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第二章 満州

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第2章 満州


記述 支那の他の部分及露西亜との関係


1、記述


 満州は支那に於いては東三省として知らるる広汎且豊穣なる地域にして僅々40年以前にはほとんど開発せられ居らず現在に於いてすら猶人口稀薄なるを以て支那及日本の過剰人口問題解決に益々重大なる役割を演ずるに至れり。数百万の窮乏せる農民は山東省及河北省より満州に流入せる一方、製品及資本は日本より同地方に輸出せられ食糧及原料と交換せられたり。斯くの如く満州は支那及日本の各自の必要に応ずることに依りて日支双方の有力なる伴侶たる実を挙げたり。即ち日本の活動なくんば満州は斯くの如き大なる人口を誘致且収容し得さりしなるへく又支那農民及労働者の移住なくんば満州は斯くも急速に発展し以て日本に対し市場並食糧肥料及原料を供給すること能はさりなるべし。

 然れども他国の協力に依倚すること多大なる満州は上述の理由に依り先ず日露の間に於いて次いで支那及其の2強隣邦間に於ける紛争の地域となるの運命を有したり。当初満州は之等政策の大衝突の地域たるに止まり満州の占拠に依り極東政治を支配し得るものと考えられたるか其の後満州の農業、鉱業及林業上の資源発見せらるるに及び満州其のものを垂涎せらるるに至れり。先ずロシアは支那の犠牲に於いて特殊の条約上の権利を獲得したるが其の南満州に関するものは後日日本に譲渡せられ而も斯くの如くにして獲得せられたる特権は其後南満州の経済的開発を促進する手段として行使せられたり。軍略上の理由は依然として重要なるものあるもロシア及日本は夫々満州開発に積極的に従事し広汎なる経済的利益を得たる為其の外交政策を固持すること益々甚だしきに至れり。支那は当初開発の方面に活動することなく殆ど満州を其の支配よりロシアの手に移さむとせり。而して満州における支那の主権を再び確認せる「ポーツマス」条約後に於いても同地方開発にあたれるロシア及日本の経済的活動は支那の夫れに比しより顕著に世界の目に映じたり。此の間数百万の支那農民移住したるが右は将来に於ける土地所有の根拠をなせるものにして事実平和的にして目立たざるも実質的なものなりき。ロシア及日本が北満及南満に於ける各自の勢力範囲の設定に従事せる間に支那農民は土地を所有するに至り今や満州は正しく支那のものなり。斯かる状態に於いて支那は再び其の主権を主張するの好機会を待望することを得たるが1917年のロシア革命は北満に於いて支那に此の機会を与えたり。支那は過去久きに亙り等閑に附し居たる地方の開発及当地に一層積極的活動を開始し近年に於いては南満州に於ける日本の勢力を減少せしむと試みたるが右政策の結果軋轢高まり遂に1931年9月18日其の頂点に達せり。

 全人口は約3千万と算せられ其の中二千八百万は支那人及同化せる満州人なりと称せらる。朝鮮人の数は八十万にして其の大部分は朝鮮国境の所謂間島地方に集合し爾余の者は満州に広く分布す。蒙古種族は内蒙古に接する牧地に居住し其の数少なし。満州に於けるロシア人は約十五万ある模様なるが其の大部分は東支鉄道沿線地方特に哈爾賓に在り。約二十三万の日本人は南満州鉄道沿線の居留地及関東州租借地(遼東半島)に主として集中し居れり。満州に於ける日本人ロシア人及其の他の外国人(朝鮮人を除く)は40万を超過せず。

 満州は仏蘭西及独逸を合したる大きさの面積を存する広大なる地域にして約三十八万平方哩と算せらる。支那に於いては之を常に「東三省」と称す蓋し其の行政区画は南部に遼寧(奉天)、東部に吉林、北部に黒龍江の三省に分たるるを以てなり。遼寧は面積七万平方哩、吉林は十万平方哩、黒龍江は二十万平方哩以上と算せらる。

 満州は其の特性大陸的なり而して東南部に長白山脈、西北部に大興安山脈の2山脈あり。右両山脈間に満州大平原横はり其の北部は松花江盆地に南部は遼河盆地に属す。右両盆地の分水界は歴史的に争闘重要なるものなるが満州平原を南北2つに分かつ一つの山脈なり。満州は西は河北省及内外蒙古に境を接す。内蒙古は以前3個の特別行政地域即熱河察哈爾及綏遠に分かれ何れも1928年国民政府に依り省としての完全なる地位を賦与せられたり。内蒙古特に熱河は常に満州と関係を保ち満州問題に多少の影響を与え居れり。満州は其の西北、東北、及東に於いては「ソ」連邦の西伯利亜に、東南に於いては朝鮮に境し南に於いては黄海に臨む。遼東半島の南端は1905年以来日本に保有せられ其の面積千三百平方哩を超え日本の租借地として統治せらる。加之日本は租借地外に亙り南満州鉄道を敷設せる狭き地帯に対し或種の権利を行使す。右地帯の全面積は僅々百八平方哩なるも線路の長さは六百九十里に達す。

