繰り返し経験するよりは、各種の部隊等の経験を積んだ方が視野が広がることは間違いないと思う。特に将来航空自衛隊を担うことになる組織後継者要員などは職域的に多様な配置に補職すべきであろうと思う。空幕においてもずっと防衛部とか、ずっと装備部とかいう配置にならないよう配慮すべきである。

 こう述べてくると私が職域の能力を軽視していると思う人がいるかも知れない。しかし決して職域の能力が軽視されてはけない。若い幹部の皆さんに誤解を与えてはいけないので、蛇足になるかも知れないが職域を極めることが大事であるということを確認しておきたい。自衛官は若いうちにはそれぞれの職域の専門家として鍛えられる。職域の違いはあっても、この経験によって軍事のことについて分かるというレベルに達することが出来る。分かるというのは、自分の判断が正しいと自信が持てるということである。全くの部隊勤務の経験なしには、部隊の運用や隊務運営について自信を持って判断が下せない。編制部隊指揮官等になったときに、幕僚等の補佐を受けながらも、自ら判断を下せるのはこれらの部隊勤務の経験があってこそである。すなわち職域の専門的知識、技能を磨くことによって、軍事専門家として成長するのだ。軍事的なものの見方、つまり戦略眼とか戦術眼は職域の知識、技能をベースにしているのだ。自衛隊の行動時において各級指揮官は至短時間に判断、決心を要求されることも多い。だから若いうちはそれぞれの職域の専門家として知識、技能の向上に邁進しなければならない。自衛官は軍事のプロを目指して勉強するのだ。軍事のプロとしての戦略眼、戦術眼がないと部下をして間違った方向に努力を集中させる恐れがある。部下が最高の行動力を発揮しても、指揮官の方向付けと戦力配分が不適切であれば戦いに勝つことは出来ない。携帯電話が普及し始めたとき、これに対抗しポケットベルの機能、性能の向上に努力した会社は全て損失を抱え込むことになったという。


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