 満州の地味は一般に豊穣なるも其の開発は交通の利便に左右せられ多数の重要都市は河川及鉄道に沿いて繁栄す。過去に於ける開発は大体河川系統に頼りしものなるが右河川系統は鉄道が交通機関として第1位を占むるに至れる今日に於いても依然として甚だ重要なり。大豆、高粱、小麦、粟、大麦、米、燕麦の如き重要穀物産額は15年間に倍加し1929年此の種穀産物は八億七千六百万「ブッシェル」以上と算せられたり。1931年の満州年鑑所掲の算定に依れば1929年には全面積の28.4%は耕作し得るに拘らず僅々12.6%開墾せられ居るに過ぎず従って経済状態改善せらるるに於いては将来生産額の著しき増大を期待し得べきが如し。1928年度に於ける満州の農産物の全価格は一億三千万金ポンド以上と算せられ其の大部分は輸出せらる。絹紬又は柞蚕亦満州の他の重要輸出品なり。

 山岳地方は木材及鉱物殊に石炭豊富なる。鉄及金の鉱床も存在すとせられ他方良質の油頁岩、白雲石、菱苦土石、耐火粘土、滑石珪土も多量に発見せられたり。従って鉱業は極めて有望なりと期待せらる。(第8章並びに本報告書付属の特別研究第2及第3参照)

2、支那の他の部分との関係


 満州は有史以来各種「ツングース」族居住し蒙古韃靼人と自由に雑居したるが優越せる文明を有する支那移住民の影響を受け団結心に目覚め数個の王国を建設し此等王国は時に満州の大部分並びに支那及朝鮮の北部地方を支配せり。殊に遼、金及清朝は支那の大部分又は全部を征服し数世紀間之を支配したり。一方支那は有力なる皇帝の下に北方の侵入を防止し之に代わりて自ら満州の大部分に其の主権を樹立するを得たり。移住支那人の植民は古代より行われ周囲の地方に支那文化の影響に及ぼしたる支那人の都邑は同じく古代より存在せり。即ち二千年間永久的の拠所維持せられ支那文化は満州の極南部に於いて常に行われたるが右文化の影響は事実上満州全体に其の権力を振へる明朝(1368-1644)の統治中極めて強大となりたり。満州人が1616年満州における明朝の施政を覆し1628年万里の長城を越えて支那を征服せる以前既に満州人の間には支那文化普及し著しく支那人に同化せられたり。満州軍中には多数の支那人ありて旗として知らるる別個の部隊に編成せられたり。

 右征服後清朝は支那の重要都市に守備兵を置き満州人の一定職業に従事するを禁じ満州人支那人間の結婚を禁止し支那人の満州及蒙古移住を制限せり。右の措置は人種的差別よりは寧ろ政治的差別に基づき清朝の永久的支配を擁護するの目的に出でたるものなり。而して右措置は多数の支那旗人には及ばず彼等は事実上満州人同様の特権的地位を享有せり。

 満州人及其の味方たる支那人の出境は満州の人口を著しく減少せしめたるも南部に於いては支那人の部落は依然として存在し右部落より少数の移住者は奉天省の中央部を横断して分散せり。而して其の数は排斥法を潜るに成功し又は時々同法の変改を利して支那より絶えず移住民入込める為増加したり。満州人及支那人は益々同化し支那語は実質上満州語に代わるに至れり。尤も蒙古人は同化せられず之等移住民の為奥地に後退せしめられたり。最後に北方よりするロシア人の南下を阻止する為清朝政府は支那移住民を奨励するに決し1878年満州各地を開放し且移住民に各種の奨励を与えたる結果1911年の支那革命当時満州の人口は千八百万と算せられたり。

 1907年即退位の数年前清朝は満州に於ける施政を改革することに決定せり。満州各省は従前独自の政体を有する関外領域として統治せられ、省行政を考試も及第せる学者の手に委する支那の慣例は満州に於いては行われずして純粋なる軍政施れ、右軍政の下に満州官吏及慣習維持せられたり。支那に於いては官吏は其の出生せる省に於いては官職に就くを許されざりき。満州各省には督軍ありて軍事のみならず一切の施政に付き完全なる権力を行使したるが後に至り文武政の分離試みられたるもその結果は満足ならざりき。依て1907年右の試は放棄せられ特に外交政策の方面に於ける権力集中の目的を以て3名の督軍に代ふるに全満州に対する総督を必くこととし総督の監督の下に省長省行政を掌りたり。右改組は支那の省政府組織を招来せる後日の行政改革の為路を開きたるものなり。清朝の右最後の措置は1907年以後満州の政治を掌れる有能なる為政家に依り大なる効果を収めたり。

 1911年革命起こるや共和政体に賛せざる満州官憲は後日満州及北支の独裁官となるに至りたる張作霖に対し革命軍の前進阻止を命じ以て内乱の騒擾より此等の省を救うに成功したり。共和国建設せらるるや満州官憲は既成事実を受諾し進んで共和国第1大統領に選任せられたる袁世凱の統率に従いたり。各省には省長及督軍任命せられたるが満州に於いては支那の他の部分と同様督軍は忽ち同僚たる省長を無力の者たらしめたり。

 1916年張作霖奉天省督軍に任命せられ同時に省長の職を執りたるが其の実力の及ぶ所は遥かに大なりき。対独宣戦の問題起こるや彼は支那将領と共に之に反対せる会議の解散を要求せり。而して右要求大統領に依り拒絶せらるるや彼は奉天省は北京中央政府に対する功績に依り東三省巡撫使に任せられたり。斯くして満州は再び特別の制度を有する一つの行政単位となりたり。

 張作霖は中央政府の与えたる顕職を受領したるも其の態度は変転常なき中央政府の支配者たる軍閥との個人的関係の如何に依り変化せり。彼は自己と政府との関係を視るに個人的同盟の意味を以てしたるものの如し。1922年7月其の権力を長城以内に樹立するに失敗し其の政敵北京政府を支配したる際彼は中央政府に対する忠誠を廃棄し満州において行動の完全なる独立を維持し遂には其の権力を長城以南に及ぼし北京の支配者となりたり。彼は外国の権利を尊重するの意あるを表明し支那の義務を承認したるも外国に対し満州に関する一切の事項に付いては今後自己の政府と直接交渉せむることを要求せり。

 依て彼は1924年5月31日露支協定が支那に有利なるに拘らず之を廃棄し1924年9月ソ連邦を説き之と別個の協定を締結せるが右は1924年5月31日の中央政府との協定と実質的に同一なり。右の事実は張作霖が内外政策に関し完全なる行動の自由を固持せることを明証するものなり。

 1924年彼は再び支那に侵入したるが馮玉祥将軍(クリスチャン将軍)が其の上官呉佩孚将軍(現在元帥)を戦闘の最も重要なる時期に裏切りたる為成功せり。其の結果中央政府は忽(タチマ)ち転覆し南方上海に至る迄張元帥の勢力拡大せり。

 1925年張元帥は又々武力に訴え其の同盟者たる馮将軍に対抗せり。此の戦闘に於いて彼の部下の将軍の一人郭松齢は最も重要なる時機に際し彼を裏切り馮将軍に味方せり。

 1925年11月の郭松齢の叛逆はソ連邦及日本にも関係し前者の行動は間接に馮将軍に有利して後者の夫れは張元帥に有利なりしを以て単に一時的の問題たるに止まらざりき。郭松齢は元帥の部下たりしに拘らず社会改革に関し馮将軍と見解を同じくし上官の没落が内乱終息に必要なりとの信念より彼に対し鋒を逆にせるものなり。右叛逆は元帥を甚だしく危機に陥れたり。郭松齢は鉄道の西方の地域を占領し居り元帥は著しく減少せる兵力を擁し奉天に在りたるが此の時日本は南満州に於ける自己の利益より南満州鉄道の両側に各20支里(7哩)の中立地帯を宣言し軍隊の之を通過することを禁止したり。右は郭松齢の元帥に対し進軍するを妨げ黒龍江より援軍到着の余裕を与えたり。援軍は現金を以て運賃を支払はざる限り鉄道輸送の許可を拒否せる「ソビエト」鉄道吏員の行動に依り遅延したるも他の行路に依り進むことを得たり。右援軍の到着及多少とも日本の与えたる公然の援助は戦闘を元帥に有利に導き郭松齢は敗北し馮将軍は後退を余儀なくせられ北京を張元帥の為遺棄したり。張元帥は右の際に於ける東支鉄道吏員の行動を憤り該鉄道の権利を絶えず侵犯し以て報復余す所なかりき。右事件の与えたる経験は彼をして満州三省の首都を連絡する独立の鉄道網を建設せしめたる重要なる要因たるの観あり。

 張作霖元帥が時を異にし宣言せる独立なるものは彼又は満州の人民が支那との分離を希望せることを意味せるものには非ず。彼の軍隊は支那が恰も外国なるかの如く之を侵略したるに非ずして単に内戦に参加したるに過ぎず。他省の軍閥と同様元帥は或は援助し或は攻撃し又は其の領域を中央政府より独立せるものと宣言したるも右は支那を個々の国家に分割するに至るが如き遣方にて為されたるに非す之に反し支那の内乱の多くは真に強力なる政府の下に同国を統一せむとする何等かの大計画に直接又は間接関係あるものなりて従って一切の戦争及「独立」の期間を通し満州は終始支那の完全なる一部たりしなり。

 呉佩孚に対する戦争に於いて張作霖及国民党は同盟せるに拘らず前者自身は国民党の主義を承認せざりき彼は孫博士の希望せる如き憲法は支那人民の精神と調和するものとは見受けられざりしを以て之を是認せざりき。

 然れ共張は支那の統一を希望せり。而して満州に於けるソ連邦及日本の利益範囲に対する張の政策は出来得べくんば両者を一層せんと欲したるを示せり。ソ連邦の範囲に関しては張は右政策の実行に殆ど成功し又南満州鉄道を同鉄道の培養地域の或部分より切断する結果を生ずべき上述の鉄道建設政策に着手したり。張が満州に於ける日ソ両国の利益に対し斯かる態度に出でたるは一は張が其の日ソ両国との関係に於ける自己の権威の制限を堪え難しとせると、他は張が支那における外国人の特権的地位に関し各種の支那世論と共に感じたる憤怨に因るべし。事実1924年11月張は孫博士を改革会議に招請したる処同博士は会議議題中に生活標準の改善、国民会議支召集及不平等条約の廃棄を包含せしめんことを求めたり。右会議は博士の重患に陥りたる結果開催を見ずして止みたるが、右孫博士の提議は孫張と元帥との間に一脈の諒解の相通ずるものあり、且両者の間に支那外交政策に関し合意の基礎を求め得べかりしを想はしむ。

 張作霖元帥は其の晩年に於いては日本に対し日本が各種の条約及取極に依り取得せる特権の利益を漸次容認せざる意向を示すに至れり。日本との関係は特に稍緊張したり支那における党派的闘争に関係せず専ら力を満州の開発に用ふべしとの日本の忠告に対し張は憤怨を感じ之を無視したるが、其の子張学良亦彼に倣へり。馮将軍敗北後張作霖は大元帥の称号の下に北方軍閥同盟の盟主と成れり。

 1928年張は第1章に説述せる北伐に際し国民党軍の為敗られ、日本より早きに及んで其の軍隊を満州に引揚ぐべき旨勧告せられたり。日本の目的は当時言明したる如く戦捷軍に追撃せられたる敗残兵の遁入に依り満州が内乱の災禍に投ぜらるることを防止せんとするに在りたる。

 右勧告に対し元帥は憤慨したるも結局之に従うの他なかりき。張は1928年6月3日北平(先の北京)より奉天に向け出発したる処翌日奉天市外即京奉線が南満州鉄道線の鉄橋下を通過する地点に於いて爆裂の為其の搭乗せる列車破壊せられ死亡せり。

 右殺害の責任は今日迄確定せられず。惨事は神秘の幕に蔽われ居れるも当時右事件に日本が共謀したるやの嫌疑起こり既に緊張し居たる日支関係に一段の緊張を加ふる原因となれり。

 張作霖の死後其の子張学良は満州の支配者と為れり。学良は新時代の国民的要望を多分に有したるを以て内乱を中止し国民党の統一政策を援助せんと欲したるが既に国民党の政策及傾向に付多少の経験を有したる日本は斯かる勢力が満州に浸透せんとする形勢は之を歓迎せざりき。日本は若き元帥に対し右の趣旨を勧告する所ありたるが彼は父と同じく斯かる勧告を不快とし自己の判断に従うべく決心せり。

 斯くて彼と国民党及南京との関係は緊密を加え1928年12月彼は易幟を行い中央政府に対する中順を宣言し東北辺防軍総司令に任ぜらるると共に内蒙古の一部約六万平方哩の面積を有する熱河を加えたる満州政権の長官たることを確認せられたり。

 満州が国民党支那と合体せる結果満州の行政組織は中央政府の夫れに近似する様多少の変更を必要とするに至り委員会制度採用せられ民党の各級支部設立せられたるが事実は従来の通旧制度の下に旧人物活動せり。支那に於いて不断に行われたる如き国民党支部の地方行政に対する干渉は満州に於いては容認せられず総ての主要文武官憲は国民党員たるべしとの規定は単なる形式として取扱われ軍事、政務、財務、外交等総ての問題に付中央政府との関係は満州側の自発的協力を必要とせり。無条件服従を要求するが如き命令又は訓令は容認せられざりしなるべく満州官憲の意に反したる任免の如きは想像し得られざりき。政府及党の問題に関する右の如き行動の独立は支那の其の他の各地方に於いても存したるが斯かる場合総ての重要なる任命は地方官憲に依りて行われ中央政府は単に之を確認するに止まれり。

 外交政策の範囲に於いては地方官憲は依然多大の行動の自由を有したるに相違なきも然も満州と国民政府との合体は相当重要なる結果を招来せり。東支鉄道の満州に於ける地位に対する張作霖元帥の執拗なる攻撃及日本の要求せる或る種の権利に対する無視は満州に於いては既に国民党との合体以前より「進取政策」の採用せられ居たることを示すものなるが国民党との合体後は満州は同党の良く組織せられたる且系統的なる宣伝に解放せられたり。同党は其の公式の印刷物に於いて又同党と関係深き多数の機関紙において常に喪失主権回復の極めて重要なること、不平等条約の廃棄、帝国主義の邪悪を強調するを止めざりき。支那の領土上に於ける外国の利益、裁判所、警察、警備兵又は軍隊の実体が明白なる満州に於いて斯かる宣伝が深き印象を与えたるは必然なり。国民党の宣伝は同党の教科書に依り学校に侵入し又遼寧人民外交協会の如き協会出現して国民主義的感情を鼓舞強調すると共に抗日煽動を実行し又支那人家主及地主に対しては日本人及朝鮮人たる借人への賃貸料の引上げ又は賃貸契約の更新拒絶を強要したり(本報告書付属の特別研究第9号参照)。日本人は当委員会に対し多数の此の種事件を訴え来れり。朝鮮人移民は組織的迫害を蒙れり。諸種の抗日的命令及訓令発せられ軋轢の機会は重なる緊張加れり。1931年3月各省首都に国民党省党部設立せられ続いて其の他の都市及地方に支部の設立を見たり。党の宣伝員にして支那より北上し来る者は次第に其の数を加え日本人は抗日運動の日に激化するのを嘆きたり。

 1931年4月、奉天に於いて人民外交協会後援の下に5日間の会議開催せられ満州各地よりの代表者三百余名之に参加し満州に於ける日本の地位一掃の可能性に付討議せられたるか其の決議の中には南満州鉄道回復の一項を含めり。当時ソ連邦及其の市民亦右同様の傾向に悩まされたるか一方白露人は何等返還すべき主権又は例外的特権を有せざるに係らず屈辱的虐待を蒙れり。

 内政問題に関しては満州官憲はその欲する権力をことごとく保持したり。而して其の権力の根本に触れざる限り彼等は中央政府の採用せる行政規則及方法に異議なかりき。

 国民政府との合体後間もなく奉天に東北政務委員会設立せられたるが右は中央政府の名目的監督の下にある東北諸省の最高行政官憲なりき。同委員会は13名より成り其の中1名を委員長に選べり。同委員会は遼寧、吉林、黒龍江及熱河の4省並びに1922年以来東支鉄道の行政管轄下に帰せる所謂特別区の政府の活動を指揮監督する責に任したり。同委員会は特に中央政府に留保せられたる以外のあらゆる事項を処理し且中央政府の法律規則に抵触せざる如何なる措置をも執り得るの権限を有し省及特別区の政府は右委員会の決定を実施するの義務ありたり。

 各省の行政組織は支那の其の他の地方に於いて採用せられたる組織と根本的には相異する所なきも満州を一行政単位として維持せんが為に特権を保持せること最も重要なる差異なり。尤も右特権無かりせば満州側の自発的合体は恐らく行われざりしなるべし。事実満州に於いては外部的変更に係らず旧事態引続き存在せり。満州当局は従来の如く其の権力が南京より来るよりも遥かに多く彼等の軍隊より来るものなることを認識せり。

 右事実は約25万に上る大常備軍維持せられ又2億ドル(銀)以上を費やしたりと伝えらるる大兵工廠の保持せられ居ることを説明するものなり。軍事費は全経費の80%に達したりと推計せられ其の残額を以て行政、警察、司法及教育の費用を支弁するに足らぬ又国庫は官憲に対し適当なる俸給を支給する能はざりき。而してあらゆる権力は少数軍人の手に帰したるを以て官職は彼等の手を通してのみ得られ斯かる事態の避け難き結果として親戚特寵、腐敗、悪政は跡を断たざりき。当委員会は右悪政に対する甚大の不平が広く各地に存するを認めたり。尤も右事態は満州に特有のものには非ざりしものにして支那の其の他の地方にも同様乃至更に悪化せる事態存在せり。

 軍隊給養の為には重税を課するの要ありたるが通常収入にてはなお不足せるを以て当局は省政府不換紙幣の価値を著々下落せしむることに依り更に人民に課税せり(本報告書付属の特別研究第4号及第5号参照)。右政策は殊に最近に於いて既に1930年頃に殆ど独占的となり居たる「豆類公買」に関連して行われたり。満州重要産物の管理権を取得することに依り当局は外国の豆類買入業者就中日本人に対し高値買入を強い以って其の収入を増大せんと欲したるが斯かる取引は当局が如何なる程度に銀行及商業を管理したるやを示すものなり。官吏は又同様にあらゆる私的企業に自由に従事し其の権力を利用して自己及その寵愛者の為に富を蒐めたり。

 1931年9月の事件以前の満州に於ける行政が不完全なりしは事実とするも同地方の或る部分に於ては行政改善の努力行われ殊に教育の進歩、都市行政及公共事業の方面に於いて若干の効果挙がりたることは之を認めざるべからず。此の時代において張作霖元帥及張学良元帥の行政の下に満州の経済資源の開発及組織に関し支那人民及支那の利益が従来よりも遥かに大なる役割を演ずるに至りたる事実は特にここに強調するの要あり(第8章及本報告書付属の特別研究第3号参照)。

 既述せる如く支那移民の増加は満州と支那の其の他の地方との経済的及社会的関係の発展に貢献したり。然れ共右殖民以外に此の時代に於いて日本の資本に関係なき支那鉄道殊に奉天海龍鉄道、打通鉄道(京奉線支線)「チチハル」克山鉄道、呼倫海倫鉄道建設せられ又萌蘆島築港計画、遼河改修事業及諸河川に於ける航行事業の開始を見たり。支那官民の多数は此等企業に参加するに至り鉱山業に於いては本渓湖、ボクリョウ、札賓及老頭溝炭鉱に関係を持ち其の他諸鉱山の開発に付単独責任を有したるが此等鉱山の多くは官立東北鉱業公司の指揮の下に採掘せられたり。支那人は猶黒龍江省の採金事業にも利益を有したり。森林業に関しては支那人は鴨緑江採木公司に於いて日本人との共同の利益を有し猶黒龍江省及吉林省に於いて伐木事業に従事せり。満州各地に農事試験場開設せられ農業組合及灌漑計画奨励せられたり。最後に支那人の資本は製粉及織物工業、ハルピンに於ける豆、油及小麦製粉事業。マユ(だと思う。文字が化けるため表記不能)及祚蚕絹、木綿及羊毛の紡績及製織工場に投ぜられたり。

 満州と支那の其の他の各地方との間の貿易亦増大せり(第8章及本報告書付属の特別研究第6号参照)。右貿易は一部分支那の銀行就中満州の主要都市に支店を設けたる中国銀行に依りて金融を受けたり。支那汽船及「ジャンク」は支那本部と大連、営口(牛荘)及安東との間を往復したるが其の運輸貨物量漸増し満州海運業界に於ては日本のトン数に次第2位を占めたり。支那保険業も漸次増加の趨勢に在り又支那海関対満が貿易に依り取得する収入は増加しつつありたり。斯くの如く日支衝突以前に於いては満州と支那の其の他の各地方との政治的及経済的連繋は漸次強固を加えつつありたり右漸増しつつありたる相互依存関係は満州及南京に於ける支那人指導者をしてロシア及日本の取得せる権益排除を目的とせる国民主義的政策を益々実行せしむるに與て力ありたり。


3、対露関係


 1894-95年の日清戦争は其の後の事件の立証せる如くロシアをして表面上は支那の為に而して事実上は自己の利益の為に支那に対し干渉を為すの機会を与えたり。日本は1895年、下関条約に依りて日本に譲渡せられたる南満州に於ける遼東半島を外交上の圧迫に依り支那に返還するの余儀なきに至りたるかロシアは日本が支那に課したる戦争償金の支払に付支那を援助したり。1896年、露支両国間に防守同盟密約締結せられ同年ロシアは上述の対支援助の報償として満州を横断して「チタ」よりウラジオストックに至る直通線をシベリア横断鉄道の支線として建設する権利を獲得したり。同線は日本が再び支那を攻撃したる場合にロシア軍隊を東部に輸送するの必要に出でたりと称せられたるが露清銀行(後の露亜銀行)は本計画の官的色彩を多少隠蔽せんが為に設立せられたり。同銀行は本件鉄道の建設及運輸の為に東支鉄道会社を設立したり。1896年9月8日、露清銀行と支那政府との間に締結せられたる契約の条項に依れば東支鉄道会社は本件鉄道を建設し80年間之を運転すべきものにして其の期間満了後は無償にて支那の所有に帰すべきものなるが支那は30年後に於いて協定せらるべき価格を以って之を買収するの権利を有したり。契約期間中は鉄道会社は其の土地に対し絶対的排他的の行政権を有すべきものなりしが本条項はロシアに依りて契約の其の他の諸条項が許与せりと認めらるるより遥かに広義に解釈せられたり。支那はロシアが契約の範囲を常に拡大せんと試みつつあるに対し抗議したるも之を阻止する能はざりきロシアは東支鉄道の地域内に於いて其の鉄道都市の急激なる発達に伴い主権にも等しき権利を行使するに漸次成功したり。猶支那は鉄道の必要とする総ての政府所有地を無償にて引渡すに同意したるが私有地は時価を以って買上げ得ることとしたり。鉄道会社は更に同社に必要なる電信線を建設運用することをも許与せられたり。

 ロシアは1898年、かつて日本が1895年放棄を余儀なからしめたる遼東半島の南部に対し25ヶ年間の租借権を得ると共に東支鉄道を哈爾賓より、租借地内の旅順及「ダルニー」(現在の大連)に連結するの権利をも取得したり。右支線の通過地方に於いて鉄道会社は列車用として伐木採炭の権利を認められ又1896年9月8日の契約の各条項は新支線にも適用せられたる。ロシアは租借地内においては自由に関税を取極むることを許され1899年ダルニーは自由港たるべき旨声明せられ外国の船舶及貿易に開放せられたり。右支線の通貨地域内に於いては如何なる鉄道特権も他国臣民には許与せらるるを得ず且租借地北方の中立地帯に於いては如何なる港も外国貿易に開かるることなく又ロシアの同意なくしては如何なる特許特権をも許与せらるべからざりき。

 1900年露国は匪団の蜂起が露国臣民を危殆ならしめたることを理由として満州を占領せり。他の諸国は之に抗議し且露国軍隊の撤退を要求したるも、露国は右の措置を執ることを遷延せり。1901年2月露支秘密条約案「セント・ピータースブルグ」に於て討議せられたるが、其の条項に依れば支那は、満州に於ける其の行政権を回収し、之が代償として、露国が1896年の基礎契約第6条に基づき樹立せる鉄道守備隊の維持を承認すること及他の諸国又は其の臣民に対し露国の同意なくして満州、蒙古及新疆に於ける鉱山又は他の利益を譲渡せざることを約することとせり。該条約案の右条項及他の数条項周知せらるるに及び、支那及他の諸国に於いて世論の反対を惹起し、1901年4月3日露国政府は右計画は撤回せられたる旨の回章を発したり。

 日本は右策動を注視し来りたり。1902年1月30日、日本は日英同盟条約を締結したるを以て一層自国の安固なるを覚えたり。然れども日本は依然露国が朝鮮及満州に侵略し来ることあるべきを懸念したり。従って日本は他の諸国と共に満州に於ける露国軍隊の撤退を要求せり。露国は自国のものに非る企業に対し事実上満州及蒙古を閉鎖するに至るべき条件の下に撤退に異存なきことを宣言せり。露国の圧迫は朝鮮に於いても亦増大せり。1902年7月露国軍隊は鴨緑江の河口に現れたり。其の他数多の行為は日本をして露国が日本の生存に対する脅威に非ずとするも日本の利益に対する脅威たる政策を執るに決したりと信ぜしめたり。1903年7月、日本は門戸開放主義の維持及支那の領土保全に関し露国と商議を開始したるが何等成功を見ざりしを以て1904年2月10日開戦せり。支那は中立を保ちたり。

 露国は敗退せり。1905年9月3日、露国は「ポーツマス」条約を締結し之に依り日本の為に南満州に於ける其の特殊権益を放棄せり。租借地及租借に関係せる一切の権利は日本に譲渡せられ同時に旅順口長春間の鉄道及其の支線並びに右鉄道に附し又は右鉄道の利益の為に経営せらるる右地域内の一切の炭鉱も亦日本に譲渡せられたり。両当事国は租借地を除き、各自の軍隊に於いて占領し又は其の管理の下に在る満州全部を挙げて全然支那専属の行政に還付することに同意せり。両国は満州に於ける各自の鉄道線路を保護せんが為(特定条件に基づき)守備兵を維持するの権利を留保し、右守備兵の数は1km毎に15名を超過することを得ずとせり。

 露国は其の勢力範囲の半ばを失い爾来其の範囲は北満州に限定せらることとなれり。露国は同地方に其の地位を保持し爾後其の勢力を増大したるが、1917年、露国革命勃発するに及び支那は右地域における其の主権を再び主張する決心をなせり。

 初め支那の行動は連合国の干渉(1918-20年)参加に限定せられ居たるが、右干渉は露国革命後シベリア及北満州に於いて迅速に拡大しつつありたる混乱状態に関連し、浦塩斯徳に集積貯蔵せられたる莫大なる兵器軍需品の保護及東部戦線より西伯利亜経て退却中なりし「チェコ・スロバキア」軍約5万の撤退援助の両目的の為北米合衆国に依り提議されたるものなりき。右提議は受諾せられ且各国はシベリア横断鉄道の各自の特定部分を担任すべき7千名の遠征軍を派遣すべく、東支鉄道は支那軍の単独の責任に委することに協定せられたり。連合国軍隊と協力し鉄道の運行を確保する為一の特別の連合国鉄道委員会は1919年組織せられ右委員会の下に技術部及輸送部を配せり。1920年右干渉終了し連合国軍隊は日本軍を除きシベリアを撤退したるが、日本軍は既に過激派と公然敵対状態に入り居りたり。右戦闘は殆ど2ヶ年に亘り続行せり。1922年「ワシントン」会議後、日本軍亦撤退し同時に連合国委員会は其の技術部と共に消滅せり。

 其の間支那は、東支鉄道の首脳者ホルヴァト将軍が鉄道地帯に一独立政権を樹立せんとする企図に失敗したる後、右地帯に於ける秩序維持の責任を引き受けたり(1920年)。同年支那は改造後の露亜銀行と一協定を締結し、且新ロシア政府と協定の締結ある迄暫時鉄道の最高支配権を執るの意向を表明したり。支那は又1896年の契約及会社の原定款に依り会社に許与せられたる諸便益を回収するの意向を表明せり。爾来会社督弁及董事4名並びに稽察局員2名は支那政府之を指名することとなれり。ロシアの優勢は又其後行われたる他の多くの措置に依り衰えたり。鉄道地帯に於けるロシアの武装兵は武装を解除せられ支那兵に代われりと。ロシア人の治外法権は廃止せられたり。其の法廷は侵入せられ且閉鎖せられたり。ロシア人は支那の法律、裁判及課税に服せしめられたり。ロシア人は支那警察が大なる権力を有し且統制不充分なりし為右警察に依り逮捕せられ且無期限に拘禁せらるべきこととなれり。

 1922年、従来会社の行政に服し来たる鉄道付属地は奉天に対し直接責任を負う一行政長官の支配する東三省の特別区に改編せられたり。鉄道に付属する土地の行政にも亦干渉を受けたり。張作霖元帥はロシア新政府が承認せらるるに先ち事実上ロシアの勢力範囲を清算し了りたるか私人の利益は右経過中に於いて甚だしき侵害を受けたり。ソビエト連邦政府が其の前政府の満州に於ける遺産を継承せる時には同鉄道は既に其の特権の大半を失い居たり。

 1919年及1920年ソ連邦政府が為したる支那に関する政策の宣言は帝政政府が支那に於いて獲得したる特権殊に北満州に於いて獲得したる特権の完全なる放棄を包含せり。右政策に従い、ソ連邦政府は新協定に依りて既成事実の調整を行うことに同意せり。1924年5月31日のソ支協定に依り東支鉄道は共同管理下の純商業的企業と成り支那も亦右企業に財政上の利益を獲得せり。然れどもソ連邦政府は広大にして範囲確定せざる権力を行使する総支配人の任命権を有し且右協定に依りソ連邦政府鉄道業務に優越せる勢力を振い又北満州に於ける其の経済利益の重要部分を保持し得たり。上述の如く北京に於いて支那政府と締結せられたる1924年5月の協定は張作霖之を承認せん、自ら別個の協定を締結することを主張したり。1924年9月調印せられたる右協定は其の条項殆ど同一なりしも之に依り鉄道の租借は80年より60年に短縮せられたり。右協定はソ連邦及満州に於ける張作霖政府間の友好関係の一期間を招来せざりき。

 1924年の2協定に於いて未解決に残されたる多くの問題を処理すべき会議の開催は各種の口実に依り延期せられたり。1925年及1926年に於いて両度に亘り東支鉄道総支配人は張作霖軍隊の鉄道輸送を拒絶せり。右第2次の拒絶事件に依り総支配人逮捕せられソ連邦は最後通牒を発するに至れり(1926年1月23日)。而して此等は孤立せる事件には非ざりき。然るに支那官憲はロシアの利益に反し且ソ連邦政府及白系露人に依り均しく遺憾とせられたる政策を固執せり。

 満州が南京政府に服属したる後、国民主義精神は力を増し、且鉄道に対し優越なる支配を維持せんとするソ連邦の努力は従前に比し一層反感を以て迎えられたり。1929年5月、ロシアの利益範囲の残存せるものを清算し終らんとする企図行われたり。攻撃は各地に於ける支那警察のソ連邦領事館襲撃に依り開始せられたるが、支那警察は多数を逮捕し且ソ連邦政府及東支鉄道の雇用者が共産主義革命を陰謀し居たることを証する証拠を発見したりと主張せり。7月、鉄道の電信電話機関は押収せられ且多数の重要なるソ連邦機関及企業は強制的に閉鎖せられたり。最後に、東支鉄道ソ連邦支配人は支那側任命の者に事務を引継ぐべき旨要請せられたるも同人は之を拒絶したる為其の任務遂行を禁止せられたり。支那官憲は自由にソ連邦幹部を免職して自己の指名者を以て之に代え、且多数のソ連邦民を逮捕し其の一部を追放せり。支那側はソ連邦政府が支那の政治社会制度に反対する宣伝を行わざる旨の誓約に背きたりとの理由に基づき右強力好意を正当なりとせり。ソ連邦政府は其の5月30日付公文に於いて右非難を否認せり。

 残存せるロシア利権が強制に依り清算せられたる結果、ソ連邦政府は行動に出づべく決意したり。数度の公文交換を行いたる後、ソ連邦政府は支那より其の外交官及商務代表並びに東支鉄道に於ける其の職員全部を召還し且其の領土と支那との間の一切の鉄道交通を断絶せり。支那も亦同様にソ連邦との関係を断絶し一切の支那外交官をソ連邦領土より召還せり。ソ連邦軍隊は満州国境を越えて侵攻を開始し、1929年11月には武力侵入となるに至れり。南京政府が紛争の解決を託せる満州官憲は敗戦し且甚だしく威信を失墜したる後、ソ連邦の要求を承認するの止むなきに至りたり。

 1929年11月22日、ハバロフスクに於いて議定書調印せられ之に依り原状回復行われたり。右紛争中ソ連邦政府は不戦条約の締約国たる第三国よりの数多の覚書に対する解答に於いて常にソ連邦の措置は正当なる自己防衛の発動にして何等右条約違反として解釈し得ずとの態度を取りたり。

 満州に於ける日本の利益は次章に於いて詳説せらるべきも之に先ち今満州に於けるロシアの地位を叙述するにあたり、1905年以後の日露両国関係に付略説するの必要あり。

 日露戦争の殆ど直後に於いて両国間に密接なる協調政策行われたることは興味ある事実にして、講和成るに及両国は北満州及南満州に於ける各自の利益範囲に関し満足なる合意に到達することを得たり。残存したる抗争の痕跡は満州の発展に活発に従事せんと欲したる他の諸国との論争に依り間もなく拭い去られたり。他の競争者に対する憂惧は2国融和の過程を促進したり。1907年、1910年、1912年及1916年の諸条約は2国を益々親密ならしめたり。

 1917年のロシア革命、次て為されたる支那国民に対する政策に関する1919年7月25日付及1920年10月27日付ソ連邦政府宣言並びに1924年5月31日付及1924年9月20日付ソ支協定は満州に於ける日露の了解及協調の基礎を粉砕せり。政策の此の根本的変更は極東に於ける3国の関係を全く改編せり。更に連合国干渉(1918-20年)は之に伴えるシベリアに於ける日本及ソ連邦軍隊の確執と共に日露関係の変更を大ならしめたり。ソ連邦政府の態度は支那の国民主義的願望に強き刺激を与えたり。ソ連邦政府及「第3インターナショナル」は現行条約を基礎として対支関係を維持せる一切の帝国主義諸国に反対する政策を採用したるを以て右両者が主権回収の闘争に於いて支那を援助することはあり得べきことなりとせられたり。此の形勢の発展は日本が隣邦ロシアに対して嘗て抱きたる一切の懸念及疑惑を復活せり。嘗て日本と戦争したる露国は其の戦争後数年の間に友邦及同盟国と成りたり。然るに今や右関係は変化し、北満国境を越え来る危険の可能性は再び日本の関心事となれり。北部に於ける共産主義

者の教義と南部に於ける国民党の排日宣伝との提携の有り得べきことを想像し、日本は益々日露両国の間に共産主義及排日宣伝に染まざる満州を介在せしめんとする希望を感ずるに至れり。日本の疑懼はソ連邦が外蒙古に於いて獲得せる優越なる勢力及支那に於ける共産主義の発達に依り最近数年間に於いて更に増大したり。

 1925年1月、日本及ソ連邦間に締結せられたる協定は正規の関係を樹立せるも革命前に於ける密接なる協調を復活するに至らざりき。

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